『ドリーマーズ』(The Dreamers)
監督 ベルナルド・ベルトルッチ


 高知での『シャンドライの恋』の上映の前後にわたって、お茶屋さんと交わした見解の事々を思い出した。彼女がサイトアップしている“きまぐれ日記”に「ヤマちゃん曰く「近年のベルトルッチはひどかったが、『シャンドライの恋』には期待している。」とな…。「ブルータスよ、お前もか!」と私は思った。」と記されている僕の期待は、作品を観た後で無惨に打ち砕かれ、「私は「くさっても鯛」と言いながら、復活の可能性があると思っているが、ヤマちゃんはどうなのだろう。」とのお茶屋さんの問い掛けを受けるように、自分の映画日誌を「『魅せられて』で晒していた内面外形ともにわたる弛緩ぶりを、『シャンドライの恋』で外形的にはリカバーしているだけに、内面的な弛緩の根の深さを物語っているようで、暗澹たる気分になった。ベルトルッチ監督にもう再生は本当にないのかもしれない。」という書き出しで綴り始め、その後の彼女との往復メールのなかで「いま、シネマノートを読み返したのですが、嬉々として書いてませんか??? 何か、文章のリズムがいつもより早い。」と揶揄されるほどに思うさま、『シャンドライの恋』で感じたベルトルッチの凋落ぶりについて綴ったものだった。


 そういう意味では、前回『魅せられて』以上に深刻に落胆したのに、それでもまだ新作にどこか期待感を抱かせてしまうベルトルッチの存在感には苦笑させられる。そんな想いとともに足を運んだなかで、『ドリーマーズ』には少なからぬ興奮を味わいつつ、大いに満足した。お茶屋さんの言う“腐っても鯛”は、僕も十二年前のこうのとり、たちずさんで』の日誌でアンゲロプロスについて使っているのだが、今回のベルトルッチは“腐っても鯛”どころか、いささかも腐っていないように感じられ、かなり驚いた。僕としては、同じく'68年のフランス五月革命を材に作家が自らを振り返ったような作品として記憶にある五月のミルのルイ・マルを想起せずにいられなかったのだが、このときのルイ・マルの“甘さを露呈したスノッブな匂いのする知性による皮肉”と比べて、『ドリーマーズ』に宿っていた作り手の屈託には、遙かに深い味わいがあったように感じる。

 映画開始早々に、スクリーンに没頭する映画オタクたるアメリカ人青年マシュー(マイケル・ピット)の独白に“現実からの遮断[スクリーン]”という自分たちに向けた手厳しい台詞が出てくる。留学先のパリでたぶん十代最後の年を過ごしたマシューのこの回想の台詞が、いくつになった時点でのものかは定かでなかったが、既に若きシネ・フィル期を過ぎて後のものではあろう。彼の回想のもとに彼と同い年の一卵性双生児だというイザベル(エヴァ・グリーン)・テオ(ルイ・ガレル)の美しい姉弟との刺激的で不思議な交友が綴られるわけだが、いかにもあの時代のシネ・フィル的な背伸び感というものが息づいていて、幾分不遜な人生態度とエネルギーが妙に眩しかったりした。回想物語のようなのに懐古的でないところがよく、今にして思えば奇妙で不思議な時代だったというふうに受け取っている様子が偲ばれるように思う。

 美しい姉弟に惹かれつつもずっと困惑と翻弄に晒されていたように見えるマシューだが、映画を観終えたとき、僕はテオとマシューがともにベルトルッチ自身であるかのように感じたものだった。チャップリンとクラプトンを支持し、社会変革には暴力革命もやむを得ないとするテオのほうが原型で、キートンとジミヘンのほうを支持し、革命の名の下でも暴力には反対だとするマシューが現在なのだろう。そして、原型であるテオと双子の美女イザベルというのは、映画というもの自体を象徴しているような気がした。思えば、テオもマシューもイザベルに魅せられ翻弄されながら愛しているのだが、性的結合をかわさずに深く交わるテオのほうが、破瓜の後セックスに明け暮れたマシューよりも、深くイザベルと繋がっているように描かれているのは、映画を観る側で愛していた時分と撮る側で交わるようになってからの対照が、そのような形で出ているようにも見える。そして、弟のテオにはマシューがなれないのと同様に、戻ることを想定することが叶わない原型とも言えるような気がする。

 そのうえで原型への懐古に耽るのではなく、映画に溺れた若者たちについて、映画に限らず音楽・哲学・政治と役に立たない知識ばかりが豊かな頭でっかちで、生活の知恵も力も逞しさもなかった時代の情けなさと愚かさと輝きというものを妖しく眩しくスリリングに描出していて、実に鮮やかだった。時代そのものがそういう時代だったということなのだろう。そして、映画を通して社会と人間を観、その後も映画製作を通してしか社会や人間と関わっていないことに対するベルトルッチの屈託のようなものが織り込まれているように感じられた。だから、てっきりオリジナル脚本かと思っていたら、原作・脚本がギルバート・アデアとなっていて少々驚いた。それくらい僕はベルトルッチそのものが投影されているように感じていたわけだが、チラシによると原作者は映画評論家でもあるようだ。きっと当時をシネ・フィルとして過ごしているのだろう。




参照テクスト掲示板『間借り人の部屋に、ようこそ』過去ログ編集採録



推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/0501_2.html#dream

by ヤマ

'05. 1.25. 美術館ホール



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