『ボクシング・ジム』(Boxing Gym) &監督講演会
監督 フレデリック・ワイズマン


 昨年に続く高知県立美術館の全館無料&夜間開館のお祭りイベントに、午後から夜8時の閉館になるまで終日うろうろしていたら、随分とたくさんの知人と出くわした。観覧したのは、県立美術館外庭でのコープスパフォーマンス『ひつじ』、1階回廊&中庭でのヤミーダンス・パフォーマンス『快感★記念』、2階展示室での『写真家・石元泰博の眼-桂、伊勢』、1階展示室での『日本近代洋画-名作への誘い・秋の喜遊曲-』、美術館ホールでの『ボクシング・ジム』(Boxing Gym) &ワイズマン監督講演会だったが、最も印象深かったのは、実に悪趣味極まりないと感じた『ひつじ』だった。

 わずか30分のこの屋外パフォーマンスは、なかなかいろいろなことを触発してくれた。ある意味、「一番の晒しものになっているのが、ひつじを精緻に真似る人間の姿を無邪気に笑うようになっていった観客である」という、実に挑発的な構造になっていて、その過激な趣味の悪さは、さすがのカナダテイストだったような気がする。
 駐車場の一画を板柵で囲い込み、緑の敷布のうえに藁束や数多の糞と思しき黒い塊を転がした場所に羊飼いが羊を追い込んでくるわけだが、その鳴き声や舌使いといい、いかにも動物的な呼吸を示す腹部の動きといい、擬態を超えた生々しさがあって、なかんずく、人間的意思と感情を消失させた動物ならではの澄んだ視線のありようを体現していて、慄然とさせられた。人間に動物の真似をさせる行為というのは、そこに人間としてのパワーアップやスケールアップを求める儀式や神事としての“様式化”が施されていない限り基本的には辱めであって、ただ四つん這いになることや鳴き真似をすることだけでも通常は激しく屈辱感を植え付けられる行為であるとしたものだ。だから、自ら行う場合には必ずと言っていいほど、戯画化や擬人化が施されていて、決してリアルのほうには向かわない。ディズニー的可愛らしさの演出や悪ふざけを装うのがルールであって、動物のリアルな生態を人間に精緻になぞらせるのは、ある意味、タブーと言ってもいいことなのだが、彼らのパフォーマンスにおいては、排尿や交尾も含めて実にリアルに演じられる。しかも、ただ一点、歩行のみが、どこかのアニメーションで見覚えのあるような二本足歩行の動きになっていて、それが、あくまでも“人間が羊になっていること”を意識させ続けるようになっていた。
 かような禍々しき面妖さを前にして人々に先ず訪れるのが当惑であろうことは充分に計算されているわけだが、その当惑に耐えきれないと人は怒るか笑うしかなくなるもので、最初の当惑から、誰かが笑いを洩らしたことを契機に次第に笑いの輪が広がって行った。しかも、徐々にその笑いが“笑うしかない笑い”から“ごく普通の笑い”に変質していったことが、僕には無性に気持の悪いものとして残った。想起したのは“いじめの現場”などで恐らくは生じているであろう笑いと、その笑いが推進力となって浸透していく馴れと鈍化だった。ひとつの場に集まった人間の様々な反応と営みの生み出す相互作用というのは、興味深くも実に恐ろしいと思いながら、後味の悪さに些か困惑した。

