『五月のミル』(Milou En Mai)
監督 ルイ・マル


 今一つピンとこない映画であった。部分的には一見、ユーモアがあったり、エスプリの効いた風刺や皮肉があったり、ナンセンス・ギャグで楽しませたり、と盛沢山なのだが、そこにマニアやインテリに迎合したスノビズムが色濃く窺われるために、作家的主体性が稀薄になって作品の全体的イメージがいささか散漫である。

 五月革命を茶化すのはいい。革命騒ぎがその一部において極めて真摯なる決意と覚悟によってなされながら、大部分がファッションに過ぎなかった事実は、日本の学生運動にも見られる大衆運動の真実だし、その結果、フランスにおいても日本においても、当時人々が浮かれたほどには現実的な成果は何も得られなかったのだから。しかもルイ・マル自身が当時強いシンパであっただけでなく、実践に手を染めていればこそ、その喜劇性を語る資格は充分にある。しかし、五月革命を茶化す装置としてミルという人物を置いたのは当然といえば当然なのだが、結果的に成功しているとは思えない。言うまでもなく、革命が問題にするのは社会であり、個人あっての社会でありながら、そこではしばしば本末転倒が見られる。一方、ミル的世界というのは、徹底的に私的な世界である。善きにつけ悪しきにつけ、あらゆる点で彼は非社会的である。そこに本末転倒は起こりようもない。個や私を見失いがちな「社会」主義へのアンチテーゼとして、より人間的な「私」主義をミル的世界によって提示したのかもしれないが、マルのスノビズムのために肝心のミル的世界にチラシ等に謳い上げるような豊かさも優しさも感じられないのが致命的である。

 この作品において非常に印象的なものに、前庭の桜の木の下で繰り広げられる草上の昼食の場面に挟まれた墓を掘るレオンスの姿がある。昼食の場面は、五月革命の周辺で人々が次第に同調していったように、さまざまな思惑を持ってミルのもとに集まったせわしい人々がミル的世界に調和したピークをあらわしている。ちなみに、革命が革命的一体感をもたらした後、革命騒ぎに終わったように、昼食のミル的調和も夜のミル的ばか騒ぎを予感しているのだが、そのミル的調和のピークの場面で彼の母親を埋める墓穴を一人黙々と掘り続ける使用人の姿が映し出されるのである。御丁寧にも夜になってもまだ掘り続けているところが強調される。全体的なトーンとしてミル的な世界を肯定しながら、それに楔を入れたショットである。これをもってマルの視野の広さ、視線の複眼的多様さを評価する向きもあるかもしれないが、そんな上等なものではなく、マルの憧れるミル的世界の構造的なブルジョア主義を自ら皮肉ることによって防衛線を張った姑息さでしかない。マルの作家的主体性の稀薄さが端的に現われているような気がする。

 個や私を見失う社会革命に挫折し、人間の原点としての「私」世界を描こうとする時、ルイ・マルには、例えばフェリーニのような多くの人の郷愁を呼び起こし得る「私」世界が描けずにミル的な世界にしかならなかったということである。さらに、マルにはミル的世界を皮肉らないではいられないだけの知性があり、手放しで肯定できるほどの無頓着さがなかったということである。それは、彼の出自からすれば止むを得ないことのように見えるかもしれないが、必ずしもそうではない。自ら皮肉らないではいられないような「私」世界しか出てこなかった時に、それとそれを生み出した自分に向かってきちんとした対決をなすべきなのに、それを皮肉で片付けて許してしまうような自身への甘さが問題なのである。その甘さが彼の作家的主体性の稀薄さを招き、折角の知性をスノッブなものに留めているのである。皮肉が悪いと言うのではない。例えばブニュエルのように対象化がきちんとなされた、つまり対決した後の表現手段としての皮肉であれば、対決を避けたごまかしとしての皮肉とは全く違ったものになる。そして、その皮肉をもたらした知性にスノビズムなど窺いようもないのである。

 そのうえでさらに困ってしまうのは、革命であれ、ミル的世界であれ、人間は同調し、いい気になって度を過ごし、見るべきものに目も向けず、結局はうろたえる、けれどもいいじゃないか、人間なんだから、所詮はそんなものだよと許してしまうルイ・マルの態度である。許しながらも、マルのは「所詮・・・だから」という許し方である。それは愛に基づくものではなく、諦めか甘さによるものである。彼のは甘さだろう。自身への甘さを人間存在に敷衍することで二重にごまかしているという気がする。人間や人生に対して「所詮」という目の向け方をするのは、一般人ならともかく、作家としてはいささか不遜で不誠実ではなかろうか。
by ヤマ

'91. 5.30. 県民文化ホール・グリーン



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