美術館特別上映会“寺山修司映像パノラマ館”


『檻囚』62
『トマトケチャップ皇帝』71
『ジャンケン戦争』71


短編実験映画集:
『青少年のための映画入門』74
『蝶服記』74
『ローラ』74
『審判』75
『迷宮譚』75
『疱瘡譚』75
『消しゴム』77
『マルドロールの歌』77
『一寸法師を記述する試み』77
『二頭女-影の映画』77
『書見機』77
『書を捨てよ町へ出よう』71 (一日目)
『田園に死す』74 (一日目)
『上海異人娼館』81 (二日目)
『さらば箱舟』82 (二日目)
脚本作品『乾いた湖』60 篠田正浩監督(一日目)
脚本作品『涙を、獅子のたて髪に』62 篠田正浩監督(二日目)
森崎偏陸氏トーク 「寺山修司の半世界」
 初日の初回上映作品『書を捨てよ町へ出よう』は、半年ほど前に観たところだったので、この日の鑑賞は見送ったが、噂や文献で知るだけでオリジナルの上映形式で目撃することは、もはや無理だろうと思っていた『ローラ』や『審判』を今になって目にする機会を得ようとは思ってもいなかった。前者は、客席に向かって映画のなかから挑発すると客席からスクリーンに物を投げつけた挙げ句、実際に特殊スクリーンに分け入る形で映画のなかに飛び込み、衣服をはぎ取られて逃げ出してくるという作品(当然のことながらカイロの紫のバラ[ウッディ・アレン監督]以前の作品)で、後者は、釘にまつわるさまざまなイメージがアナキィに綴られた挙げ句、最後には客席からステージにあがった観客が木製スクリーンに10分間近く釘を打ちつけて終わる作品だ。『蝶服記』では、カラー映像を遮る人物の影の動きが映画のなかに焼き付けられているだけでなく、映写中もライブで手や団扇の影が映像を遮るし、『青少年のための映画入門』では、カメラに向かって放尿する男性器を直写し、『トマトケチャップ皇帝』では、文革批判にかこつけた顰蹙ものの映像世界が繰り広げられる。
 善くも悪くもアンチの時代を反映した作品群であり、アンチであることで表現が表現たり得ていた時代を物語りつつも、今から観れば、たわけたことを好き放題やっていた、否定と挑発のエネルギーを感じはしても、あまり気の利いたセンスは感じられない。しかし、この野暮ったさこそが寺山の持ち味でもあるのだろう。だが、そんなことよりも気になるのは、偽悪的な騙りというか捏造が、フェイクに満ちたトリッキーな韜晦の背後に潜んでいるように感じられる彼の体質のほうだ。一日中、寺山作品を眺めていると、これまでに折々に接するなかで漠然と抱いていた“寺山修司”とは“衒山修辞”ではなかったのかという思いがますます鮮明になってきた。勘繰ってみれば、彼が職業は?と問われて「テラヤマシュウジだ」と答えたのは、とどのつまりそういうことだったのではないだろうか。

 僕が『田園に死す』を初めて観たのは、十八歳のときだから二十五年ぶりに再見したことになる。当時は訳も判らず圧倒されつつも何か妙に嫌な感じが残ったことを覚えている。寺山作品との初めての出会いだった。まだそういろいろな映画を知ることもない時点だったから、刺激が強すぎたのかもしれないという気もしていたのだが、今回再見して、あながちそうでもなかったような気がした。
 主人公は寺山自身を色濃く投影したように見受けられる映画監督で、最初に描かれた少年期の記憶の物語を綴った映画がきれいに騙られすぎだとの独白があり、もうひとつの記憶の物語が新たになぞられるわけだが、どっちがより多くの騙りを含んでいるのかは一概に言えない感じを残す。現実には起こらなかった記憶もまた記憶なのだという韜晦に満ちた台詞が盛り込まれたこの物語は、そもそも時制からして出鱈目の世界だ。少年は、十五歳とも言うし、中学一年生だとも言う。その少年の二十年後の姿としての監督は昭和四十九年を生きていると言うのだから、少年時代は昭和二十九年となるはずなのに、舞台がどうも戦後のようには見えない。兵士の姿は、亡父の幻影かもしれないが、戦争が終わったという台詞があったり、戦争に行くという話があったり、場面場面で無節操に変わる。
 そこには、記憶というものは“騙り”に他ならないという寺山の慧眼が潜んでいて、それはそれで少しも間違ってはいないのだが、それを妙に逆手に取っているようで気に入らない。もしかしたら作家として当代の騙り手をめざした確信犯だったかという気もしたのだが、自伝的要素を色濃く匂わせる作家だけに、騙りに居直るようなスタイルがどうにも胡散臭くて仕方がないという気になってくる。それは、短編実験映画群でアンチの時代を色濃く反映したと言えながらも、寺山自身のアンチには、ポーズというか、どこか時代への迎合の匂いが感じ取られることにも通じている。事実か虚構かといったこととは全く異なる次元での作家的誠実さを僕はどうも感じ取れないでいるようだ。
 この日の『田園に死す』の上映は、そういう寺山のイメージにいかにもふさわしく、エンドロールの最中にスクリーンが吊り上げられ、背後のホリゾント幕に映っていたのも束の間、ホリゾントも吊り上げられ、その背後に収納された能舞台が剥きだしになった状態での映写が続き、袖幕までもが順次吊り上げられて、舞台裏がさらけだされるという、まことに奇を衒ったエンディングを果たしていた。
 そのあとに上映された『乾いた湖』は脚本作品だが、老いも若きも、富裕者も貧者も、男も女も、どうにも下びた人間ばかりが居並んで、いささか辟易とした。悪漢なら悪漢でピカレスクの魅力を潜ませてくれればいいのだが、そんな余地がほとんどなく、厭世気分を催させる。しかし、この映画は四十年前の作品だが、今の日本社会の底が抜けたような壊れようを観ると、今のこの姿が四十年前に約束されていたことのようにも思えてくるところが見応えでもあった。それに比べると、二日目に上映された同じ監督による『涙を、獅子のたて髪に』は、確かに時代性は窺わせながらも、随分と図式的で安っぽく見えて仕方がなかった。そして、脚本の二作品では、思いがけなくも共通して「つくり話が好きなんだ」というような主人公の台詞があって、大いに関心を惹いた。

