『山の郵便配達』(那山 那人 那狗)
監督 フォ・ジェンチイ(霍建起)


 僕の好きな緑色が、それこそ色とりどりに最初から最後まで映り出て眼福とでも言うべき一時間半だった。おまけに来年には成人となる息子を持つ身ともなれば、このような親父泣かせの作品に感慨を覚えぬ道理がない。父と子の対立的葛藤の真っ只中にあるような若者が観たら、思わず勘弁してほしいと願い下げしたくなるような親父ファンタジーだった。些細なことのようだが、ひとつ気になったことがある。山奥の小さな村村に何日もかけ徒歩で郵便配達をするために、息子の幼い頃からほとんど家を空けていたことに対する不満からか、父親とは呼んでもらえなかった初老の男(トン・ルゥジュン)が、自分の仕事を息子(リィウ・イェ)が引き継ぐことになり、一緒に泊まり掛けの集配作業に携わりながら、長年の苦労や成し遂げてきたことなどを耳目と身体で息子が理解してくれるなかで、ふと“父さん”と呼んでくれたことに感動する場面だ。初めて呼んでくれたと述懐したとき、字幕では初めてとあったが、本当にそうなのだろうか。ようやくとか、やっととかでないといけないような気がした。

 もともと息子は父親が大好きで、幼いときからその帰りを待ち焦がれていたはずで、その頃はきっと“父さん”と呼んでいたと思う。少なくとも、そういう時期があった父と子なればこそ、少し長じて、ただ待つことに耐えられなくなった時分から、“父さん”と呼べなくなったのだろう。不在ばかり続けて、父が一向に顧みているようには思われない母親(ジャオ・シィウリ)への同情が自分自身の寂しさと重なったうえに、それが遠方の村から知人縁者もない地へと連れ出した結婚だったことを知ったときに、一気に噴出したのではなかったのかという気がする。ラジオから流れ出る音楽を丼鉢を被せて響かせ聴いた、山里の村の美しい娘(チェン・ハオ)と息子の仄かな触れ合いを巡るエピソードには、そのあたりのことが窺える。

 それにしても、寄る年波に体力が耐えられず、退職を余儀なくされるまで、かつての同僚から先んじた上司さえその苛酷な業務の実際を知ることのないままに、地味で目立たぬ仕事を自負と誇りとともに、黙々と続けてきた彼にとっては、その真価を知悉し、頼りにしてくれる村人が支えであり、手応えであったとしても、上司など以上にそのことを最も知ってもらいたかったのは、息子であったことだろう。父親とは、そういうものだ。だが、ほとんど総ての父親にとって、それは叶わぬ夢であり、果たせぬ仕事なのだ。彼は、地味で目立たぬ仕事にやり甲斐と喜びを見いだし、たゆまず続けたために、かつての同僚のように出世することは叶わなかったかもしれないが、世のほとんど総ての父親が手に入れられない喜びに浸る幸福なときを得た。親父泣かせのファンタジーたる所以だ。勧進帳のごとく盲目の老婆に都会に出た息子からの手紙を読んでやる役割を自分の息子に託すときの誇りと自負に輝く表情やら、息子が幼いときにも滅多に味わえなかったであろう一つ寝の夜具のなかで、眠る息子が足を絡めてきたときの幸福感に満ちた笑顔など、随所で初老の父親が見せる表情が味わい深い。

 一方で、今や中国においてさえも、二十年前という時代設定によって際立たせる形で、効率性や機械化と相反する自然と人の触れ合いを強調しないではいられないような作品が出現するようになった、時代の流れというものを感じた。だが、そこに今日的な環境問題や無機的な世の中になりつつあることへの社会批判が説教臭さとして漂わなかったのは、この作品があくまでも親父泣かせのファンタジーであることをその骨格にして、いささかの揺るぎも見せなかったからだろう。

 和訳すれば、『あの山、あの人、あの犬』となると思われる原題にも窺えるように、あくまでも情と追憶の物語なのだ。




追記('01.12.20.)

 日誌に「ひとつ気になったことがある」と書いていたら、調べてメールを下さった方がおいでました。とても興味深い内容だったので、ご本人の了解を得て、一部引用して追記することにしました。

 > 私もそれを読んだら気になって気になってしまい、
 > 実はさきほどVCDで確かめてしまいました(笑。ヒマですね)。
 > 息子が「父さん、もういかなきゃ」と言うと、
 > 父親が「おまえ今なんて言ったんだい?」と聞きますね。
 > 息子が「父さん、もう行かなきゃ、って言ったんだよ」と言って
 > 先に歩き始めると、父親は老ニに向かって
 > 「老ニ、聴見了マ? 他喊我パ」(すいません、漢字が出ません...)
 > つまり「老ニ、聞いたかい? あいつは俺のこと父さんって呼んだぞ」
 > と言ってるのです。「初めて」も「やっと」も何もないんですよね。
 > ところが、ついている英語の字幕には、
 > 「He called me Daddy at last」となっているため、
 > 日本語の字幕では「初めて」となったのではないでしょうか?
 > (もっとも英語字幕を直訳すると「やっと」ですよね)
 > 私は何もない方が好きです。
 > その行間に彼の気持ちが垣間見えるような感じが、
 > まさにこの映画全体のトーンに合っているような気がして。

 my jazz life in Hong Kong というサイト【現在は閉鎖】の Kaoriさんからのメールです。
 これを読んで、僕も何もないほうがいいなぁと思いました。「次男坊、聞いたかい? あいつは俺のこと父さんって呼んだぞ」これで充分だし、すべてです。あとは、どうやって、長らく父さんと呼んでもらえてなかったことを観客に伝えるかということだと思います。判る人には判るはずなんですが、映画には地の文というものがありませんから。
 字幕のちょっとしたところでの思わぬ違いについてのたいへん興味深い情報でした。なお、変換できなかった「マ」は口偏に馬、「パ」は父の下に巴という文字です。



参照テクスト掲示板『間借り人の部屋に、ようこそ』過去ログ編集採録

by ヤマ

'01.12. 1. 東宝2



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