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美術館秋の定期上映会“フレデリック・ワイズマン映画祭”
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一挙に15作品が上映されたのだが、60年代の3作品、7~80年代で3作品、90年代で1作品と都合7作品しか観られなかった。『福祉』『バレエ』『パブリック・ハウジング』が未見に終わったのは、何とも残念だ。60年代の圧倒的な力に比べると、7~80年代は精彩を欠き、90年代になって60年代とは違う形での魅力的な視線を発見し直したような印象を残している。 一般社会などという言葉が安易によく使われるが、初期のワイズマン作品を観ると、人間社会というのは個別の価値観やモラル、行動規範をもった特殊な社会の集合体であることを再認識させてくれるような気がした。特に『チチカット・フォーリーズ』は強烈で、ドキュメンタリーだからストーリー的な繋がりが緊密でないのは当然なのだが、そのことが不自然なくらいに一つ一つの場面が驚くほどの力を持っていた。よく練られた脚本と演出によって撮られたと見紛うばかりに、劇映画的な鮮やかさでもって立ち現れるのだ。しかもそれが、よくもキャメラを持って立ち会えたものだと驚くような、実にデリケートな場面を活写していて、キャメラの存在が写されている人たちにないのではないかと思わせるほどだ。さらにはそれが、まるでカット割をして撮られた場面であるかのような画面構成で映し出され、仰天させられる。そしてこれは、全ての作品に通じて言えることだが、ナレーションもインタビューも一切出てこない。写っている人たちがキャメラに向かって語りかけるどころか、意識して視線を向けることさえ一切ないのだ。 自分の見慣れたドキュメンタリー映画のなかでの力のある作品というのは、キャメラを手にした作り手が主体的に対象に関与して現場に踏み込んだライヴ感覚の生き生きしている作品だとか、インタビューという形で対象に対して主体的に関わっている作品であったことが多いような印象があるのだが、ワイズマンの作品は、それらとは対照的に、表面的には徹底して自らの主体性やポジションを消し去ろうと努めることで、逆に強烈な意志と主体性が浮かび上がってくるようなスタイルなのだと思った。 僕の観た初期の3作品は、一体どのような説得をして撮影許可を取り付けたのだろうと不思議な気がしたのだが、おそらくは編集後に残したような場面ばかりを撮影しようとはせずに、対象組織に溶け込んでありとあらゆる場面を長期にわたってひたすら撮り続けることで、キャメラへの警戒心や意識をできるだけ排除しているのであろう。編集時に捨て去られた膨大なフィルムのお陰で、組織にとっては日常茶飯でありながら外部から見ると実に強烈な場面だと思われるようなデリケートな瞬間に立ち会うことができたのであろうし、さらにはそのときにあれだけの臨場感に溢れながら無色透明の存在でもあるような、希有のスタイルを獲得できたのだろうという気がする。 組織に内在する権力行使の場面を捉えて圧倒的なインパクトを持っていたワイズマンだけに『軍事演習』には期待したのだが、正直なところ物足りなかった。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
by ヤマ '99. 9.25.~10.4. 県立美術館ホール | ||||||||||||||||||||||||||||||||
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