『マラソン』(Marathon -Based on a true story-)
監督 チョン・ユンチョル


 我が子を得て親たる者になると、親であるが故に子供に及ぼす影響というものの過大さにたじろぐと同時に、親の想いでは如何ともしがたい力の及ばなさにも落胆するもので、そのなかで何かと右往左往させられるものだ。そのうえで、子を育み、子と交わるなかでの喜怒哀楽に掛け替えのなさを覚えつつ、生きる力を貰ったり疲れ果てたりを繰り返しながら、「これでいいのか、よかったのか」と悩んだり迷ったり不安に見舞われたりするのだが、他者との比較のなかでの過大なるものを望まなければ、遅速優劣は別にして、まずはそれなりに確実に成長の跡を見せてくれるのが子供としたものだ。そして、その成長過程の最も身近なところにいて、育児が当人の人生に占める意味も位置も、他に抜きん出て大きなものにならざるを得ないのが母親というものだと思う。
 母子の関係に限らずとも、個別の関係を一般的なマニュアル適用などで上手くこなせるわけがなく、逐一の対処には正解も不正解もないのが、そもそも個性というものに恵まれた人間同士の関係の常としたものだが、この作品は、子供が自閉症という障害を持って生まれてきたことで、母子関係のなかで生じるプラスマイナス全ての感情体験が通常の母子関係よりも遙かに増幅されることを余さず描くと同時に、その全てが言わば単に増幅されているだけで、何らの“特殊性”も帯びてはいない極めて普遍的なものであることを鮮やかに掬い取っていたように思う。そのことによって、いわゆる障害者を描いた作品にありがちな「特殊性というものを観る側に意識させる」ところがほとんどない作りになっていて、そういう点が優れている作品だと感じた。それには、障害に対する“無理解”は描いても“差別”というものにはほとんど焦点を当てていなかったように思われるところが、大きく影響していたような気がする。
 邪気はなくとも、社会性を欠いた行為が咎められ責められるのは、ある意味、やむを得ないことであって、僕はそれを差別だとは言えないように思う。善意に基づくものならば、何をしたって受け入れられるべきものだなどと考えることがとんでもないお門違いであるのと同様に、決して邪気のなさが全てではない。チョウォン(チョ・スンウ)の母キョンスク(キム・ミスク)が、怒りではなく悔しさに震えるのも、彼女がそのことを身に沁みて感じ取っていたからだという気がする。キョンスクは不当な差別に対してならば、激しい怒りで以て立ち向かうだけの強さを充分に備えた母親だったように思う。キョンスクを演じたキム・ミスクが素晴らしかった。いかにも母親らしい誇らしさや自信、視野狭窄、気負い、喜び、慈愛、迷い、不安、虚無、失望、希望などといったものにおける“母なる者”の豊かな感情を存在感溢れる表情で演じて、決してそれを“障害を持つ者の母”であるがゆえの“特殊性”に基づくものであるようには感じさせなかった。このこともまた、この作品が「特殊性というものを観る側に意識させる」というところがほとんどない作りになっていることに、大きく貢献していたような気がする。
 それにしても、自閉症により感情表現やコミュニケーション力に多大な障碍を負っていたって、子供というものは、きちんと親に対して“巣立つ意思”を示し、親に救いを与えてくれるものであることを示した場面は素敵だった。それとともに、親子とはいえ、対人関係である以上、感情力やコミュニケーション力に多大な困難を負った子供を育てることの根気と忍耐には想い及ばぬ困難が潜んでいることが偲ばれ、二十歳になったチョウォンが育むに至っていた表現力が、如何に困難のうえに獲得されたものであるのかということが偲ばれた。そして、それを成し遂げた母の偉業が決して代償なしでは果たせないものであることも痛切に描いていたように思う。
 自閉症という障碍を負ってなくても、幼児と日々向き合うことに要するエネルギーは、ちょうど反対給付のようにして子供がもたらしてくれるエネルギーとのきわどいバランスのなかで、時に赤字になったり黒字になったりしながらも、なんとか帳尻が合うといった性質のものだという気がする。そして、育児というものが、子供が長ずるに及んで振り返るなかで、ある種の達成感をもたらしてくれるような性質を帯びているのも、ある意味、そのきわどいバランスのなかで帳尻を合わしていく危うさを苦労として負えばこそのものであるようにも思われる。それからすれば、キョンスクが負ったバランスシートの危うさが生半可ではないのは自明のことで、それが代償なしでは果たせないのは道理であって、是非の問題ではないことが胸に沁みてくる作品だったような気がする。


推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20050706
推薦テクスト: 「マダム・DEEPのシネマサロン」より
http://madamdeep.fc2web.com/marathon.htm
推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました。」より
http://www.k2.dion.ne.jp/~yamasita/cinemaindex/2005macinemaindex.html#anchor001302
推薦テクスト:「Somewhere Before」より
http://blog.goo.ne.jp/whereistheapplepie/e/4e63eab9e3164903fe35d7f39e3f5847
by ヤマ

'05. 7.21. TOHOシネマズ1



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>