『北の零年』
監督 行定 勲


 いかにも劇的に設えられた大きな物語で、史実に材を得ながらも随所にリアルさとは相容れない造形が目につくのだが、そのことが作品の傷になるよりも、2時間48分の大作を飽かずに見せ、大きな物語に相応しいうねりを織り込むことに奏功した佳作だと思った。このような堂々たる力強い作品のなかで“クニを作り守る”ことの本質を問い直されると、今、言葉だけで観念的に語られている国家国防論の虚しさが際立ってくるような気がした。

 この映画では実に率直に、“クニを作り守る”ということの本質が、定住し土地を捨てずに営為を重ねることに他ならず、それ以外の国家国防論は総て権力抗争や栄達手段の方便でしかないことが鮮やかに浮き彫りにされているとともに、クニを作るのも守るのも、権力ではなく民であることが痛切に描かれている。そして、男たちの勇ましい言葉や行動が“クニを作り守る”ことに何ら結びついてはおらず、殿を迎えるための家臣としての面目だったり、静内の実力者にのし上がる野望にいそしむことの口実でしかないことを痛烈に物語っていたように思う。烈臣小松原英明(渡辺謙)や間宮伝蔵(柳葉敏郎)、薬売りの持田倉蔵(香川照之)といった男たちの脆さやこすっからさを思えば、英明の妻志乃(吉永小百合)や伝蔵の妻加代(石田ゆり子)の備えていた大きさや強さは、子を産み、守り育てる母なるものを持つ女性の強さとして描かれていたように思う。このあたりについて、女性観客によっては敏感にアレルギー反応を誘発される人もいるような気がするが、男の僕が観る分には、そちらに引っ張られるよりも男の虚弱さが浮き彫りにされていることのほうに目が向いて、あまり気にならなかった。

 少なからぬ備蓄米を所持していたとはいえ、そもそも入植後の最重点事業が開墾作業よりも“殿のお住まい”を建造することであるのが、可笑しくも物哀しい。“侍文化の男性性”による倒錯加減が目に見える形で現れているわけだ。すなわち、お家であれ財力であれ、威信という後ろ盾なしには立脚できない男の情けなさと力の論理の前には極めて脆い男の弱々しさが、稲田家家臣の男たちと倉蔵という人物によっていかんなく描かれるとともに、後ろ盾を負わぬアイヌとして生きることで男でも凛々しくなれることを示した元会津藩士たるアシリカ(豊川悦司)の存在が、殊更に男性文化への皮肉として効いてくる配置になっていたように思う。チラシには原作表示がないので、那須真知子のオリジナル脚本ということになるのだろうが、そのような人物配置を施したうえで、どの男たちも悪人やまるでつまらない人物としては描かないことで、この男たちの問題というものが、造形された個々人の人格の問題ではなく、男文化の問題であることを浮き彫りにしていたように感じる。政府の役人となり、権力者として五年ぶりに再帰した英明に対し、住民の離村を防ぎ村人を守ることを申し立て、牧場経営で静内を支える志乃の育てた馬の軍馬への徴用を免れることで己が地位の温存を図るために、床に額をすりつけて懇願する倉蔵を叱咤する加代の姿には、女性の目に映る男の情けなさというものが集約されているような気がした。「夢は信じている限り、きっと実現する」という夫の言葉を信じ続けて牧場主になった妻志乃が大切に育てている馬を根こそぎ徴用していこうとする英明にしても、英明に土下座して懇願する倉蔵にしても、職務や役割への忠実さによって地位を守ることでしか己がアイデンティティとしての身の証を立てられない男たちの姿そのものだったように思う。

 加代によれば、倉蔵は、自分との間に出来た子どもと自分を大事にしてくれる男で、夫としてはむしろ伝蔵よりもよき夫であるかのような口ぶりでもあった。そこには飢えた身に差し延べられた賄いを退けられなかった自身の選択への免罪を志乃に訴えたい思いというものがあったにせよ、さればこそ、虚偽ではないことが窺える。倉蔵という男は、極悪非道一辺倒の人物ではなく、こすっからく自己利益を最優先させるために、持てる才覚を精一杯使って狡猾非情に振る舞いつつも、それなりの庇護と温情を妻子や村民に向ける部分も備えた男として造形されていたように思う。そして、観方によっては、武士の建前には囚われず実利に明るい商人として身を立て力を得た倉蔵は、ある意味、とても逞しい男でもあったわけだ。また、夢破れて後、見事に転身を図った英明のしたたかさについても、ある意味での逞しさだと言えるようには思う。しかも、転身後は完全に過去をなきものにして割り切っているのかと言えば、苦しい胸中を妻志乃に伝えに行かずにはいられない良心を保っていることが描かれる。だからこそ、男の逞しさというものがこういう情けない形でしかないことが浮き彫りになるわけで、女性たちの体現していた逞しさに比して見劣りが甚だしく、そこが痛烈なのだという気がする。

 それにしても、人が定住し土地を捨てずに営為を重ねることこそが“クニを作り守る”ことの本質なのだと改めて指摘されてみると、戦後の日本の歴史のなかでかつてないほどに国防を訴えている今の日本政府が、本質的な意味での“国を守ること”をいかにおろそかにしているかが鮮やかに浮かび上がってくるように感じる。地方住民と都市住民を分断しつつ、地方に住まうことに嫌気と不安を促す政策を推し進めていることが、国土を守ることと相反しているのは明白で、行政経営としての行財政運営の失敗のツケを払うことに躍起になっているだけでしかなく、“クニを作り守る”理念が些かも感じられないのが、何とも腹立たしい。古今東西において、外憂を煽るのは決まったように内患への目を背けることで権力の保持を図ろうとする国策の末期的症状で、そういう政策が辿るのは国力の疲弊か戦争への突入であることは、歴史が物語っていることだと思われるのだが、愚かしくも哀しくも、人間は飽くことなく、その歴史を繰り返しているような気がしてならない。


推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/0501_2.html
by ヤマ

'05. 2.27. TOHOシネマズ5



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>