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『ゴーストワールド』(Ghost World) | |||||
監督 テリー・ツワイゴフ | |||||
テリー・ツワイゴフ監督の『クラム』は自分たちで上映した作品だったが、またしてもコミックに材を取る作品だとは、よくよくコミックが好きなんだろう。『クラム』でも窺われたクセとアクのある世界に惹かれる感性は本作でも全開だが、その根底にある、ある種の健全さのようなものもまた今回際立っていたように思う。むしろ、だからこそ一筋縄ではいかないもののほうに真実を感じとるのだろうという気がする。 イーニド(ソーラ・バーチ) とレベッカ(スカーレット・ヨハンスン)の二人が何よりも侮蔑するのは、型通りに刷り込まれた安っぽい個性。負けず劣らずチープであろうとも、自ら選んだ風変わりさを愛好し、シニカルに冷ややかに、人間を斜めに観ていたりする。十代の頃に少なからぬ人々に覚えのある気取りであり、自己主張であり、自分探しだ。そのあたりの呼吸や空気がうまく掬い取られていて、微苦笑させられるのだが、昨今の若い女性が見ればなおさらのことだろう。 気が利いているのは、冴えないオタク中年男シーモア(スティーヴ・ブシェミ)との絡みで、イーニドがリアルな感情体験や葛藤を重ね、成長していくところだが、冴えないオタク男を自覚し、卑下も居直りもひねくれも欝積させずにいささかの自負とともに気後れを体現しているシーモアの個性が、病的でないオタク像を提示していて、けっこう爽やかだ。イーニドが彼に惹かれたのも、そのあたりだとすれば、ともに抱えるオタク体質の呼応として、さもあらんといった風情なのだ。 だからこそ、気になるのは最後の顛末だ。耐え難い家を出てレベッカと同居することやスカラシップを得ての美術学校への進学チャンス、更にはシーモアさえも、ささやかな心頼りにしていた総てのものを突如として同時期に失って、八方塞がりになったイーニドが、既に廃止された路線のバス停で毎日バスを待ち続けていた老人に、「いつまでも変わらないのは、あんただけ」と呟くと、それは違うと告げられた場面があって後、最後のほうで夜の闇のなかに来るはずのないバスがやって来て、老人だけが乗り込み、発車するのをイーニドが目撃する場面がある。そこには確かに死が演出されていて、バスに乗りこの地を離れることがこの世を離れることをイメージしていたように思われるのだが、そのバスにイーニドは乗ってしまうのだ、真っ赤なワンピースに丸い旅行鞄ひとつぶら下げて。 そのことが、どうにも彼女の死を意味しているとしか思えなくて、妙に落ち着かない。一時期の最悪の事態からはイーニドは脱していて、レベッカとの壊れかけた友情もリカバーしていたし、シーモアとの関係は最も後ろめたかったはずの秘密が露見した後の“雨降って地固まる”的な回復を見せていたから、何も死を選ぶ必要はないはずだし、そもそもイーニドには八方塞がりの時点からして自殺は似合わない。十代の女の子に突如訪れる死への衝動というのはあり得ないことではないし、そうした場合、得てして何も死ななくてもといった状況になってから訪れるというのも判らないではない。しかし、納得がいかない。かといって、イーニドがバスに乗り込んだのが死を意味してはいなくて、単なる旅立ちだとしたら、彼女は一体何処へ行ったのだろう。また、バスはどうして天上へ向かうような坂道を登るショットで映し出されたのだろう。それより何よりも、シーモアが何故に怪しげなカウンセラーのもとに、いかにも孤独そうに母親に付き添われて通う羽目になっていて、ようやく快方気味にあるというような事態にたち至っているのだろう。例のクーンズ・チキンの絵のせいで、仮に解雇になっていたとしても、それが大きな喪失感に至るようなシーモアだったようには思えない。それほどのショックをもたらすに相応しいのは、やはりイーニドの死しかないように、僕は思う。 でも、例えば『ヴァージン・スーサイド』のように自殺を明示して、その不可解さに寄せるある種の思いを綴るのでもなく、この一見したところオルタナティヴな生き方を求めるコミュニケーション下手なイーニドについて、不可解な形での死を仄めかされると、それはないんじゃないの?と異議の申し立てをしたくなる。そこがどうにも落ち着かないところだ。少なくともこういう顛末をもって、だからこそオルタナティヴ・テイストなのだというようなことだけは言いたくないと思った。 参照テクスト:掲示板『間借り人の部屋に、ようこそ』過去ログ編集採録 推薦テクスト:「チネチッタ高知」より http://cc-kochi.xii.jp/taidan/0203Gworld.html | |||||
by ヤマ '02. 1.11. 県民文化ホール・グリーン | |||||
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