『マリッジ・セックス』を読んで
亀山早苗 著<新潮社>


 巻末の<著者紹介>によると『「妻とはできない」こと』『「夫とはできない」こと』といった著作のある'60年生まれの著者の'06年の本で、その両著を僕は読んでいないのだが、本作を読んで、あとがきに記してあった夫たちは、“妻とはできないこと”があると言う。妻たちは、“夫とはできないこと”があると言う。だが、ここに登場していただいたご夫婦は、口を揃えて、“夫婦でなければできないことがある”と言う。(P204)との部分が妙に面白く感じられた。両著において伴侶とはできないこととされていたであろうセックスは、おそらく本作において、夫婦でなければできないこととして語られたセックスとかなり通じ似かよったものだったのではないかという気がしたからだ。人は、己が“したい、したくない”を何故か“できる、できない”で表明したがる傾向にあるとかねがね思っているのだが、これが日本人に顕著な現象なのか、人間に普遍的なことなのか、若い時分から気になりながらも、いまだにどちらとも整理がつかないできている。

 それはともかく、これに則って“できる、できない”を換言するならば、「妻や夫とはしたくない」と思う人たちがいる一方で「夫婦だからこそしたい」と思う人たちも少なからずいるセックスというのは、要は、婚姻という“日常性”との位置関係において意味を持つ行為としてのセックスだということが、改めて浮かび上がってきているように感じられた。ヌード撮影から始まった所謂ハメ撮り写真、ラブホに通ってのビデオ撮影と鑑賞、バイブ使用やソフトSM、カーセックス、性交露出、複数プレイ、スワッピング、本格SMという本作に登場したメニューそれ自体に“夫婦であること”が決定的な要素になるものは何一つないように思うと同時に、いかにも『「妻とはできない」こと』や『「夫とはできない」こと』といった著作に出てきていそうに思われるものばかりだったからだ。幾ばくかの違いがあるとするならば、本書において多数のケースを取り上げていたスワッピングへの言及が両著においては、比較的少ない分SM事例を数多く拾い上げているのではないかという気がする。刺激だけを求めてエスカレートしているわけではない。むしろ、秘密の共有という精神的な絆が彼らの関係をより緊密なものにしているのだろう。(P31)ということが求められるのは、何も『マリッジ・セックス』に限った話ではなく、むしろ婚姻という形式的には非常に強固な“絆”を持たない関係のほうが必要としがちのように思える。そういう意味からも、やはり“できる、できない”とは別問題のような気がする。

 それにしても、写真夫婦(十年前の36歳の結婚13年のときから:同い年)、ラブホビデオ夫婦(五年前の夫35歳/妻33歳の結婚8年のときから)、ラブホバイブ夫婦(七年前の夫37歳/妻35歳の結婚11年のときから)、カーセックス夫婦(二年前の夫47歳/妻43歳の結婚17年のときから)、ソフトSM夫婦(三年前の夫42歳/妻45歳の結婚12年のときから)、他カップルとの性交相互鑑賞夫婦(一年前の夫39歳/妻43歳の結婚14年のときから)、3P夫婦(三年半前の夫36歳/妻25歳の結婚前から、一年前の夫53歳/妻37歳の結婚2年のときから、一年前の夫39歳/妻42歳の結婚4年のときから、五年前の夫63歳/妻55歳の結婚30年のときから)、スワッピング夫婦(三年前の夫45歳/妻41歳の結婚17年のときから、二年前の夫42歳/妻40歳の結婚13年のときから、七年前の夫42歳/妻42歳の結婚16年のときから、三年前の夫54歳/妻49歳の結婚27年のときから、五年前の夫63歳/妻55歳の結婚30年のときから、十年前の夫45歳/妻33歳の結婚5年のときから)、本格SM夫婦(八年前の夫42歳/妻36歳の結婚してすぐのときから)と順に並べてみると、日常をともにしているからこそ、エロティシズムが減っていくのが夫婦だが、それを逆手にとって、日常生活の中にエロティシズムをうまく取り入れ、生かしている夫婦もいるわけだ。(P40)との著者の感慨が、世の中には、セックスレスでもかまわないとか、セックスがあまり好きではないとか言っている女性たちがいる。…私自身は、性を重視するタイプだ。相手がいる限り、“セックスしたくない”と思ったことはない。だから、どうしても、性的関心が低かったり、性的エネルギーが少なかったりする人たちの気持ちが、今ひとつ腑に落ちないところがある。(P44)なかで結婚してたった三年で離婚してしまった私(P176)との思いから生じているものばかりではないように思えた。

