『美しき諍い女』(La Belle Noiseuse)
監督 ジャック・リヴェット


 創造とは闘いである、などということを言葉で伝えられると閉口してしまうのだが、創造がまさに闘いなのだということを実感させてくれるだけでなく、擬似体験ないしは追体験させてくれるとなると話は違う。執拗に繰り返されるデッサンの、紙の上を走るペンの刻むようなガリガリという音や木炭の擦り込むようなザッザッという音のリフレインのなかに潜むリズムをキャッチするところから、この稀有な体験が始まる。第一部において延々と続けられるデッサンの場面には、物語としては、画家がモデルのポテンシャルを高め、引き出そうとし、モデルが徐々にそれに同化していく過程を余さず掬い取るために必要なだけの時間がかけられているのであり、映画体験としては、観客が前述のリズムを映画のなかに発見し、共振することで創造の過程にコミットできるようになるだけの時間がフィルムに焼き付けられているということができる。それは、絵を描くという行為を限りなくリアルタイムに近い形で描出することの必然性に繋る。
 そのなかで変化していくモデルと画家の魂の鬩ぎ合いには、まさに闘いと呼ぶに相応しいテンションの高さが持続されている。ヌードモデルを承諾することを自分の意志決定として画家から求められずに受ける形になることへの憤慨を秘めて画家の前に立つマリアンヌ(エマニュエル・ベアール)の毅然とした眼差し。それが着衣のままでポーズを求められ、肩透しをくらったように拍子抜けしてしまったことを気取られまいとした一瞬の表情の揺らめき。ヌードになることを求められて、再び急激に高まった緊張感を湛えた眼の輝き。関係性を全く持たない男の前に裸身を晒し、じっと視つめられることの言い知れぬ違和感のなかに徐々に忍び寄ってくる恍惚感に驚きながらも陶酔していく時のピクピクと膨らむ小鼻の妖しい動き。次第に窮屈さと不自然さを増していくポーズに言われるがままに従い、小鼻をピクピクさせながら、ポーズという緊縛に耐えることを選び続けている自身への驚きとそのなかで研ぎ澄まされてくる強烈な意思の強さを放つ彼女の視線。リヴェットは、それら一切のことを殆ど映像だけでもって強烈なエロティシズムと倒錯的な官能性を湛えてフィルムのなかに掬い取っていく。そして、そのように彼女を引っ張っていく画家もまた、自分が直感を得たモデルが、かつて妻をモデルにして未完に終った『美しき諍い女』の完成に至る共同作業者たり得るのか、また自分はそれをなし得るのか、自信と期待と不安に揺れながら、目指す地点への道を辿ろうとする。究極の描線について語る画家に、「それを見たことがあるのか」と問うモデルもかなりのものだが、それに対して「ある」でも「ない」でもなく、「多分」と答え得る辺りには凄みが漂う。
 第一部の大半は、画家のこの狂気に近い究極の絵画への思い入れによってマリアンヌが変貌していく過程が描かれているのだが、そのラストにおいて、リードしていたはずの画家とそれに従っていたはずのモデルの到達地点が逆転してしまう。研ぎ澄まされた強烈な強さを放つ視線を見せるようになったマリアンヌが突然、ヒステリックに泣き笑う場面にはその瞬間が窺える。それは、芸術の持つ深遠さの淵に立ってしまった者が、引き込まれ自失してしまう恐怖に見舞われ、とっさに取った防衛反応だったのだろう。それを見て取った画家は、マリアンヌの方が先に行ってしまったことに打ちのめされる。画家であるのに筆ではなく、言葉でしか芸術を語れないと思えば、制作を断念しようとするのも当然である。だが、ひとたびその深遠なる淵を垣間見てしまったために、もはやマリアンヌには承知できない。第2部からは、二人の関係の変容が描かれることを予感させて第1部が終わった。

 それにしても、絵画を音楽を文学を映画を、趣味とし、楽しむ対象にしかなし得ないでいる我々平凡人の何とも幸いなることか。以前、『アマデウス』を観た時も結局最も印象に残ったのは、モーツァルトとサリエリの葛藤のドラマではなく、音楽という芸術の持つ怖さみたいなものものだったことを思い出す。この作品のなかで画家フレンホーフェル(ミッシェル・ピコリ)の口を借りて表白される絵画観、すなわち、徹底的な解体によって初めて内面の真実が浮び上がってくるというような考え方は、いささか古めかしい気がしないではない。現代において解体によって真実に辿り着けるという確信を共有できる人は、むしろ少ないはずである。しかし、この作品において重要なのは、フレンホーフェルの絵画観の新しさなどではなく、絵画という芸術の怖さなのである。(そもそも原作のバルザックは19世紀の小説家である。)

