『レイクサイド・マーダーケース』
監督 青山真治


 この物語に描かれた“ケース”が多くの観客にとって特異性よりもむしろ一般性を孕んで受け取られる状況にあるということに、この作品の鑑賞によって改めてまざまざと気づかされ、いささか戦慄を禁じ得なかった。

 僕自身は三人の子供の子育て期のほとんどを既に終了させかかっているが、その最中には「何が、どうすることが子供にとって良いことなのか」との自問が最も悩ましく答えの見つからない難題だったと、いま振り返ってみても強く思い当たる。育児や教育が産業としてのマーケットに野放図に組み込まれるようになってからはうんざりするほど宣伝が行き届き、とりわけ親たる者への強迫は、メディアのみならず大小さまざまの社会から生身の人間によって直接もたらされるようになっているだけに抗いがたいものがある。子供のためなのか、その強迫に駆られてなのか、を自身に問い続けるのは親にとって過大なストレスであり、とてもエネルギーが持続するものではない。結局のところ物心に渡る手持ち資産の応分に従って、強迫してくるレールに乗ってしまうのが大半の親の実態で、僕自身もそれから手放しに自由であれるものではなかったように思う。

 この作品で焦点になっている“お受験”というものについては、僕自身が弟共々、私立中学を受験し入学した経験を持っているが、今から思えば、幸いなことに親から進学についてのプレッシャーを受けた記憶が全くない。それどころか「勉強しろ」ということを親から言われた記憶自体がない有様だ。きっと皆無ではなかったはずだが、少なくとも負担として刻み込まれたりはしていないということだ。僕自身は、そのありがたみを強く自覚していて、子供に「勉強しろ」とは言わないようにしていた。だが、僕の母校に受験進学した長男・次男にしても、そうはしなかった長女にしても、自分の両親とも中学受験自体をしていなかった僕と比べれば、僕ほどにはそういうものから自由であれない様子というものを僕も感じ取ったりはしていた。

 しかし、そんな僕でも、この作品で、自身が受験校の卒業生でもある塾講師 津久見(豊川悦司)が我が子のためによかれと息子の受験に熱を入れ、そのせいで夫婦喧嘩を繰り返していたという自分の親を振り返って、子供の目には哀しく見えたと語る台詞には思い当たるものがある。僕は子供の時分に両親の夫婦喧嘩というものを一度も目撃したことがないのだが、親に哀しさを感じた覚えはある。“親の愛情”という抗しがたい鎧をまとってのし掛かってくるものは、不遜にも子供にとっては只でさえ鬱陶しいものなのだが、それが応分以上のものであったり、選択手法が公正でなかったり姑息だったりすると、ありがたさを通り越し、子供にそれを晒してしまう親の姿が哀しく気の毒になってきたりするものだ。そして、自身の欲求とは異なっても、“無碍にはできない親への想い”と“養育されている子供の立場”というものによって、それに応じていってしまう子供の弱みのようなところがあり、子供にそんな想いを抱かせてしまう親の姿というものがまた哀しかった覚えがある。長じるに及んで生じる親との軋轢というものは、幼い頃の過剰適応が累積させた歪みによって生じる地震のようなものなのだろう。歪みの堆積が小さければ微震で済むが、大きければ激震に至るのはものの道理だ。僕自身は、小器用に微震軽震を繰り返しつつ、小賢しい被災措置に長けていたから、大きな災害に見舞われることなく過ごした。でもそれは、まさしく天災を免れることのような幸運に過ぎなくて、養育環境が異なっていれば、必ずしも免れ得なかったことなのかもしれない。

 そういうことからすれば、塾生のなかでも特別に個人的な“お受験”対策特別合宿を自前の湖畔の別荘で親子で講じて貰ったり、入試問題漏洩工作までする三組の家族の元にある子供らは、生半可ではない負荷を掛けられているわけで、それに適応していれば即ち途轍もない過剰適応であることは自明のことなのだが、僕が戦慄したのは、そのことが判らなくなっている大人の姿ではなく、それゆえに子供が解らないとの思いに囚われ脅えた状態で袋小路のなかにいる親たちの姿に、特異性よりも一般性を孕んでいるように感じられたことのほうだった。勃発した特異な事件によってもたらされたものとばかりは言えず、特異な事件を契機にたまたま直面させられたことに過ぎないというふうに描かれていて、そのことに僕を含め、多くの大人たちが違和感を覚えないように感じられたことに、最も強い戦慄を覚えたように思う。僕にしても、たぶん僕の親にしても、子供のことが解っているなどと思える心境にはなれなかったのだが、それほどの不安と不信には囚われてはいなかったような気がする。子供を信じる力が大人から失われているとともに子供を信じることへの不安に大人が囚われている状況に、現在の日本社会があることが強く伝わってきた。

 そして、強迫感の根底にあるのが二元論の浸透と二極分化の進展であることも、改めて深刻なものとして感じた。程のよさとか中庸を是とする感覚が失われ、ドッグヴィル』の日誌にも綴ったようなアメリカ的二元論による明快志向が浸透し、節操なく競争原理を礼賛し、結果が全てとすることで人々を勝者と敗者に分断したがる社会に日本がなってきているように思う。子供のことにしても、この作品で焦点を当てているような“お受験”熱と誰も知らないで描かれたような養育放棄とが、二極いずれの側でも度を過ぎた形で顕在化していることが、決して特異性では受け取れないような状況があるように思う。かつてなら考えられなかったような無慈悲さで悪辣な犯罪が頻出するようになったことについて、やれ戦後の民主教育の誤りだの、自虐的歴史観だの、外国人流入者だのを持ち出し、そのせいにしたがる向きがあるけれども、かくも人心を荒廃させてきているのは、競争原理やら市場原理一辺倒で経済を動かし、結果と成果しか見ようとしないことで醸成されている社会心理のほうではないかという気がする。経済的にも二極分化の進展で貧富の格差が拡大し、勝ち組に回ることへの強迫と負け組に押しやられることへの不安や絶望の深さが、人心と社会を荒廃させているような気がしてならない。

 この作品は、その荒廃が次代を担うべき子供たちの心のなかに途轍もない闇を作りだしていることを描く以上に、なにゆえそれが醸成されるのかを鮮烈に捉えていたように思う。それゆえに僕は戦慄を禁じ得なかったのだという気がする。オカシイと言いつつも、結局は俊介(役所広司)も妻 美菜子(薬師丸ひろ子)や別荘の持ち主である医師夫婦(柄本明・黒田福美)、大手ゼネコンの課長夫婦(鶴見辰吾・杉田かおる)の側に絡め取られていかざるを得なかった。時代と社会の強迫というものの根深い罪深さを思わずにいられない。




推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/0502_2.html#lake
推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT」より
http://dfn2011tyo.soragoto.net/dfn2005/Review/2005/2005_02_07.html
by ヤマ

'05. 2. 4. TOHOシネマズ8



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