『故郷の香り』(暖)
監督 フォ・ジェンチィ


 フォ・ジェンチィの監督作品は、山の郵便配達ションヤンの酒家も僕は気に入っているのだが、今回の映画はちょっといただけなかった。映画日誌に「その視線にあまりにも痛みや悔恨が希薄な気がして、半ばいい気なもんだという嫌味な後味が残った。」と綴った小さな中国のお針子と同じように、好きにはなれない作品だった。
 晴れて故郷に錦を飾る形で十年ぶりに帰郷した際、思い掛けなくも初恋相手と遭遇し、そのうらぶれた姿に「あれは暖[ヌアン](リー・ジア[李佳])か?」と思わず問い返しつつ、俄に掻き立てられた初恋の苦く甘い記憶に、数日の帰省者として浸った井河[ジンハー](グォ・シャオドン[郭小冬])の独白体の物語なのだが、彼が聾唖者の唖巴[ヤーバ](香川照之)と脚に障碍を負う暖の夫婦に残していったものを思うと、それは罪作り以外の何ものでもない気がしてならない。ジンハーもヌアンも知らずにいたはずのヤーバの秘密を画面に描きつつ、殆どをジンハーの独白体で描くということは、ナルシスティックな追憶に浸るジンハーを作り手が揶揄も撃ちもせず同調していることになるのだから、そのいい気さ加減はジンハーだけのものではないわけで、どうにも始末が悪いという気がする。
 ジンハーにしてみれば、都会の大学生活のなかでの遠距離恋愛を心の内に留め置き続けられずに、ヌアンへの想いが次第に薄れ、迎えに戻るとの約束を違えてしまった胸のつかえを、彼女に直接懺悔することで気持ちよく流せたのだろうが、性懲りもなく今度はヌアンの娘に「大きくなったら北京で学べるよう迎えに来るからね。」などという約束を口にしたり、「あれだけ深くヌアンを愛するヤーバと一緒になったほうが、彼女にとっても幸せだったのだ。」などと独り得心して北京に戻っていく姿を観ていると、いささか苛立ってきたものだった。
 粗野だが一途なヤーバは、ヌアンへのジンハーの手紙を密かに破り捨てるという姑息な邪魔立てによって、自分が横盗りしたと思っているからこそ、ヌアンと暮らす粗末な家をジンハーが訪ねてきたときに敵愾心と警戒心を露わにするわけだが、既に追憶の対象でしかない“過去”になっているジンハーが敵意や恨みを表さないのは単に道理でしかないにもかかわらず、親しく酒を酌み交わし、ジンハーが好人物であることにすっかり打たれてしまって、今後のことからすれば、しないほうがよいはずの懺悔をしてしまう。ジンハーが村にいた当時とは異なり、ヤーバに対しても絵に描いたような好人物であれるのは、数日間の帰省者として親切と好意のみを表しやすい形でまみえたこととヌアンへの疚しさがあってのことだと思われるのだが、ジンハーの出現のおかげでヤーバは、それまでずっと飲み込み、自身の内でのみ引き受けてきたはずの秘密を、ジンハーにヌアンを返そうという覚悟の思いで吐露してしまうわけだ。しかし、もとよりジンハーにそこまでの気はなく、ヌアンも適わぬことを承知している。結局残ったのは、敢えて知る必要のなかった二つの事実の浮き彫りということになってしまったように思う。
 ひとつは、ジンハーからの手紙を破り捨て自ら断った夢だけれども、彼はずっと自分を思い続けてくれてたはずだというヌアンの甘い思い出に冷水を浴びせるように、自分がジンハーから忘れられていたという事実だ。そのことを彼自身から詫びる形で突きつけられ、思わず「あなたが十年間も帰郷できなかったのは、私のことを忘れていなかったからよ。」と口にせずにはいられない哀れなヌアンの姿を観て、ジンハーに憤慨しない男はいないのではないかと思ったりした。もうひとつは、夫ヤーバが結婚前に、ジンハーからの手紙を破り捨てて自分に届かないようにしていたという事実だ。ヤーバは、最初の手紙を破り捨てるヌアンの姿を観て、それから後の手紙を破り捨てるようになっていたという気がするのだが、おそらく彼は、そういう説明の仕方を妻にはしないように思う。
 ヤーバにはなごり雪でベンガルが演じた水田健一郎を想起させられるようなところがあり、かの作品で作り手に対して感じたような反発を僕は誘発されたわけだが、『なごり雪』で三浦友和の演じた梶村祐作には、まだしも痛みがあったように思う。それから言えば、ジンハーの脳天気さは、ヌアンの娘に十年以上も先の約束を再び口にする性懲りのなさに如実に現れていて、全く以て始末が悪いと言うほかない。
by ヤマ

'05. 7.22. 美術館ホール



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