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『インビクタス 負けざる者たち』(Invictus) | |||||
監督 クリント・イーストウッド | |||||
作品に宿った魂が香気と言えるものを放つ映画を撮るような監督にクリント・イーストウッドがなっていることを痛感した。もちろんモデルであるマンデラ大統領の傑出した偉大さや、南アフリカ共和国代表チームのスプリングボクスがワールドカップ初出場初優勝を遂げたこと、大統領が“虹の国”というスローガンを掲げて南アフリカ共和国を一つにしようと腐心したことが、歴史的事実であることに負う部分は大きいのだが、『グラン・トリノ』に続き、イーストウッドが“受容と融和”を訴えるアメリカ映画を撮っていることに、強いメッセージ性を受け取った。 黒人大統領の出現とともに奇跡のような変革を成した十五年前の歴史的事実を今振り返ることは、先ごろ初の黒人大統領を選出して世界中にインパクトを与えたアメリカにおいても、今年ラグビーではなくサッカーのほうでワールドカップを開催する南アフリカにおいても、大きな意味を持つように思う。 それにしても“マディバ”と呼ばれたネルソン・マンデラ大統領の卓抜した政治的センスに驚かされた。彼が不屈の精神で獄中生活を送ったのは驚異的なことでありながらも、個の作業として在り得なくはないのが人間という存在だと思える部分があるのだが、“優れて関係性の把握と調整力を要する政治的センス”というものを磨くことは、27年間も監獄に囚われ幽閉されていた人物が、思索を深めることで得られるようにはなかなか思えなかったからだ。 しかし、考えてみれば彼は、獄中にありながら反アパルトヘイト運動の象徴として大きな存在感を発揮していたのだから、時の政府からさまざまな鞭と飴に揺さぶられ続けるという、極めて政治的な環境に晒されて過ごしていたはずで、言わば、そこらあたりの代議士秘書などという生半可な政治家修行とは比較にならないような“政治的スパルタ教育”を潜り抜けてきているわけで、繰り出される飴にも鞭にも屈することなく“I am the master of my fate:I am the captain of my soul”という自負と矜持を貫くなかで、卓抜した政治的センスを磨いたということなのだろう。 過程も結果も可視化された形で分かりやすく見せることができ、老若男女を問わず、興奮と一体感を生み出すことのできるスポーツというものを通じて愛国心を生み出そうとすることにしても、黒人には馴染みの薄いラグビーという競技への関心を引くために先ず子供たちから仕掛けていくという手順にしても、そして何よりも、経済対策や治安対策以上にそのことが最優先の政治的課題だと看破していて、実行し、見事に成功させたところが凄い。白人警備員の男たちと黒人少年が試合の進行に連れて次第に接近し、遂には一体となって喜び合う姿を挟み込みながら試合展開を運んでいた構成にマンデラ大統領の企図が鮮やかに可視化されていたように思う。彼が獄中で読んだというたくさんの書物のなかに、ドイツのナチス党に関するものがきっとあったに違いないとも思った。 だが、彼が卓抜していたのは、政治的センスだけではなく、その志の高さでもあったところが感銘深く、前任のデクラーク大統領の得ていた給与水準の2/3しか手にせず、残り1/3もの給与を慈善活動への寄付に充て、大統領も一期だけ務めて引退した潔さにこそ、僕は“I am the master of my fate:I am the captain of my soul”の自負と矜持の貫徹を一層強く感じた。卓抜した政治的センスを持ち且つ野心に囚われなかったことは、27年間獄中にあってなお屈せず、出獄後、大統領に選出されて“受容と融和”を訴えたこと以上の“奇跡”のような気がした。 そして、人が人を動かすうえでは、行動だけでも言葉だけでも事足らず、行動に裏打ちされた“言葉”あってこそのものであることも痛感した。マンデラの言葉にはそういう力が宿っていたことを、本作は、よく描出していたように思う。同じ言葉を発しても同じ力を持ち得るとは限らないのは、即ちそういうことであり、また、深い内実と実践を果たしていても、それを出力できる言葉を持たなければ、その内実や実践に見合うだけの力を発揮できないのが、関係性というものによって支えられている“人の営み”即ち社会なのだということを、強く印象づけられた。 マディバを演じたモーガン・フリーマンが見事で、白人をも惹きつけていく彼のカリスマ性をよく体現しているように感じた。マンデラの収容されていたロベン島を訪ねたスプリングボクスの主将ピナール(マット・デイモン)が、彼の入っていた独房の狭さと彼がそこで得た志の大きさとの乖離に絶句しつつ、教わった詩の一節“I am the master of my fate:I am the captain of my soul”を反芻している場面が効いていたように思う。 だが、諍いや憎しみを乗り越え“受容と融和”によって、白人も黒人も共に南アフリカ国民として一つになることを求めるうえで最も効果的だったのが、スポーツではあるけれど、敵を倒して勝ち上がり世界一になるプロセスであり、勝利という“結果”であったことには、それが人間というものの有り体の姿なのだと言えばそれまでだが、少々皮肉なものがあるような気がしなくもない。もっとも、さればこそ、殺し合う闘争をスポーツに昇華させることの意味があるわけだし、そうして生み出されたスポーツというものは、その趣旨に沿う形で最大限の活用が図られるべきものだとも言えるようにも思う。 推薦テクスト:「チネチッタ高知」より http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/1002_1.html 推薦テクスト:「映画通信」より http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20100209 推薦テクスト:「TAOさんmixi」より http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1409646587&owner_id=3700229&comment_count=16 | |||||
by ヤマ '10. 2.27. TOHOシネマズ3 | |||||
【追記】'23.10.27. 『42~世界を変えた男~』の日誌で言及した、BS世界のドキュメンタリー『ラグビーが起こした奇跡 歴史を変えた南ア代表チーム』に触発されて十三年ぶりに再見した。記憶にあったように、専らピナール主将(マット・デイモン)との関わりが描かれていて、チェスター・ウィリアムス(マクニール・ヘンドリックス)との関わりは殆ど描かれていなかった。序盤でマディバことマンデラ大統領(モーガン・フリーマン)の言う「赦しが魂を自由にする。赦しこそ恐れを取り除く最強の武器なのだ」との言葉が非常に重たく響いてくる、応報主義や憎しみの連鎖の不毛のことを思った。いまの時代、もう一度、マンデラが釈放され、ソビエト連邦が崩れた1990年頃に世界が目指したことを思い出さなくてはいけない。 劇中で大統領は「この国は誇れるものを求めている」とも言っていたが、95歳で亡くなった彼の存在は、その一つだろうと改めて思う。十四年前に観たっきりの『マンデラの名もなき看守』も再見してみたくなった。 | |||||
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