『ションヤンの酒家』(生活秀[Life Show])
監督 フォ・ジェンチィ


 不遇で薄倖の美人女将が、ふがいない父兄弟のツケを払う形で、家族の問題を一身に背負って健気に生きる姿を描いた通俗的な人情ものかと思いきや、ひと味もふた味もコクを効かせた人物造形に味のある佳作だった。何と言っても、ションヤンを演じたタオ・ホン[陶紅]の魅力が画面に息づいているのがいい。出演当時、三十歳を過ぎたばかりだったようだから、二十四歳で結婚したのち流産と離婚を経験したションヤンには流産しなければ甥のトアル(リー・ショウチェン)と同い年の子どもがいたとの設定年齢からすれば、タオ・ホンの実年齢が幾分若いけれど、そう離れているわけでもない。始めのうち、ちょうど子どもを亡くしたばかりでトアルの乳母を務めたとの設定が少々奇異に感じられるほどに若々しい魅力を放射していた彼女が、次第に人生のサバイバーとしてのしたたかさを見せてくるに及んで、違和感なく相応の年齢を感じさせてくれるようになる。それだけに同時に放射し続ける若々しさが際立つ魅力として輝いてくる。

 家族を捨て京劇女優と出奔した父と若くして死んだ母に代わって十代のうちから弟ジュウジュウ(パン・ユエミン)の親代わりを務め、ミュージシャンの夢破れ麻薬中毒に堕ちた弟を更生施設に入所させて面倒を見、その弟を慕う田舎出の娘アメイ(ヤン・イー)に店を手伝わせて養う一方で、文革時代に接収された祖父の遺産たる小さな家を取り戻すための画策として住宅管理所長(ロ・ドーユァン)の歓心を買うべく、失恋で精神を患った所長の息子(リュウ・ミン)にアメイを嫁がせて念願の家を取り戻す。その後はションヤンの想定の埒外ではあったろうが、結果的にアメイは、腕に痣を残すDVとおぼしき状況によると思われる形でションヤンの元に逃げ帰り、しかも妊娠に至っていた。“やり手”を通り越した、目的のためには手段を選ばない辣腕ぶりと映っても仕方がないようなことなのだが、決してションヤンが悪辣な女性には見えてこない人物造形に、この映画の味とコクがある。


 ションヤン自身の台詞にもあったように、降り掛かってくる災難には屈せず立ち向かわなくてはサバイバルしていけないわけだが、そのために状況を改善しようとする際、手段を選ばずとも決して我が身だけの利得を考えてはいないことが切々と伝わってくるように彼女が描かれていたところがこの作品の品性だという気がする。アメイを嫁がせるときも、徒手空拳の田舎出の彼女が大都会重慶で根拠地を確保するうえで可能な前向きの選択肢の一つとして本気で考えていたことが窺われたし、説得を心掛けながらもアメイ自身の選択意思の形成という手続きを決して疎かにはしていなかったように思う。アメイがションヤンの説得に応じるのも、結婚後のつらい生活を彼女に隠していたのも、自分を養うことに店の経営上の都合だけに留まらない実をションヤンに感じていたからこそなのだろう。また、ションヤンが、取り戻す手はずの整った家に幼子が住まう様子を目視することで彼らを追い出す非情を受け止める様子もさりげなく描かれていた。営利目的で吉慶街(チーチンジェ)再開発のための立ち退きを画策する企業の“事業としての営み”とは異なる“人間的な切迫感によるもの”として対置されているのだから、尚の事このシーンには意味があるように思う。

 また、店先で好きでもないタバコを手に弄び、男客を誘う物憂げな媚態を品よく演出する一方で、単に商売上の駆け引きだけではない孤独で淋しい真情を客との間の距離感に漂わせる具合の程も、ションヤンの人物造形上の魅力として巧く描かれていたように思う。駆け引きは厭わないが、さもしさや浅ましさがいささかも漂っていない女性として映っていたのは、それゆえだろうし、街の大物事業家たる卓氏(タオ・ザール)が、彼女が“やり手”であるのを充分見越したうえで一年以上通い続けるほど惹かれたのもそれゆえなのだろう。その卓氏のションヤン籠絡の描き方にもまた、ある種の品性が漂っていたように思う。いかにも金と力に物言わせる姿で臨むわけでは無論ない。強者の余裕と言ってしまえばそれまでだが、自分が心惹かれた女を安直に手に入れて価値を貶めるような、さもしく本末転倒させる求め方は一切しない。相応の誠実と洗練を尽くして接していたように見受けられた。結果的には、それゆえションヤンにとっては罪深いところもあるわけだが、卓氏にとっても、惚れ込んで深入りした“したたかな”女性が結婚以外の選択肢を以て臨めないことを見誤っていたことで受けた痛手は、確かにあったはずなのだ。ションヤンとベッドを共にした小旅行の帰途、携帯電話への応対ぶりから「妻に逃げられた男だ」と語っていたことが嘘であったと察せられたり、吉慶街の住人に立ち退きを迫る事業の張本人であったことが明らかになったりした場面でも、いかにも馬脚を現したような品性の下落が卓氏に窺われず、男としてのエラーと見誤りが浮かび上がる形で描かれていたような気がする。これは凡百の作品には望めないものだ。ションヤンにしても卓氏にしても、騙した騙されたではなく、各々の見誤りとして描かれていたからこそ品性が損なわれなかったのだと思う。


 そして、自室のソファーに身を投げ出すようにして凭れ込んだションヤンが、トアルの残していったやりかけのオセロ盤に手を伸ばし、黒駒を置いて白駒をいくつも裏返した終盤のショットが効いている。念願の家を取り戻す手はずが整い、事業家卓氏の心も射止め、万事うまく行き掛けていたはずのションヤンの人生が、アメイの不幸な出戻りと卓氏への失望によって反転したことを身に沁みて感じている姿が、鮮やかに浮かび上がっていた。再び好きでもないタバコを手に弄び、物憂げな様子で店先に出るションヤンがラストシーンで静かに流していた涙には、誰の後ろ盾も助力も得られず独りで生きていく女の人生のままならなさを偲ばせて味わい深いものがあったように思う。ションヤンは、生き抜くために止むなく“したたかさ”を身につけているけれども、決して“したたかな女”ではないことが、デリカシーに富んだ人物造形のなかで伝わって来て、哀しみを誘う。

 一歩間違えば、人間の浅ましさやイヤらしさを身も蓋もなく物語りかねない人物関係とドラマを綴りながら、決して美化するのではない形で品性を湛え続けた出来映えに感心した。作り手の技量が確かに窺われる、大人の味わいに満ちた映画だという気がする。

by ヤマ

'04.10.23. 県立美術館ホール



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