『真珠の耳飾りの少女』(Girl With A Pearl Earring)
監督 ピーター・ウェーバー


 芸術の凄みないしは深遠さを感じさせる映画として、僕のなかでは音楽の『アマデウス』美術の『美しき諍い女』が双璧で、それには遙かに及ばないながらも、ある種の丹精と誠実さに少々の野心を加えた佳作を観せてもらったような気がした。ちょうど先月、神戸市立博物館で開催された「栄光のオランダ・フランドル絵画展」でフェルメールの『画家のアトリエ<絵画芸術の寓意>』を観てきたばかりで、そのアトリエそのままのような空間で人物が息づき、創作を行っている現場の様子を観ると、一段と興趣も湧くというものだ。当時の絵の具作りの様子を見せてくれたり、フェルメールが使っていたとの説を僕も聞いたことのあるカメラ・オブスキュラが登場したり、『手紙を読む女』だとかの僕にもいくつか覚えのある作品のイメージを誘発してくれるような映像や、絵画に描かれたアトリエを絵画には描かれなかったアングルやフレーミングで切り取った映像など、フェルメール・ファンにはたまらない味わいがあるのだろうと、自分の知見は及ばないながらも、容易に推察できるだけの丁寧な画面づくりが施されていて、各種の撮影賞や美術賞の対象には間違いなく挙がってくるような作品だったと思う。

 召使いの少女グリート(スカーレット・ヨハンソン)とフェルメール(コリン・ファース)との関係は、原作者トレイシー・シュヴァリエの創作だろうが、それがいかほどに史実に則ったものであるのかも僕の知見の及ぶところではないけれども、個人的興趣としては、史実とは無関係に『青いターバンの少女<真珠の耳飾りの少女>』という一枚の絵に描かれた“真珠”が呼び起こした、想像の物語だと受け取るほうが面白い。絵画の観方、楽しみ方といったところで与えてくれるものに、より味わいがあるような気がする。原画において表題の真珠よりも遙かに鮮やかに印象づけられる少女の赤い下唇が映画のなかでも強調されていたのが目を惹いた。


 女主人カタリーナ(エッシィ・デイビス)を意識して稼ぎの必要な自身の処遇を慮り、モデルになることを躊躇っていたグリートが、一家の実権を握る大奥様ともいうべきマーリア(ジュディ・パーフィット)に、娘夫婦の問題よりもフェルメールに仕事を受けさせることを優先して促されたモデルを務めるなかで、彼に「唇を舐めて」と命じられる場面がある。当時の風俗慣習は知らないけれど、召使いの少女であっても、舌で舐めたりせずに下唇を口蓋に吸い込み艶めかせていたのが目を惹いた。その際のおずおずとした佇まいに、現代に置き換えれば裸体を見せるに匹敵するような羞恥と官能を刺激されている様子が窺え、なかなか妖しかった。また、手前味噌な妄想だけれども、上流階級でもない女性に真珠の耳飾りを付けさせることのタブー的な意味というものが、当時はあったのかもしれないとも思った。グリートの恋人ピーター(キリアン・マーフィー)の台詞を介して、17世紀の身分社会の揺るぎなさが大前提として強調されていたからだ。卑しい身分ながら身を飾る女性となれば、娼婦という生業が想起されるわけだが、グリートのなかに自覚なきままに秘められた、魔性ともいうべきほどに濃密な官能性を視て取ったフェルメールが、それを炙り出そうとしたという解釈が込められているような気がする。男が見つめる目の前で唇を舐めさせられ、娼婦を意識させられる耳飾りを付けるためのピアスを自ら耳に開けさせられたりもしたグリートが、彼のアトリエを出て一目散に恋人の元を訪ね、抱きつくシーンが用意されていたのは、つまりはそういうことなのだろう。眠っていたものがフェルメールによってこじ開けられたというわけだ。

 この唇を舐めるシーンがあるからこそキャスティングされたのではないかとも思えるスカーレット・ヨハンソンの唇は、『青いターバンの少女』に描かれた少女の唇同様にぽったり厚く膨らんでいるのだが、『ゴーストワールド』のときの野暮ったさからは見違えるような官能性に富んだ成熟を『ロスト・イン・トランスレーション』で見せてくれていたにもかかわらず、この作品では、成熟未満の秘めたる官能性の豊かさを偲ばせ得る少女ぶりをデリケートに体現していたから大したものだ。この映画を観終えると、かの絵は真珠の耳飾りでも青いターバンでもなく、『赤い下唇の少女』と命名されなければならないものであることが改めて印象づけられる。

 さすればこそ、カタリーナが憤るのももっともな話で、「なぜ私じゃないの!」と食って掛かる言葉にフェルメールが「絵画を理解していないからだ。」と答えるところに含蓄がある。モデルが別に絵画を理解していなくても不足はないはずなのだが、あからさまに「官能的魅力がないからだ」と答えるわけにもいかない方便として強烈であると同時に、妻に対して発した言葉の向こうにいる映画の観客に対しても、『青いターバンの少女』という作品を通じて、この絵がそのように見えないとしたら「絵画を理解していないからだ。」と作り手が主張している形になっていたように思う。フェルメールが妻にそう言うことが方便としても有効な程度に、グリートには絵画的センスがあることが強調されて描かれていた。

 もっとも、いくらタイルの絵付け職人の娘だからといって、フェルメールの絵の下塗りを観て色調バランスに違和感を唱えたり、構図としての椅子の配置の不要を訴えるのはまだしも、窓ガラスを拭くことでアトリエの光が変わると躊躇うのは、さすがに不自然だという気がする。だが、作り手はグリートの台詞を通して観客に絵画への理解を促したかったのだろう。




参照テクスト:掲示板『間借り人の部屋に、ようこそ』過去ログ編集採録


推薦テクスト:「FILM PLANET」より
http://homepage3.nifty.com/filmplanet/recordG02.htm#girlwithapearlearring
推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました。」より
http://www.k2.dion.ne.jp/~yamasita/cinemaindex/2004sicinemaindex.html#anchor001155
推薦テクスト:「Puff's Cinema Cafe」より
http://www.ff.e-mansion.com/~puff/2004a.htm#GIRL WITH A PEAL EARRING
by ヤマ

'04.10.11. 東宝3



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