 奇しくも命日にあたったという二日目の短編実験映画集は、ほとんどが70年代後半、つまりは昭和も50年代に入ってからのものとなり、もはや挑発とアンチの時代が過ぎ去り、シラケの時代に変わるとともに“連帯”から“個人”の時代へと変わったことが露呈してきつつあった頃のものである。作品群もそれに見合うかのように挑発とアンチというよりは、イメージの探究と自分探しのニュアンスに重心が傾く方向に変化しているように見えた。
 遺作となったさらば箱舟を観るのは、十七年ぶりだ。初日に四半世紀ぶりに『田園に死す』を再見していたおかげで、時計と時間を巡るイメージが本家・分家の部分も含めて、思っていた以上に踏襲されていて、すっぽりと移し替えられているとさえ言えることに気づいた。寺山がテクストにしたというマルケスの『百年の孤独』は未読なので、どこまでがマルケスによるものなのかは判然としないが、僕にはむしろ『田園に死す』で色濃く匂わせた自伝的要素を排し、より普遍化したスケール感のなかで人間の営みやそこに潜む記憶と時間について綴るためにマルケスのテクストを借りてきたような気がする。そういう点では、十七年前の日誌にも綴ったように、彼の私臭からの昇華度が高くて僕が最も共感しやすい作品だ。
 長編作品では唯一今回が初見となった『上海異人娼館』は愚作と言うしかない代物だった。寺山は何をもって『O嬢の物語』のテクストを持ち込もうと考えたのだろう。ある種の過激さやらセンセーショナルなパワーに惹かれただけのような気がする。序盤の意気込みは、たちまちのうちに息切れし、つまらぬパロディや滑稽に逃避し、果てには苦し紛れに『迷宮譚』で繰り返したイメージを挿入して誤魔化している。もしもポーリーヌ・レアージュが観たら憤慨するに違いない安っぽい悪趣味な性の奇譚に落ちぶれていた。
 かの作品に盛り込まれたテクストは、いかなる不自由も駆逐はし得ない人間にとって、真の解放(自由)は完璧なる隷属(不自由)のなかにのみ実現されるという恐るべき思想だと僕は思っている。あらゆる屈辱や苦痛を最大限に甘受し、さらには快楽へと転化し得ることによって、いかなる屈辱や苦痛も苦になり得ない、換言すれば、いかなる不幸もあり得ぬ至福の境地に到るプロセスを描いたものであり、人間にとっての快楽への転化の唯一の鍵としての性に対する認識があり、性が生の根源である以上、人間とは本質的にそういった転化を為し得るものだという人間観を提出しているものだという気がする。であればこそ、ステファン卿の呪縛を逃れ、一途な少年との愛に目覚めることやステファン卿の死がO嬢の解放を意味するなどというのは、明確なテクスト批判が込められてもいない以上、噴飯もののテクスト誤読と言えるのではなかろうか。
 そもそも劇映画・実験映画含めて、寺山の作品に出てくる女性像は、総じて不可解で強い女のイメージで、ときとして、ふてぶてしくさえある。そして、彼の作品には、そういった女性に対する恐怖と憧憬といったものが常に潜んでいるような気がする。裸体や性的イメージは、ふんだんに登場するものの、そこに性的快楽を漂わせることは極めて稀で、営みや課題といった側面が強く、むしろ強迫的なものさえ感じさせる。そんな寺山に『O嬢の物語』は、もともと似つかわしくはない素材だったのではないかと思う。結果的に彼のなかに窺われる性的コンプレックスが裏返しになっただけの貧相な作品になってしまっていた。

 それにしても、死後十八年を経ても寺山修司の人気は大したもので、高知県立美術館ホールは、この種の映画の上映会には似つかわしくないような多くの人出で賑わっていた。主催した県立美術館を運営する高知県文化財団は他に県立文学館も運営しており、そちらで今開催中の春季特別展“寺山修司展「テラヤマ・ワールド-きらめく闇の宇宙」”との関連企画の特別上映会として実施されている。美術館の展覧会との併設企画としての上映会というのは、これまでにも何度かあったが、他館の催しとの関連企画としての上映会は初めてのことだと思う。非常によいことで、意欲的な連携事業として高く支持したいと思った。願わくば、寺山だけで終わりにならないことを期待している。


参照サイト:「高知県立美術館公式サイト」より
https://moak.jp/event/performing_arts/post_183.html


*『上海異人娼館 チャイナドール』
推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました」より
http://yamasita-tyouba.sakura.ne.jp/cinemaindex/2004sicinemaindex.html#anchor001175
by ヤマ

'01. 4.30.& 5. 4. 高知県立美術館ホール



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