『北京ヴァイオリン』(和イ尓在一起[Together])
監督 チェン・カイコー


 一年前にチャン・イーモウの『活きる』を観たときチェン・カイコーの『さらば、わが愛/覇王別姫』を想起しないではいられなかったように、この作品を観ると、同じ年のチャン・イーモウの監督作品『至福のとき』を思い起こさずにはいられない。どちらもベタと言えばベタな人情劇で、一人の子供に対して幾人もの大人たちが厚意と助力を注ぎ、多少の紆余曲折を経ながら、子供もそれをしっかりと受け止める物語だ。『至福のとき』では盲目の少女で、『北京ヴァイオリン』ではヴァイオリンの天才少年だが、どちらも血縁を超えた世代間の交わりに心打つものがあり、子供には大人が必要で大人には子供が必要だという、言わば当たり前のことながら、日頃あまり意識しないようなことを改めて強く感じさせてくれたりする。
 血縁を超えたところでの濃い交わりであるところがいい。そして、幾人もの大人が関わり、子供と関わることで大人たちが温かさや豊かさを取り戻し、得ていくところがいい。『北京ヴァイオリン』のチアン先生(ワン・チーウェン)にしても、リリ(チェン・ホン)にしても、チュン少年(タン・ユン)と関わることで前向きに生きる力を取り戻していたように見える。本来的に子供には、大人にそういうものを与える力があるような気がする。そして、養父リウ(リウ・ペイチー)にとっては、まさしく生き甲斐そのものでもあるわけだ。
 チャン・イーモウとチェン・カイコーの両作品を並べてみて思ったのは、チャン・イーモウが確信的に排除していたと思われる洗練をチェン・カイコーは、むしろ意識的に、ベタな人情劇に織り込もうとして映像的にも音楽的にも工夫を凝らしていたということであり、チャン・イーモウがシンプルな物語構造を指向していたのとは対照的に、チェン・カイコーがリウとチェン父子の関係にしても、リリやチアンの現在や過去にしても、過剰なまでに謎めいたものを仄めかしていたということだ。観る側の好みの違いによって支持の度合いも異なろうが、この両作品では好みの差を越えてチャン・イーモウが上回っているように、僕自身は感じた。
 チェン・カイコー自らが演じていた余先生が、内弟子の少女にチュン少年と比較して「上手くて正確だけれども、感情が宿ってない。だが、こればかりは技術と違って教えようのないものだ」と語る場面がある。どちらも国際コンクールに出場しておかしくない技量のなかでの特質の違いからくる差なのだろうが、知性のチェン・カイコーと感情のチャン・イーモウ、どちらも優れたセンスと技量を有しながらも、チェン・カイコーのほうが分が悪いように僕には感じられるということに重なる部分があって、印象深かった。また、余先生は、演奏家として成功をおさめている弟子に「客受けばかり狙った演奏をしていると音楽家としての成長が止まる」との忠告を与えたりもしていた。ベタな人情劇のなかにもこうした芸術論を持ち出したりするところがチェン・カイコーとチャン・イーモウの違いでもあったりするわけだ。
 リウ・ペイチーの演技の充実が、ドラマとしての設定や展開の無理を補って余りある働きを果していたように思う。そして、チェン・ホンの華ある美しさが鮮やかだった。それにしても、彼女がチェン・カイコー監督の妻だとチラシに書いてあって驚いた。かなりの年齢差じゃないかと思うが、チェン・カイコーもやるもんだ。


推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT」より
http://dfn2011tyo.soragoto.net/dayfornight/Review/2003/2003_06_23.html
推薦テクスト:「my jazz life in Hong Kong」より
http://home.netvigator.com/~kaorii/asi/henizaiy.htm
推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/0308-5party.html#pekin
推薦テクスト:「THE ミシェル WEB」より
http://www5b.biglobe.ne.jp/~T-M-W/moviepekinviolin.htm
by ヤマ

'03. 8.20. あたご劇場



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