 このパフォーマンスを観たうえで話を聞いたこともあって、フレデリック・ワイズマン監督の講演は、非常に興味深いものとなった。99年に開催された美術館秋の定期上映会“フレデリック・ワイズマン映画祭でいくつかの作品を観て感じていたことが、概ねそのとおりであったことを本人の弁として聴講できてとても嬉しく感じた。
 「私はずっと“施設”を取り上げて映画にしてきています。」との言葉とともに語られた内容は、まさしく十二年前に人間社会というのは個別の価値観やモラル、行動規範をもった特殊な社会の集合体であることを再認識させてくれるような気がしたと日誌に綴ったような社会観と関心の持ち方そのままだった。また一体どのような説得をして撮影許可を取り付けたのだろうと不思議な気がしたのだが、おそらくは編集後に残したような場面ばかりを撮影しようとはせずに、対象組織に溶け込んでありとあらゆる場面を長期にわたってひたすら撮り続けることで、キャメラへの警戒心や意識をできるだけ排除しているのであろう。編集時に捨て去られた膨大なフィルムのお陰で、組織にとっては日常茶飯でありながら外部から見ると実に強烈な場面だと思われるようなデリケートな瞬間に立ち会うことができたのであろうし、さらにはそのときにあれだけの臨場感に溢れながら無色透明の存在でもあるような、希有のスタイルを獲得できたのだろうという気がする。と綴っていた部分については、まさしくその言葉通りと言ってもいいような説明がワイズマン監督自身からされた。あらかじめ主題設定することは皆無で、彼自身が“調査”と呼んでいるとの、通常100時間から150時間に及ぶフィルムの“素材としての収集”を始めるのだそうだ。
 そして、ラッシュフィルムのなかから目を惹くカットやシークエンスを取り出して先ずは半分ほどにしたうえで、その素材を使って構成できるドラマや主題を、まさに作家が小説を書くように、脚本化していくのだそうだ。これはまさしく、十年前の美術館冬の定期上映会“空想のシネマテーク 第1回:「ドキュメンタリーとアバンギャルド」で講師の西嶋憲生氏が教えてくれた、創成期のドキュメンタリー映画の意味していた現実のアクチュアリティをクリエイティヴにドラマ化する映画そのものに他ならないということだ。

 そのような方法論と関心でもって撮り上げた作品によってワイズマン監督が提示しようとしているものが何なのかを考えたときに浮かんだのは、当日、上映されたばかりの最新作『ボクシング・ジム』そのものではなく、十二年前に観た作品群であるとともに、先刻観たばかりのコープスパフォーマンス『ひつじ』のほうだった。美術館という施設に集った人々が『ひつじ』を観て露にする生態というのは、ワイズマン的関心としては、長大に及ぶラッシュフィルムのなかでも必ずや採択される部分であろうという気がしてならなかった。
 奇しくも『ひつじ』公演は、観客を含めてカメラ撮影が当然のように記録としてなされていた。三脚に据えられたカメラの存在が目に入っていたか否かは各人によって異なろうが、カメラを意識して公演鑑賞態度を変えているというような人は確かに見当たらなかった。講演においてワイズマン監督が「あくまで私のケースでしかないが」と断ったうえで、「経験的にハイゼンベルクの原則(「観察者はその観察対象に影響を及ぼさずにはいられない」という意味でのものと思われる。)は当たらない」と言っていた意味は、そこにあったような気がする。

 今回の企画は、コミュニティシネマセンターが全国各地の映画専門施設と共同して行う「シネマテーク・プロジェクト」の第4弾として実施されたものだとリーフレットに記されていたが、第3弾の“ポルトガル映画祭2010が特集上映だけに留まっていて「シネマテーク・プロジェクト」の名を冠するには少々寂しいものだったことからすると、破格のレクチャーを提供してくれていて大躍進だと思った。惜しむらくは、通訳による翻訳時間を入れての一時間というのは、実質30分くらいにしかならないので、質疑も含めたものとしては消化不足にならざるを得なくなっていた点だ。監督の高齢を思えば仕方がないのかもしれないが、御本人はいたって矍鑠としていたので、もう少し何とかならなかったのだろうかと思わずにいられなかった。それだけ監督の話が興味深く、面白かったということだ。



推薦テクスト:「眺めのいい部屋」より
http://blog.goo.ne.jp/muma_may/e/15abc7b1a055a1070526a5dfbec8f88a
by ヤマ

'11.11. 3. 高知県立美術館



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