 ところで、第2部は、壁にぶつかった画家がソファーに腰掛けて素描帳というマリアンヌとの格闘の軌跡を辿り直しているところから始まる。様々なポーズのデッサンをめくりながら、第1部でポーズの最中にあれだけ顔を向けるなと命じていた画家が、最初の着衣のままの時に描いた、唯一の顔のデッサンのページだけを繰返し広げている。画家のなかで何かが揺らめいているのが判かる。そして、その後に、彼があなたの顔を描きたいと言い始めたら、断わったほうがいいと妻のリズ(ジェーン・バーキン)がマリアンヌに忠告をする場面が出てき、画家が妻をモデルにした未完の『美しき諍い女』のカンヴァスに描かれた妻の顔を塗り潰す場面へと繋るのである。映画の持つこういう呼吸、リズムは、観ている者を心地よさへと誘わずにはおかない。
 画家は、マリアンヌをモデルにしながらも『美しき諍い女』のなかにずっとリズの幻影を観続けていたのである。それを感じ取っていたマリアンヌは、当然のこととしてリズの忠告を拒絶する。彼女は、芸術の持つ深遠さの淵を垣間見たかもしれないが、まだ絵画の本当の怖さを知らない。しかし、それゆえにこそ『美しき諍い女』を本当に完成させてしまうかもしれないことを予感したリズは、それまでの協力的立場から離れ、自身のなかに湧き起こる嫉妬の感情に捉われ始める。リズとマリアンヌとの間にも創造を巡る闘いが始まった。第2部は、第1部の終わりに予感させた画家とモデルの関係の変容が描かれるだけではなく、より広い範囲で登場人物たちの感情の密やかなぶつかりあいが主題となって、実に高いテンションでもって綴られるのである。
 そうした果てに『美しき諍い女』は、完成し、そして幻と消えゆく。なにゆえフレンホーフェルは、そのような結末を選んだのであろうか。それが映画のなかではけっして語られることのない秘密であればこそ、観客の想像を掻き立てずにはおかない。
 ラスト・シークェンスは、完成作として公開されることになるもう一つの『美しき諍い女』の披露に主だった登場人物が一堂に会する場面である。それぞれがその絵を巡って様々なレベルの様々な思いを抱いている。そして、順次フレンホーフェルと短い会話を交わしていく。広い庭園を人物の動きを追いつつゆったりと回るカメラが、その周到に配置された人物と会話の順序にさりげない自然さを装わせながら、このなかにこそ、秘密に繋る鍵が潜んでいるやも知れぬとの緊張感を誘う。じらしにじらされて、やっと画家の前に来たマリアンヌは、何かを言いかけながら、彼の背後に画商の姿を認めて、黙って通り過ぎてしまった。リヴェットの技に嵌って、つい短い会話のなかに言葉による明らかな鍵を求めようとして、まんまと外され、外されたにもかかわらず、そうでなきゃいけないよなと納得させられ、再びあれこれ想像する楽しみへと向かう。観終えてからが、なお楽しい奥の深い作品である。色々な場面を反芻しながら、今度は自分の『美しき諍い女』を創造する番である。

 画家が真の『美しき諍い女』を壁のなかに閉じ込めてしまったのは、彼との凄じい格闘に耐え切って遂に目指す地点に共に辿り着いた果てに、内面の真実の姿を晒されて怯えてしまったマリアンヌに対して抱いた愛情と配慮なのかもしれない。彼は、彼女の導きによって初めて幻に見た地点に辿り着けたのである。それは、もはや公開して人に評価されることを必要としない絶対性に到達しているということなのだろう。ニコラからの手厳しい質問にも、彼は微動だにしない。そして同時にそれは、『美しき諍い女』の制作の挫折を契機として始まったであろう妻リズとのぎくしゃくした関係の再生をも娠んでいる。画家の才能を開花させ、芸術へと導くミューズがモデルであるならば、リズは単にもうモデルたり得なくなっただけでなく、『美しき諍い女』の制作中断によって画家に挫折感を刻み込んだ存在となってしまったからである。マリアンヌというモデルを得てから後もなお、フレンホーフェルがリズの顔にこだわっていたことには、無意識の内のそういう部分が働いているような気がする。しかし、『美しき諍い女』を完成させたことで彼の挫折感は解消し、それによってリズへのそういうこだわりもなくなったはずである。『美しき諍い女』の完成後にリズとフレンホーフェルの間で交わされた庭園での穏やかな微笑みには、そういうものが窺える。しかし、絵がリズをカンヴァスのなかで抹殺することで完成に至ったのだということを当のリズに知られている以上、彼らの関係の再生のためには、今度はリズの顔ではなくマリアンヌによる『美しき諍い女』そのものを抹殺しなければならなかったということであろう。
 しかし、そういう選択によってもたらされる穏やかな結末が、仮に創作過程における静謐なる激しさと好対照を為すとしても、第1部で芸術の怖さとそれに迫り得る狂気に近いような画家の思い入れを暗示していればこそ、もっとエゴイスティックな芸術家らしいカタストロフが待っていてもよかったような気もする。絵の完成によって、狂気はこのような穏やかさにまで昇華され得るものなのだろうか。だが、そのことは留保したうえで、やはりリヴェットが描きたかったのは、表層の穏やかさの底に潜む静謐なる激しさとそのバランスを支える緊張感そのものだったのだと言いたい。『彼女たちの舞台』でもそうであったように、リヴェット作品の最大の特長であり魅力となっているのが、テンションの高さであることに異論のある者はなかろう。だから、一寸した映像、配置、表情や科白が見落とせないのである。(実際のところは、エマニュエル・ベアールの肢体に目を奪われては字幕を読み落とし、忸怩たる思いに駆られたものだったが…。)そして、それが効果的に働くのは、カタストロフを待つようなドラマではない。映画のなかでフレンホーフェルがポーズを崩したマリアンヌに言う科白、「だらけるんじゃない。緊張を忘れるな。」リヴェットの映画芸術そのものに対する思いを象徴しているようで忘れ難いものであった。
by ヤマ

'92. 9.19. 県民文化ホール・グリーン



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