『人が人を愛することのどうしようもなさ』
監督 石井隆

 十五年前に石井作品の『GONIN 2』['96]を観たとき、縄で絞られ縊り出た乳房のたわわな量感を晒しながらキッと見据えた視線のもたらす表情の凄艶さに打たれた覚えのある喜多嶋舞が、十一年を経た三十代半ばになって、同監督の『花と蛇』の杉本彩ばりに捨て身の演技で挑んでいる映画だと聞いて気になっていた作品をようやく観ることができた。

 僕の目には散々だった花と蛇2['05]とは比較にならない志と気合の窺えた花と蛇['03]でさえ、映画日誌にその観点から言えば、杉本彩の根性は見上げたもので、『花と蛇』的な心理責めではなく絵になる吊り物が主体のキツいシーンの連続技を次から次へと懸命にこなしている感じだった。責めのプロセスを描こうとせずにフェイドイン・アウトで荒技を連続して繋ぐ編集が更にプロセスの興趣を削ぐ形になっている。股間の茂みを惜しげもなく晒しつつ、様々な大開脚ポーズも厭わずに頑張っているのに、ろくに興趣の宿っていない画面を観ていると、何だか気の毒になってくる。と綴ったように、杉本彩の体当たり演技には圧倒されながらもドラマとしての興趣にはつながっていなかったことからすれば、本作の喜多嶋舞が演じた女優の哀しみには痛切なものがあって見事だった。

 結局のところ、女優の土屋名美(喜多嶋舞)が自身の出演した映画作品『愛の行方』で演じた女優鏡子の物語としてインタビュアー葛城(竹中直人)に語ったものが名美自身の物語であり、彼女の語る映画『愛の行方』のなかで大胆な露出演技を要する渡辺淳一もののような文芸官能作品というのが、実際のところは、女刑事の潜入捜査にかこつけてバイオレンス・エロを売りにするB級アクション作品の『レフト・アローン』だったということなのだろう。そうでないと、殴られて血と汚れにまみれた顔のまま、荒縄で縛り上げられて、はち切れんばかりになっている乳房に強力な電極を当てられ絶叫する場面を演じる出演作を経ていながら、文芸官能作品で大胆な露出演技に挑むことによって女優としてのステップアップを図るプロモーションを企てるなどという設定が成立するとは考えられない。

 十代の時分から苦労して人気アイドルとして成功しながらも、年齢とともにアイドルからの転進を余儀なくされるのが芸能界の消耗品としての女性タレントの宿命で、たまたま名美は、苦楽を共にしてきたマネージャーと運に恵まれ、女優への転身に成功したようだが、それもまた年齢とともに同じ路線では女優としてやっていけなくなるわけだ。加齢とともに常に変身を求められ、それに応じて演じていくのが女性タレントの宿命だとすれば、それはタレントに限った話ではないのではないかとの思いが、かねがね女性たちにはあるような気がしてならない。女から妻へ、妻から母へ、女性は常に変身を求められていると思っているような気がする。そして、演じるべき役割が宛がわれ、それに応えることに追われるから、“変わりない自分自身”を発現させる暇がなく、また、そんなものが求められたりもしないという不安と飢餓感が彼女たちを強迫しているように思う。本当は、変身が求められているのではなく、新たな役割が加わっているだけで、変じて前身を失えばむしろ不都合極まりないと思うのに、なぜか多くの女性がそこに“付加”よりも“変化”をイメージしている気がしてならない。

 だが同じ女性であっても“女性タレント”の場合は、職業的に転身が不可避であるため尚更にその切実感が増すし、加えて私生活でも十五歳年上の若好み亭主(永島敏行)と結婚していれば、その浮気行動によって脅かされる加齢不安が倍加するとともに、自分自身を見失っていくのも止む無いことのような気がした。女優というのは、本当にタフな仕事だと改めて思う。職業的にも公私を含めて常に演じることを余儀なくされ、しかもその技術を磨いていくのだから、何が本当の自分なのか皆目見当がつかなくなるとともに、台本のない人生において、自分が何を演じていけばいいのか次第に分からなくなるのだろう。

 そうしたときに“本当の自分”探しに囚われた女性が、女の“性”の部分に突出する形での逸脱を来すというのは、何とも哀れで仕方がないが、東電OL殺人事件の女性の売春行動を想起するまでもなく、ファンタジーに留まらないものがあるような気がする。己が出自を自身の生まれた産科医院の分娩台にまで遡らなければならないほどに、生まれてから後の全て一切の自身を形作っているものへの偽り感と不全感に苛まれていると思しき名美の姿が、痛ましくてならなかった。岡野(津田寛治)がマネージャーの職分を超え、自分の結婚生活を破綻に追い遣ってまで名美を守り支えようとしたのは、苦楽を共にしてきた同士以上の想いを抱いているからに他ならないが、いっそ異性として彼女の前に立ち現われる逸脱を彼のほうが果たし得ていれば、彼女の逸脱は食い止められたのかもしれないとも思った。だが、そうはできないところがまさしく岡野なのであり、名美の逸脱がそうであったように、全編が色濃い“どうしようもなさ”に彩られていて、実に哀しい物語だった。

 それにしても女性というのは、実に生きがたく難儀な性だと思う。相当なタフさを備えていなければ、とても生き延びられるものではなく、さればこそ、現に真っ当に生き延びている女性たちがこぞってタフなのも道理だと改めて思った。そのタフさを失って、持ちこたえることができなくなったときの女性の壊れ方というものを、圧倒的なインパクトで喜多嶋舞が演じ切っていた気がする。恐れ入った。



参照テクスト:ケイケイさんとの往復書簡の編集採録
参照テクスト:亀山早苗 著『マリッジ・セックス』読書感想文


推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20070911
by ヤマ

'11. 2. 8. 銀座シネパトス1



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