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『遠くの空に消えた』 | |||||
監督 行定勲 | |||||
これまでに『GO』('01)、『世界の中心で、愛をさけぶ』('04)、『きょうのできごと』('03)、『北の零年』('04)、『春の雪』('05)の順で観てきたが、行定勲というのは、実に達者な映画監督だと思う。ちょうどマイケル・ウィンターボトムのように様々な語り口をこなしつつ、いつもアベレージ以上の作品を撮っているような気がする。本作にしても、破天荒な物語のなかに“友情のきらめき”を鮮やかに閉じ込んで、ファンタジックで気持ちのいい映画に仕上げているように感じた。 チラシによれば、行定監督がオリジナル・ストーリーを書き上げてから、7年を経ての完成作品のようだ。ということは、まだ『GO』で脚光を浴びる以前の脚本だ。その点では、彼の映画作品としての語り口が様々なのに比して、以後の脚本作品はもちろん監督のみの作品でも、主題的には通じているように思われるものの原型が、この作品でストレートに現れていたように思う。すなわち、自分自身であれ他者であれ何かを“信じる力”というものが成し遂げることへのこだわりが、映画のスタイルという点からは捉えきれない彼の作家性というものを示しているような気がしたのだ。 冒頭から、空港に降り立った青年(柏原崇)が、飛行機の客室乗務員の女性が見つけて指さした、滑走路のある敷地のコンクリートの路面に付いている運動靴の跡にまつわる物語を始める際に「僕の話を信じてくれる?」との問い掛けがあったように思う。その彼の話は、運動靴の靴跡ではなく靴そのものが化石のように刻み込まれた、空港にあり得べからぬコンクリートの造形以上に、不思議で奇妙な物語だったのだが、僕は、その物語以上に、映画の持っている空気とリズムに魅了された。よもや日本映画で、クストリッツァ作品を髣髴させてくれる映画に出会えるとは思っていなかったので、ちょっと驚いたわけだ。 使われていた音楽の雰囲気もさることながら、クストリッツァ的な土着と猥雑のなかの生命感に溢れた画面作りに成功していたような気がする。そして、その生命感が、抗争や闘争をも包括して命の営みとするような肯定感を創造していたように思う。通常なら一番の悪役にされてしまうはずの空港建設計画推進者である公団の所長楠木(三浦友和)が悪役ではなく、かつては並外れた“信じる力”を備えた少年であったのに、いつしかそれを見失った迷い人として描かれ、その楠木少年に導かれるようにして得た“信じる力”を、彼との友情にもとる行為をしてしまったことで、却って保ち続けることになった土田少年が長じて生物学者になっていて、大事な役割を果たすという人生の綾が描かれていたところが気に入った。土田博士を演じていた小日向文世がなかなかにかっこよく、それだけでもこれはいい映画だと感じるほどで、僕にとってこの作品は、若い楠木亮介(神木隆之介)・土田公平(ささの友間)・柏手ヒハル(大後寿々花)の友情物語というよりも、むしろ楠木雄一郎・土田信平・今はBar“花園”のマダム(大竹しのぶ)になっている幼馴染みという、一世代前の三人の姿を偲ばせる装置としての子供世代の物語のように映っていた気がする。 それはそうと、空港建設に反対するチンピラ青年団長トバ(田中哲司)の性の目覚めの頃のアイドルがソフィ・マルソーだったということは、'80年代に思春期を迎えていたわけで、その彼が、若衆連のいっぱしのリーダー格を気取っている30代後半と思しき時代というのは、少なくとも'90年代後半以降になってしまう。とすれば、その当時小学生だった亮介が30歳くらいの大人になっている時代ということは、現代ではなく近未来になってしまうように思うのだが、どうもソフィ・マルソーのネタというのは、脚本を書いた行定自身のことだったのではないかという気がしてならない。 | |||||
by ヤマ '07. 9. 1. TOHOシネマズ8 | |||||
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