 何らかのバイアスが係って著者が取材することのできた夫婦がたまたまそうだったのかもしれないが、さまざまな“刺激的メニュー”を「うまく取り入れ、生かし」始めたのがほとんどの場合、中年期に至ってからのことで、とりわけ妻が三十代後半になってから後であることが『マリッジ・セックス』においては特徴的であるような気がした。四十代半ばの女性である著者自身が女性の性的快感は、年齢を経るにつれて深まっていく。二十代よりは三十代、三十代よりは四十代ではないだろうか。更年期を経ると、心身が大きく変わっていくから、その後は個人差が大きくなるのかもしれないが。(P119)と実感に基づいて語っている部分が、大きく作用しているように思う。そして、結婚10年を越えてから後というのが大半であるのも『マリッジ・セックス』において特徴的なことのように感じた。『「妻とはできない」こと』『「夫とはできない」こと』といった先の著作で取り上げられているのが、いわゆる“十年不倫”の事例ばかりだとは到底思えない。

 加えて特徴的に感じられたのが、刺激的メニューの取り入れ始めは、戦略的であるとハプニング的であるとを問わず、ほぼ全てが夫唱であることと、夫婦外の者を介入させるメニューにあっては、さしもの中年期と雖も婦随に至るには難儀を伴っている場合が多い一方で、それさえなければ、子供のあるなしにかかわらず、比較的すんなりと婦随に至っているように見受けられたことだ。相互鑑賞であれ、3Pであれ、スワッピングないしグループセックスであれ、他者を介入させるものと“二人の秘密”という特別を共有しようとするものとの間には、けっこう大きな隔たりがあるように感じるが、そこのところへの掘り下げに乏しかったのが惜しい。

 だが、人間は複雑だ。ことセックスに関しては、肉体的には女性のほうがストレートだ。割り切れれば何でもできる。ところが男性はそうはいかない。(P148)というのは、著者とは性別を違える僕自身も大いに思うところだ。とりわけ忍耐と受容において、男は女性に及ぶものでは全くないような気がする。だからこそ、人間はやはり“脳で感じる”動物なのだろう。特に男性は。だから、即物的なセックスをするより、むしろ脳で矛盾や葛藤と戦っていくことで、セックスについてもより複雑で深い快感を抱くようになる。そして、ひいてはそういう複雑なセックスをともに味わえる配偶者との間に、深くて濃い絆を覚えるのだろう。(P159)ということになってくるのだろうが、逆に言えば、脳で矛盾や葛藤と戦う部分がなければ、複雑で深い快感は抱けないのがセックスというものであり、とりわけ男においては即物的なセックスに深い快感はないということだ。

 確かに生まれついての女好きで、それぞれの女性とかなり綿密で濃厚なつきあいをし、また新たな女性を見つけていく、というドンファンタイプはいる。一方で、女性と濃厚な関係を築く前に、何度か寝たらもう飽きて、次から次へと新しい女性との新しいセックスに溺れていく男性もいる。それは紘子さんが言うように、女好きとセックス好きの違いと分けてもいいのかもしれない。(P91)というような見解が成立するのも、それゆえのことのように思う。そして、これで言えば、僕はセックス好きではないようだ。
by ヤマ

'10.02.03. 新潮社単行本



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>