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第15回高知アジア映画祭“癒しの大国 アジア”
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“癒しの大国 アジア”との表題が流行言葉の便乗路線みたいで多少うんざり気味にも感じられた“癒し”だったが、三本とも観てみると、癒しのなかである種の含蓄として苦みを残す部分に味のある作品ばかりで、意外と巧い括りだったように思う。 『モンスーン・ウェディング』というのは、台風のごとくパワフルで派手で準備に慌ただしいインド式の結婚式を意味しているのかと思っていたら、当日、実際に大雨が降ってくるのだった。それに出くわしたとき、これはまるでロバート・アルトマン監督の『Dr.Tと女たち』みたいだと思った。娘がレズビアンだったことを知らされ、呆然とする花嫁の父Dr. Tの代わりに、大恩ある義兄テージ(ラジャット・カプール)が、娘同然の姪リア(シェファリ・シェティ)に、幼時に性的な虐待を行っていたことを知らされて愕然とする花嫁アディティ(ヴァソンダラ・ダス) の父ラリット(ナジル・ラディン・シャー)がいるところにも、何やら似通うところがある。だが、決定的に違っているのは、アメリカ映画の家族が、カタストロフィとともに拡散に向かうのと反対に、インド映画の家族は、ラリットの先見の明ともいうべき機転で防水加工布に変えていたテントのひとつ屋根の下、一族のみならず、使用人アリス(ティロタマ・ショーム)とデュベイ(ヴィジェー・ラーズ) のカップルも含め身を寄せ合っていたことだ。そして、生命力と躍動感に溢れる踊りを繰り広げることで、家族の誕生と再生を告げていた。最後に癒しを得、恋の予感さえも窺わせたリアの笑顔が美しかった。 『ドリアン・ドリアン』では、チン・イェン(チン・ハイルー) の香港での娼婦生活で干からびた心に、中国本土東北部のふるさと牡丹江の京劇学校の仲間たちが帰郷後、癒しを与えていた。ファストフードを貪り食い、ギネスブックものとさえ言われるほどに男の数をこなして荒稼ぎをし、手引きの若い男に自室のトイレで「ケツ拭いた紙くらい、ちゃんと流せよ。」と言われても顔色ひとつ変えなかった香港での殺伐とした生活のなかでの無表情さと、いつも耳あてをして常に友達と会っていた帰郷してからの彼女の、穏やかな笑みと憂いの表情が豊かに宿った面立ちの対照が、長めの茶髪と短い黒髪の対照以上に鮮やかで、全くの新人とはとても思えない見事な演技であった。 それはそうと、近年観る若者を描いた映画では、イギリスでもフランスでも日本でも、アメリカでも韓国でも、明るい青春映画というものにほとんど出会わなくなったような気がする。昔の青春映画にしても、どれもがひたすら明るかったわけでは決してないけれども、特に同時代を背景にしたものでは、近頃は全くと言っていいほど、明るく屈託のない青春像には出会えなくなったように思う。もっとも、かつての自分の記憶を辿ってみても、明るく屈託がないほうに、より嘘があるような気がしないでもないのが青春時代だとは思うが、そういうこととは直接関係のないところでの“時代の気分の反映”というようなものを感じたりもする。 ドリアンが何を象徴するかは、人によって香港の街であったり、資本主義であったり、人の生であったりと受け取りはさまざまだろう。脚本・監督のチャン自身は「キャラクターを象徴する役目も負っている」と語っているようだが、イェンのキャラクターにドリアンのような臭気の強烈さを僕は感じなかった。キャラクターよりむしろ、イェンの苛烈な生のほうだろう。長年の鍛練と精進による技術が何ら成功に結び付かない一方で、身を売りさえすれば、郷里の人々が羨望のまなざしを向けるほどの蓄財を果せる。堅い殻で身を守りつつ、その臭気まみれの生のなかで内なる滋味を熟成させて世間の汚辱に身をやつさないで生き延びることが人の生に必要とされることだと語っているようでさえあった。 それにしても、中国に返還されて後の香港で、中国本土からの若い娘の売春出稼ぎをかように生々しく描いた作品を撮り、国外の映画祭などに出品していったのは、かなり凄いことではないかと思う。非職業俳優ばかりの起用と手持ちカメラの多用で、生々しい膚触りを重視した映画づくり自体は、今さら格別目新しいわけではないけれど、そこに作り手の並々ならぬ意欲が感じられるのは確かだ。インド映画の『モンスーン・ウェディング』にしても、唇同士が触れそうで触れないインド映画風のラブ・シーンではなく、盛大な花火を背景に熱烈なキスが映し出されたり、雨の車中でのかなり生々しいシーンがあったり、ペドフィリアを取り上げていたり、と従前のインド映画にはない目新しさが盛り込まれているように思う。国内では何の制限もなしに公開はできなかったのではなかろうか。 日本映画『なごり雪』での、五十歳を前にして人生の空虚さから自殺が脳裏をよぎった梶村祐作(三浦友和)は、おそらくは、この物語を小説にし再出発をしたのではないかと思われるのだが、彼の虚ろな心に癒しを与え、そのような力をもたらしたのは、郷里臼杵での若かりし頃の思い出の再生のなかでのコミュニケーション力の回復だったろうという気がする。