『ぼくセザール10歳半1m39cm』(Moi Cesar 10ans1/2 1M39)
監督 リシャール・ベリ


 映画というものは、何の期待も抱かずに観るに限るとつくづく思った。実はあまり食指が動いてなかったのだが、折よく観る機会を得て大いに満足した。一時代を画した仏女優アンナ・カリーナがパンクファッションに身を包んで粋な役どころで登場したり、フランス映画なのにアメリカ映画『パルプ・フィクション』が粋な使われ方をしていたり、技巧を凝らしながらも決してあざとくは見えないカメラワークや映像展開の見事な編集など、映画好きの心をくすぐる魅力に溢れていたが、何と言っても子供たちの活き活きした姿が楽しく嬉しい。ハリウッド的な大人びたマセぶりとは異なり、あくまでも子供の心と体の成長過程でそこから抜け出つつある姿として捉えられていたように思う。純真さにおいても同様で、大人が自分の都合で願望的に託し勝ちな子供像ではなかった気がする。
 そのうえで、セザール(ジュール・シュトリク)が親友モルガン(マボ・クヤテ)と憧れのサラ(ジョセフィーヌ・ベリ)とともに企て、果たす冒険が、ただ面白く愉快なだけではない“業績”と言えるだけのものを残す結果を生み出す。そういう物語だから、観ていて非常に気持ちがいい。それとともに、大人になってからはなかなか出来ない、当てもなく踏み出すという“冒険”の価値を改めて教えてくれる。冒険というものが経験の蓄積と自信の形成を促し、それを手に入れる前と後では明らかに違う自分というものを自覚する形での成長を果たさせ、子供を抜け出した自分を意識し始めさせるものであるということだ。子供はそうやって成長していくものだし、それこそが“成長”で、人間の営みのなかでも最も価値ある行為だという気にさせてくれる。そして、それって子供だけの特権ではないのではないかという気分にさえもしてくれるから、四十代半ばの僕が観ても、ちょびっと勇気を与えられたような歓びが湧いてくる。だから、気持ちがいい。
 その一方で、そういう観点からすると、今の日本の子供たちを取り巻く状況が「当てもなく踏み出す冒険」というものを全く許さなくなっているし、子供たちも求めなくなっているような気がしてならない。チラシの裏面に「“プチ冒険”の連続が、いつしかパリ→ロンドンの“大冒険”へ!」という見出しが記されていたが、今の日本の大人たちは、子供に夢がないとか冒険心がないとか嘆きつつ、“大冒険”とその成果としての“業績”を称揚しながら、子供たちからせっせと“プチ冒険”そのものを刈り取っているような気がする。しかし、そもそも“大冒険”というものは、「“プチ冒険”の連続が、いつしか」としたものなのだろう。せめてセザールの親たちのように隙があれば、こうして間隙を縫うこともできるのだが、息苦しいまでに親たちの目が行き届く環境に10歳までの幼い時期囲われ続けると、10歳を少し過ぎた時点でセザールたちのような成長体験を手にする“冒険”のコツそのものを体得できずに来てしまい、十代の思春期に至って後、息苦しさのあまり脱出をし始めると、既に冒険の域を超えた逸脱になったり、セザールたちが体験したくらいのことではもはや“大冒険”にはならず、彼らが得たような業績には至らなくなってしまう。
 10歳半1m39cmあたりまでの我が子との関わりを振り返ってみて、反省しきりでは済まない取り返しのつかなさのようなものを覚え、少し申し訳ないような気がしてきた。


推薦テクスト:「FILM PLANET」より
http://homepage3.nifty.com/filmplanet/recordM02.htm#moicesar10ans121m39
by ヤマ

'04.10. 9. 県立美術館ホール



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>