『the EYE【アイ】』(見鬼[The Eye])
監督 オキサイド&ダニー・パン


 二年半前にフランス映画の『クリムゾン・リバー』を観たとき、ハリウッド的な娯楽映画としての異なるジャンルの要素を目一杯取り込みながら、破綻させずに観せ切ってくれた力わざに感心したのだったが、取り合えずホラーというジャンルが与えられるはずの、この香港=タイ合作映画には、それに加えて観せる力の洗練とこなれが備わっていて、非常に斬新な印象を残してくれた。監督・原案・脚本・編集を一手に負っている兄弟監督のデビュー作であるタイ映画『レイン』については、僕は未見に終わっているのだが、俄にとても気になってきた。
 普通の人に見えるものが見えないことと、普通の人には見えないものが見えることのどちらがより苛酷であるのかは、そのどちらにも縁のない僕には察しのつきにくいことながら、普通と比べてというよりも、人の死というものが、不断に視覚として自分のなかに侵入してくることが実に耐え難いものであろうことは、容易に察しがつく。映画では、この耐え難さというものが視覚的によく表されていて、大いに感心した。音で脅かすばかりの手法があまりに横行していることに閉口しているだけに、映像に工夫が凝らされていることが妙に嬉しかったりする。
 ハッとしたのがマン(アンジェリカ・リー)が自分の映っている写真を観て、これは自分じゃないと言ったときだった。最初からマンにはリン(チャッチャー・ルチナーノン)の姿で自分が見えていたわけだ。徐々にリンの視覚の記憶に侵食されたわけではなかったということだ。死の予知能力も、リンというよりはリンの角膜の持っていた能力だったということなのだろう。だから、容易にマンに移植されたというわけだ。脳ではなく、角膜の機能として特殊能力を捉えているところが新鮮だった。もうひとつ、妙に新鮮だったのは、リンが成仏できずに現世に遺した思いというのが、恨みや怒りではなく、母親に謝罪し赦しを乞いたいとの思いだったという設定だ。個人に対してであれ、社会に対してであれ、ネガティヴな感情を遺恨として残すのが成仏できないときの常套だという気がするだけに、大いに意外だった。
 そして、最後にはディザスター・ムービーと化して、ホラーを逸脱したクライマックスを迎えるばかりか、視覚を得ていたこと自体が一炊の夢とばかりの結果になるのだが、決して元の木阿弥的な結末ではなく、視覚を得ること以上のハッピーエンドとしてのラブ・ストーリーで締め括っているところに感心した。目が見えることを無頓着に優位に置いているわけではない新鮮さと爽やかさが観後感として残っていたからだ。次作も前作も是非とも観たいという気にさせられるパン兄弟の快作だと思う。


推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT」より
http://dfn2011tyo.soragoto.net/dayfornight/Review/2003/2003_04_21.html
by ヤマ

'03. 8.21. 県民文化ホール・グリーン



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