水田健一郎(反田孝幸)が雪子(須藤温子)の剃刀で手を切る事故が起こった理由について、二十八年間謎のままで未だに解らないでいると語る健一郎(ベンガル)に対し、記憶の彼方にあった事々を思い起こし反芻するなかで祐作が事もなげに解いてみせた謎の顛末が、いささか突拍子のないことであっても、いかにも雪子らしく得心できるものであればあるほどに、祐作にとっては回復の証となる一方で、健一郎にとっては残酷このうえないことになって痛ましい。 祐作(細山田隆人) を恋慕う雪子が彼に応えてもらえない姿を見守りながら一途に彼女への想いを募らせてきた水田が、雪子を娶り、彼女がよき妻・母として添い遂げながらも、終生祐作への想いを忘れられずにいて、自分には決してそのような想いを向けてくれないでいることに対して、ある種の感謝と悔しさを諦念とともに受け入れるなかでは、祐作のように想いは向けてもらえないかもしれないが、彼女を見つめ続け、祐作への秘めたる想いの部分をも含め、雪子を誰よりも理解し、愛しているのは自分なのだとの自負が、大きな支えになっていただろうという気がする。雪子の今際のきわに祐作を呼び寄せるのも、その自負と自信がなければかなわないことだ。しかし、二十八年ぶりに帰郷した旧友から、彼女の核心を掴み、理解していたのは、ひたすら想いを寄せているつもりだった自分ではなく、実は旧友のほうだったことを突き付けられ、それゆえに自分は、雪子から祐作ほどの想いを寄せてもらえなかったのかもしれないと思わずにはいられない酷な体験をしたうえに、祐作が二十八年前に残してもらっているような言葉を何も持っていないことに打ち砕かれたのだろうという気がした。プラットホームでの水田の号泣は、そういうことなんだろうと思う。そして、男女間の想いや心の通いというものは、そういうものだろうとも思う。だけれど、何とも酷な物語ではある。もっとも、そこに哀切の味があり、心惹かれる物語なのだが、それゆえに配慮されてしかるべき演出というものがあると思うだけに、か なり不満も残った。 まずもって、名所案内・故事来歴紹介の部分も含めて、台詞が過剰で説明的に過ぎるところや最後の水田の号泣シーンのくどさ、意識不明の危篤状態ながら、祐作たちが自分の本意を認知してくれたことを喜ぶかのように包帯越しに涙とおぼしき水滴を滲ませる演出のあざとさなどが物語の香気を削いでいたように思う。そして、説明調に過ぎているところとその物語が祐作のモノローグで始まっているあたりが、後に小説にしたということかなという勘ぐりを僕に抱かせたように思うのだが、そのなかで「違う!違う!」と発するだけで説明もできずに飛び出すしかなかった雪子の真意に対して、雪子自身の反応として駄目押しをしてしまうと、映画の作り手の体質的饒舌さを越えて、映画の語り手である主人公たる祐作の嫌味な“得意”の表出という形にさえなってしまいかねない。 若い祐作が雪子の想いに応えられなかった部分には、雪子ほどの一途な想いの丈が自分の身には重すぎると感じる若き純情や早々と己が人生を他律的に縛られてしまうことへの若々しい反発があったはずなのだけれど、そういう祐作の姿よりも、健一郎との対比において図らずも過剰に優位にあることばかりが際立っているように思う。それに加え、その優位を得意げに示しているような印象を残してしまいがちな演出を加えているものだから、観客の健一郎への同情を集める一方で、思いの外、祐作への反発なり嫌悪を呼び寄せているのではないかという気がする。祐作の、ある種の苦みを伴った、魂の再生の物語と受け取って、祐作に共感した観客が案外と少ないのではないかと思うのだけれど、もし、そうなっているとすれば、その責の大半は大林監督の演出にあるような気がする。そこのところに僕は何だか、作り手の酷薄さのようなものさえ感じてしまった。 *ドリアン・ドリアン 参照テクスト:掲示板『間借り人の部屋に、ようこそ』ほか過去ログ編集採録 推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT」より http://dfn2011tyo.soragoto.net/dayfornight/Review/2002/2002_05_13_5.html 推薦テクスト:「my jazz life in Hong Kong」より http://home.netvigator.com/~kaorii/asi/durian.htm *なごり雪 推薦テクスト:「eiga-fan Y's HOMEPAGE」より http://www.k2.dion.ne.jp/~yamasita/cinemaindex/2002nacinemaindex.html#anchor000846 推薦テクスト:「シネマ・サルベージ」より http://www.ceres.dti.ne.jp/~kwgch/kanso_2002.html#nagoriyuki | ||||||||
by ヤマ '03. 5. 4.〜 5. 県立美術館ホール | ||||||||
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