『今宵、フィッツジェラルド劇場で』(A Prairie Home Companion)
監督 ロバート・アルトマン


 チラシによれば、2006年11月20日に81歳で亡くなったアルトマン監督が同年に残した遺作のようだが、自身の死を予感していたのか、遺作としてあまりにも出来すぎのように感じられる作品ぶりに驚かされるとともに、自身の死がこれ以上望むべくもない演出効果をもたらしていたとも言える作品に感銘を受けた。何よりも、終わり消えていくことへの手向けともいうべきものが見事に宿っていて、全く否定的に捉えていない境地が立派だったように思う。ステージで一曲歌った後の楽屋で静かに死んでいた老歌手チャック・エイカーズ(L.Q.ジョーンズ)に、白いコートの金髪女性(ヴァージニア・マドセン)が掛けた印象深い言葉「老人の死は悲劇ではない」というのは、脚本・原案・出演をこなしたギャリソン・キーラーによれば、まさしくアルトマンの語った言葉だったようだ。
 この作品の原題になっている『プレイリー・ホーム・コンパニオン』というのは、30年以上も続いている実際の人気公開ラジオ歌謡番組の名前らしいが、映画のタイトルには、不定冠詞のAがついているから、現実の番組を指すのではなくて、「とある『プレイリー・ホーム・コンパニオン』番組」というようなニュアンスなのだろう。実際とは違って、ほんの僅かな聴取者しかいなくなった時代遅れの番組という設定で、この番組を続けているラジオ局を買収したテキサスの企業家(トミー・リー・ジョーンズ)が、番組放送を打ち切るべく、アメリカを代表する文豪の像と名前を掲げている収録劇場を取り壊すことになった最後の夜の収録ステージを描いたものだ。ギャリソン・キーラーにしてみれば、自身の持っている番組に材を得ただけで、何もアルトマンの遺作を意識していたわけではあるまいが、まさしく絵に描いたような葬送作となっていたように思う。オープニングは、数々のラジオ番組の音声の後、ケヴィン・クラインの渋い声で始まり、ギャリソン・キーラーの味わい深い歌声が続く、“声と歌”にとても味のある作品だった。出演者の全員が吹き替えなしで歌っているそうだが、アメリカの芸能界の厚みと力の程を思い知らされる感じだ。メリル・ストリープがあれほど歌が上手いとは知らず、とりわけ感心させられた。
 高校時分、僕はカントリー&ウェスタンが好きで、FMラジオでよく聴いていたのだが、そのことを何だか懐かしく思い出した。先日TVで、先頃亡くなったばかりの阿久悠追悼の歌番組をやっていたのだが、このときに歌謡曲を懐かしむ思いで聴いていた感じに近いものを感じた。カントリー&ウェスタンというのは、アメリカの歌謡曲に他ならないから、当然と言えば当然だろうが、クラシックやジャズにはない庶民的な情緒に溢れているところが値打ちなのだと思う。若い頃は、それゆえに日本の歌謡曲には飽き足りなさを覚えたものだが、今の歳になると、感慨深いものが湧いてくる。TVを観ながら、これだけ盛大に讃え追悼するのなら、その半分ほどでいいから、生前病床にあるときにしてやれば、さぞかし喜んだろうにと思いつつ、追悼番組なるものが決して故人のためにあるものではないことを思い知らされたのだが、それからすれば、死の直前に自らの手でかような作品を残していったアルトマンは何とも格好のいいフィルモグラフィーの閉じ方をしたものだと思った。
 味わい深い歌声とともに全編に流れている“肯定感”というものが何とも素敵だ。最後の収録ステージだからと感傷的になることなく、買収した企業家との闘いに立ち上がるでもなく受け入れて、いつもの歌をいつもどおりに歌い、いささか下品な歌の持つ人間性も大らかに肯定しつつ、二十年前に離婚したことの和解をステージで果たす姿が描かれるとともに、若い世代の台頭を促し送り出す姿が描かれる。そして、自身の手で葬り去ることにした番組のステージを観ながら、予期していなかった感傷を誘われているようにも見えた企業家アックスマンの姿がとても印象深く、キーラーが白いコートを着た金髪女性の姿をした天使に願った彼の死が思い掛けなく叶ってしまったことが、却ってフィッツジェラルド劇場の存続を妨げたようにも映る皮肉な味わいというものが、とても利いていたように思う。それらをも含め、チャックの死や劇場の取り壊しと同様に、まるごと受け入れ、肯定しているような後味が快かった。


推薦 テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/0709_3.html
by ヤマ

'07. 9. 1. 美術館ホール



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