『ヴァン・ヘルシング』(Van Helsing)
『ヘルボーイ』(Hellboy)
監督 スティーヴン・ソマーズ
監督 ギレルモ・デル・トロ


 怪奇と科学は僕らが育った20世紀の娯楽物語の一大ジャンルだったが、過去から続くキャラクター遺産を活用しつつ、現代の娯楽作品として最新技術を取り込んだビジュアル・エンターテイメントに仕立てた同系ジャンルの二つの映画を続けて観た。図らずも相互の共通点と相違点とが際立っていて、鮮やかな対照イメージを残してくれたように思う。  僕の印象としては、現代の映画としての興味深さは『ヴァン・ヘルシング』がまさり、物語としての面白さは『ヘルボーイ』がまさっているように感じた。『ヴァン・ヘルシング』にはアークエンジェル・ガブリエル、『ヘルボーイ』には死の天使サマエルの名前が登場することや、それぞれの作品における古城の部屋の壁の図面なり月食に覆われる天空の月なりが入り口となる異界というものの登場の仕方などには、僕も『ゼルダの伝説』あたりで楽しんだコンピューターゲームという前世紀末から今に至る一大アミューズメントの大流行の影響が如実に窺えるような気がする。また、『ヴァン・ヘルシング』のジキル・ハイド、ドラキュラ、フランケンシュタイン、狼男、『ヘルボーイ』のナチス、怪僧ラスプーチン、半魚人など、説明を殊更に加えなくても一定イメージの共有できるものを借りることで、新たに付加するイメージの効果的な造形が果たしやすくなるようなキャラクターを実に有効に使っていたことでも、両作品は共通している。
 天空に開いた壮大な科学装置によって未曾有のパワーを引き出すシーンは、『ヴァン・ヘルシング』では死体もしくはドラキュラの卵を孵化させることに使われ、『ヘルボーイ』では異界の扉を開くことに使われる。さらに『ヴァン・ヘルシング』ではバチカンの地下組織で007ばりの秘密兵器の開発実験が行われ、『ヘルボーイ』では超常現象研究所での壮大な設備の元で異能の実験研究が行われている。
 魔物の増殖は、ドラキュラの卵の大量孵化のみならず、噛まれた者が魔物と化してひたすら増え続けるというヴァンパイア恐怖の根源的なものなのだが、『ヘルボーイ』でも魔獣サマエルの倍々増殖という形で煽られていた。対決する相手が不老不死の強敵で、いま倒さなければ、人間世界が滅びることになるとの状況設定も共通している。
 探ってみるとまだまだ共通点は尽きないという感じだ。それなのに、全く異なる切り口で作品造形を果たした映画であるような印象を与えるところが実に興味深い。

 『ヴァン・ヘルシング』にしても、フランケン(シュラー・ヘンズリー)やアナ王女(ケイト・ベッキンセール)、ヴァン・ヘルシング(ヒュー・ジャックマン)に付き従う修道僧カール(デヴィッド・ウェンハム)、ドラキュラ伯爵(リチャード・ロクスバーグ)の三人の花嫁など一定のキャラクター造形は果たしているのだが、最も強く印象に残るのは、やはりファイト&アクションのアダルトビデオ状態ともいうべき見せ場の連続ぶりだという気がする。あれやこれや形を変えたり、ワザを変えたり、趣向を凝らしたり、場を変えたり、あの手この手で息つく暇もなく繰り広げる。相対的にキャラクターやドラマを味わうよりも、視覚的刺激を惚けて楽しむことになる。それはそれで充分面白いものの、次第に酩酊状態にもなってくるのだが、それでも目が離せない映像の牽引力は大したものだ。
 一方、『ヘルボーイ』は、これも現代の映画ならではの映像技術を駆使していることが容易に見て取れるのに、どこかレトロな味わいを印象として残す。それは、やはりキャラクター重視、登場人物の関係性重視の“物語性”というものに力を入れているからだろう。僕などは、ブルーム教授(ジョン・ハート)の台詞にあったような大人になれないヘルボーイ(ロン・パールマン)のやんちゃキャラを愛情深く受け容れるよりは、しょうのない奴だとの思いが先行するのだが、親子の情、師弟の情、友情、恋愛感情、そして、生の営みのうえでの自身の誇りと人間としての関係性を念頭に置いた“選択”のありように古典的な重きを置いたドラマのほうが、観ていて落ち着きどころは得られやすかったように思う。

by ヤマ

'04.10.17. TOHOシネマズ3
'04.10.18.   東   宝   2



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>