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『YOYOCHU SEXと代々木忠の世界』 | |||||
監督 石岡正人
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先ごろ観たばかりの『人間蒸発』['67]の映画日誌に「およそ総ての人が、カメラを向けられると必ず演じてしまうものなのだと思う。そして、演じること、演じさせることを以って“ヤラセ”などと言うのであれば、ヤラセのない作品など一切ないし、そもそも物事の虚実の別を決するものが“作品のスタイル”などであろうはずがない。 そのうえで、ドキュメンタリー映画の定義を…八十年前のジョン・グリアスンの時代の「現実のアクチュアリティをクリエイティヴにドラマ化する映画」とする立場から本作を眺めると、これは紛れもなくドキュメンタリー映画に他ならず、また、現代に生息している僕がイメージしている「そこに装われているものが客観性であれ、作家的主体性であれ、対象との距離感を問題意識として顕著に窺わせるジャンルの映画」という観点から眺めても、まさにドキュメンタリー映画以外の何ものでもない作品だったように思う。」と綴ったことがそのまま重ねられるような作品だったと思う。 代々木忠の作品を初めて観たのは二十七年前の『ザ・ドキュメント オーガズム』['83]だったと記憶しているが、その後は『好奇心』['84]ほか数本を観ただけで、スクリーン以外では彼のAV作品というものを観たことが一度もない。その『ザ・ドキュメント オーガズム』では、「モデルの女性の行為による肉体的・精神的変化というものに執拗なほど喰い下がる視線を持ち続けるなかで、やらせの部分を越えたところで、彼女一個人のものとして以上に、女という存在の肉体の貪欲さ、精神の図太さ、性というものの深遠さを窺わせた」と当時の日誌に綴っているが、昔、カメラのことを“カ魔~羅”などと言いながら撮っていたのは写真家の荒木経惟だったろうか、「映画というのは一秒間に24コマの速さで流れているもので、それを止められてどうこう言われても話になんない」と語る代々木忠の向けるカメラは、荒木以上に“カ魔~羅”そのものなのだろうという気がした。 ちょうど今読みかけている雨宮処凛の『暴力恋愛』に、新興宗教の教団での修行に嵌っている女性同士の会話として「例えば(さぁ)、セックスしてる時とかもそうだけど、あんまり気持ちよくなくてもなんか気持ちいいふりして声出してればだんだん自分も盛り上がってきてよくなることってない?…懺悔もね、そういうのと似てる気がする。自分で自分を盛り上げるそのやり方っていうのかな」(P163,P165 講談社単行本)という一節が二度にわたって忠実に繰り返されている箇所があったけれども、確かに、演じていることが“虚”で演じていないことが“実”であるなどというような単純さが人間に当て嵌まろうはずがない。代々木忠が一時期よく使っていた言葉だったような覚えのある“素”というのは、カメラの引き出した虚なのか実なのか、渾然としていて判然としないままに、カメラが捉えたとおり圧倒的に明瞭であることによって、途轍もなくパワフルだったような気がする。 そんな、カメラを向けているからこそ起こり得た出来事と、どのように対峙するかは、カメラを向ける作り手の立ち位置として相当の難題であって、さればこそ僕は、ドキュメンタリー映画を“そこに装われているものが客観性であれ、作家的主体性であれ、対象との距離感を問題意識として顕著に窺わせるジャンルの映画”としてイメージしているわけだが、『暴力恋愛』という小説が、まさしく雨宮処凛の出演したドキュメンタリー映画『新しい神様』['99]を撮った土屋監督との関係性から触発を得た「私と(土屋君ならぬ)達也君」の恋愛を描いた作品であるからこそ、そのことを非常に興味深く感じながら読んでいるところだ。そして『暴力恋愛』における達也君の作り手としての立ち位置の脆弱さを思うと、代々木忠の強靭さは並外れていて圧巻だ。“いんらんパフォーマンス”シリーズの中心メンバーだった栗原早記が“チューサマ”と呼び、「一時期自分の全てであって、他の誰とでも出来てもチューサマとはきっとセックスは出来なかったと思う」と語るほどの関係を恐らくは幾人もの女性と交わし、男優も含めてその人生に大きな影響を与えながら、揺るぎなきAV道を貫いて古希を超えた今も撮り続けているのだから、何とも大したものだ。 参照テクスト:雨宮処凛 著 『暴力恋愛』読書感想 推薦テクスト:「なんきんさんmixi」より http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1669599831&owner_id=4991935 | |||||
by ヤマ '11. 2. 8. 銀座シネパトス2 | |||||
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