間借り人の映画日誌 -『コキーユ 貝殻』-
『コキーユ 貝殻』
監督 中原 俊


 卒業アルバムの表紙にあった1967の文字からすると僕と六歳しか違わない。98年作品だから、四十六歳ということになる。主人公二人を演じた俳優の実年齢そのままだ。自分と年齢的に近いものがあるせいか、好きな役者だからか、たまたま気分的にセンチメンタルなもの思いをしていた時期と重なっていたからか、思いの外はまり込んでしまい、不覚のうちに涙を流してしまった。

 遠く忘れ去っていた時間を取り戻す喜びやどうしたってそれがうたかたのものでしかあり得ない切なさが、僕も身に染みる年齢になったということだろう。何もそれは恋心に限ったことではない。遠い記憶の彼方にあったものが思い掛けなくふつふつと甦ってくる時間の感覚そのものが、ある程度の年月を越し経てきた者には特別の情緒をもたらすものなのだ。ましてや恋心、なのである。そこのところの主従が転倒していない演出による“やり直しの恋”だからこそ、単なる不倫物語や同窓会で焼けぼっ杭に火がついて、などという安っぽい話にはならない。主題が恋以上に記憶であるという大人の映画の切ない味わいとして見事に結実していた。

 こういう映画を観ると、おこないの善悪とかではなく、いわゆる社会的成功も含め、人や状況に影響を及ぼす力を備えているかいないかでもなく、人となりが美しいか不細工かということこそが、人が生きている姿の値打ちというものなんだよなぁとしみじみ思う。品性を湛えた作品の味わいというものは、そのようなことを感じさせてくれ、本当にいいものだと改めて感じた。

 直子を演じる風吹ジュンの表情が何ともよく、浦山を演じる小林薫の朴訥さに共感が湧く。直子は、遠く幼い純な恋心の記憶を、辛く厳しい人生に荒んでしまうことから自分をからくも守る心の拠り所にしてきたのだろう。三十年の時を経て、記憶のなかでしかなかったものを現実のものとして確かめることを得、それに足るだけの素敵な恋であったことの確信を得た。おそらく直子は、谷川(益岡徹)の目に映った直子とはまるで別人の姿で浦山の前では存在することができたのだろう。それは装うとか偽るとかいうことではなく、浦山といるとそういう直子になれるのだ。それが女というものではないのかと思う。そして、そのことが自分でもたまらないほど嬉しく、愛しく、癒されていたに違いない。だからこそ、浦山の胸で呟く「やりなおしたい」という言葉が胸に迫るのだ。あのとき聞こえるほうの耳に囁いていれば…と。

 浦山には、直子のような記憶がない。不満も満足もとりたててない今を実直に生きているだけだ。記憶喪失ではないが、思い出を持たない人生とは、記憶というものがこれまで生きてきたことの現在への証である以上、生きた証を持てないでいる人生なのだ。直子との再会によって、浦山は自分の人生がそんな空しい人生ではないことを教えてもらった。直子といることで遠い記憶の彼方から、少しづつ少しづつ甦ってきた生き生きとした時間の数々は、ほかならぬ彼自身の記憶なのだ。小学校のとき助けてもらったと言われ、自分はそんないい奴じゃなかったはずだと言ったり、愛唱の詩だったことは思い出しても、これでいいかなぁと確かめないではいられない心もとなさでコクトーを口ずさんだりする。それでいい、それでいいと言われて見せる、含羞みながらも何とも嬉しそうな顔がいい。自分の人生から失われていた自分自身の時間を取り戻しつつある男のなかで穏やかにざわめく喜びの気配が心に染みる。

 同窓会に始まり、同窓会で終わる、きっかり一年間の構成にも、台詞や黙祷の部分に限らず、よく練られた丹精が篭もっていて愛さずにはいられない作品だ。傑作だと声高にとりたてるのではなく、胸のうちのお気に入りファイルにそっとしまっておきたくなるような映画だった。




推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました。」より
http://www.k2.dion.ne.jp/~yamasita/cinemaindex/kocinemaindex.html#anchor000155
by ヤマ

'00. 2.14. 県民文化ホール・グリーン



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

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