『死の泉』を読んで
皆川博子 著<早川書房>


 皆川博子の小説は、十年近く前に『みだら英泉』(新潮文庫)を読んだことがあるだけだが、ふと手にした本書には大いに感心させられた。

 ドイツ人作家の埋もれていた作品の翻訳小説として構成された作品世界には、その意匠に相応しい虚実のなかに、戦後ドイツの負った精神的傷と闇の深さが生半可ではない造形力によって、刻み込まれていたような気がする。ここに描き出された欧州人のメンタリティをかの地の人々がどう受け止め、評価するのか、ドイツやポーランドに知己を得ていれば、ぜひとも訊いてみたいと思わずにいられなかった。

 映画『白バラは死なず』('82)や白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々』('05)にも描かれていたクリストフ・プローブストに強い好意を感じていた(P74)というマルガレーテの手記をもとに、<白バラ>のメンバーの名をゲシュタポに教えた(P74)と彼女に告げた初恋の相手ギュンター・フォン・フュルステンベルクの名前で著わされていた『死の泉』には、二人の間に出来た子供を我が子として育てつつ、カウンターテナーの英才教育を施すSS幹部の医師クラウス・ヴェッセルマンが研究していた不老に係る人体実験と、ドイツ人に創氏改名されて引き取られ、唯美主義者であるクラウスが愛好するカストラートの美声を再現すべく養育された二人のポラッケ[ポーランド人]の少年エーリヒとフランツたちを加えた、深い因業に満ちた数奇な運命を辿った人々の人間模様が描かれていた。

 とりわけ僕の目を惹いたのはクラウスの人物造形だ。明確な意思と信条を信念のもとに卓抜した遂行力で義務と責任を負って果たそうとしている人物像の強烈さには、狂気として心理的に排除するだけでは済まないものがあったように思う。自己拡張の強大さとそこに恣意的な部分がいささかも入り込まない揺るぎなさに侮れない説得力があったからこそ、執念深く復讐を果たそうとしていたフランツが彼を憎みながらも、彼の嗜好をなぞっていた顛末が明らかになるラストに違和感ではなく、深みと怖さが宿るわけで、なかなか大したものだと思った。

 この作品を映画化するとしたら、怪物クラウスに相応しいキャスティングは誰なのかと思ったときに、その作中名からも作者のなかには、やはり『フィッツカラルド』のクラウス・キンスキーがいたのではなかろうかという気がした。

 戦後十五年にして、戦時を知らない若者たちに知らなかった。ドイツだけが悪者だと、教えられてきた。ドイツだけが悪逆であり残酷であり、恥知らずであり、世界にひたすら謝罪しなければならないのだ、と。(P184)との衝撃をポーランド人によるドイツ人虐殺のニュース映画やドイツの戦意高揚映画を見せることで与え、第一次大戦の後、ドイツがどれほど屈辱的な扱いを受けたか知っているか。ドイツは、第二次大戦を戦うほかはなかったんだ。そうしなければ、貧困と汚辱のうちに、国はほろびていた。自由、平等、友愛。そんなものは、フランス野郎の革命のときのたわごとだ。口先ばかりだ。ドイツの理念は、義務、秩序、正義だ(P224)といった説得などによって勢力を築きつつある極右の台頭を背景に、戦後十五年のドイツに生きる人々の姿が描かれる。

 元SS幹部でありながら悪魔の研究成果を有していたが故にアメリカの監視下に庇護され亡命を果たして生き延びつつアメリカは、まあ、一応ファッショではなかった。しかし、コマーシャリズムによる物質崇拝と、暴力と、単純な野蛮な正義感に、私は共鳴できなかった。どんなに故国に帰りたかったことか。ようやく帰国して、故国もまた、同じ体質に変わりつつあることを痛感した。物、物、もとめるのは物ばかりだ。私は、一人、思うほかはない。“世界は内面以外にどこにもないのだ”(P197)と嘯くクラウスの言葉のなかには、決してたわごととして片付けられないものがある。

 息子を去勢歌手に仕立て上げようとしている彼がギュンターに言った…ヒューマニズムこそ絶対の正義だなどと口にするつもりではあるまいね。人道主義は、戦線にあっては敗北につながるものだった。戦時の正義は、戦後は悪とされた。しかし、美はいかなる時にあっても、絶対だ。天賦の美は、最大限、最高に生かされるべきなのだ(P271)以上に強烈なのは、ぼくは、処置をむしろ心待ちにしているんです。…声を失ったら、ぼくに何があるでしょうか(P273)と美声の喪失を恐れる彼の息子ミヒャエルが、父親から与えられた小説や詩、戯曲などの文学書ばかりではなく、哲学書、美術書、科学関係から宗教書、医学書、神秘主義の書物までも揃っているのをギュンターは見た。ドイツ語ばかりではない。フランス語や英語の原書、ギュンターにはお手上げのラテン語の表題さえあった。少年の本棚とは思えないほどだ。学校に通わせないかわりに、クラウスは、書物はふんだんに与えている。(P274)と描かれた書架を前にしてギュンターに言ったあそこにある以上のものを、ぼくが得られるとは思いません。欲しいものは、すべて、あそこにある。いくつもの生を、ぼくは経験しました。太古から未来にわたる時に、身を置きもしました。ほかに何もいらない(P274)という言葉だった。そして、“世界は内面以外にどこにもないのだ”というリルケの詩の一節を(P197)口にするクラウス以上に、それを体現していたマルガレーテの姿だった。
by ヤマ

'10. 4.16. 早川書房



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>