美術館夏の定期上映会“フレデリック・ワイズマンのすべて@”

(2日目)
『基礎訓練』 (Basic Training)['71] 監督 フレデリック・ワイズマン
『シナイ半島監視団』 (Sinai Field Mission)['78] 監督 フレデリック・ワイズマン
(3日目)
『DV』 (Domestic Violence)['01] 監督 フレデリック・ワイズマン
『霊長類』 (Primate)['74] 監督 フレデリック・ワイズマン

 11月3日の県立美術館18周年開館記念日から始まった“フレデリック・ワイズマンのすべて”は、全6日間の日程で16作品が用意されているが、この土日の2日間に上映された6作品のなかから、4作品を観た。

 土曜日に観た『基礎訓練』に関しては、昨年観た藤本幸久監督のワンショット・ワンキル 一撃必殺のほうが、その訓練模様について、よりインパクトのある作品化を果たしていたように思うが、そう言えばゲストとして来高していた藤本監督もきちんと許可を得て撮影したと言っていたことを思い出した。あちらは陸軍ではなく海兵隊だったが、作品を見れば、こんな映画の許可をした覚えはないと言われるのは間違いなく、それどころかアメリカ入国禁止になると思うと監督が話していたような覚えがある。

 昼食休憩後の『シナイ半島監視団』を観て思い出したのは、カーター外交の大きな成果として僕の記憶にあった“キャンプ・デービッド合意”のことだった。帰宅後に調べてみたら、図らずも本作品の製作された '78年だった。やはりそういった背景があるからこそ、国連軍とは一線を画し、非武装で平和維持活動に従事するSFM(シナイ半島監視団)が、アメリカ一国の主導によって展開されていたのだろう。
 後のイラク問題におけるアメリカ主導の強硬策と対照的な在り様だが、SFMに従事している人々のリベラル感と自負心に富んだ群像と、武器を手にしている国連軍との対照が効いていて鮮やかだったように思う。
 映画の最後のほうに出てきた♪祖国を離れて7000マイル♪とギターを手に歌っていたSFMのメンバーの人間味と誇りを感じさせる姿が、武器を持った兵士たちの無表情や行進と明らかに対置されていたような気がする。
 それにしても、ドキュメンタリー映画とは思えない構図やカット割りに唖然とした。劇映画的筋書きのようなものを紡いでいないだけで、画面だけを観ていると、劇映画とほとんど変わらないように感じた。

 土曜日は、このあと『パナマ運河地帯』(Canal Zone)['78]も上映されたのだが、174分の長尺に怖気付いて退散した。若いときのようには、貪欲になれなくなっている“寄る年波”を感じた。


 日曜日に上映された3作品のうちチチカット・フォーリーズは12年前に観ていたので、この日も用意されていたプログラムのうち2作品を観た。

 上映時間が三時間超の『DV』では、ドメスティック・バイオレンス問題そのものについて特に新たな知見が得られたわけではなかったが、さすがDV問題の先進国アメリカらしく、十年前から既に被害者が女性の場合以上に埋もれていると思われる男性のDV被害の問題に言及していたり、対応施設が子供も収容し、有資格スタッフによる教育養育までもが受けられる体制にしていることに感心させられた。児童虐待は児童相談所が扱い、DVに対応する女性センターなどでは子供への対応が十分にできない場合がほとんどの縦割り行政の日本だが、DVというものはそれが酷くなる際に児童の存在が大きく影響している場合が多いような気がしてならないと常々感じていた。だから、施設対応にはどうにも不備があるように感じていたので、流石DV先進国だと感心したのだった。それだけに、被害者の姿はかなり浮き彫りになっていたわりに、施設職員の姿が本音の窺える形で捉えきれていない不満が残った。
 被害者の女性たちにおける最大のテーマは“Brainwashing”だと板書され、グループにおいて自己表白を果たさせることがグループカウンセリングとして実施されている様子が映し出されていたが、作品の最後に示されていた、加害歴のある夫のほうが警察を呼んだ事例現場に窺えるように、事の次第は実にデリケートだ。だからこそ、呼び出された警察も困惑していたこのケースの現場をエンディングに持ってきていたのだろう。
 それにしても、観客が少なかったのが残念だ。ある意味で政治色を受け取られかねない2日目のプログラムと違って、本作などは女性相談支援センターなども通じた広報を展開していれば、少なくとも今回のような15人程度の集客しか果たしていない惨状を呈することはなかったのではないかと思われる作品だった。
 企画初日の監督自身による講演会付き上映会が盛況だったのは無料だったからなのだろうが、そのことが呼び水にはなっていないどころか、有料で長時間となるとここまで動員が下がるようなら、やはり個々の作品において題材としている“調査”が訴求力を持ち得る団体などへの上映情報の丁寧なアウトリーチが不可欠だ。

 昼食休憩後の『霊長類』は、ワイズマン監督が言うところの“調査”による素材自体が実に圧倒的で、凄い作品だと思った。ちょうど今『猿の惑星 創世記』が公開されているが、シーザーが受けたような明らかな虐待ではなく、むしろ丁重に取り扱われながらも、実験動物の役割として施されている措置そのものがすさまじかった。
 脳に差し込まれた電極による刺激によって勃起と交尾を繰り返させられている雄と雌のマウント姿にしても、人工授精の研究のための精液採取をされている姿にしても、相当に残酷なもので慄然とさせられた。冒頭の霊長類の出産観察の場面の後に、ゴリラの交尾について、後背位がほとんどだが、自然界でも人工飼育でも正常位による交尾が観察されていると学者が話している場面が置かれていたのは、人間以外の動物が行わないと一般的に信じられていると思しき、いわば“人の人たる所以を示す性交体位”を取ることもある霊長類の類人性を提示する意図があったのだろう。それだけに生体実験の強烈さが効いてくるのだが、遂には生体解剖まで登場するに至って些か気分が悪くなった。公開当時、物議を醸したのは当然のことだろうと思うと同時に、二十五前に観た日本映画海と毒薬や十八年前に観た香港映画『黒い太陽七三一 戦慄!石井七三一細菌部隊の全貌、去年読んだ皆川博子の『死の泉』などを想起せずにはいられなかった。
 いかなる人であろうと人が人に対して行ってはならない行為であることに異議を唱える現代人はいないように思うが、人のために動物に対して行う場合の是非については、人における臓器移植の問題の是非と同じように、その目的や趣旨によっては必要もしくは止むを得ないものとする人と、あくまで否定し禁止すべきだとする人に見解の分かれる問題であるのは間違いない。
 性と生殖という人間が最も自身の動物性を意識しやすい切り口での霊長類の生体実験をクローズアップしたうえで、生体解剖へと繋げていった構成は、その問題意識の提示の仕方として実に的確かつ強烈で、いささか恐れ入った。



参照テクスト:皆川博子 著 『死の泉』読書感想
by ヤマ

'11.11.12〜13. 美術館ホール



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