『めぐりあう時間たち』(The Hours)
監督 スティーヴン・ダルドリー


 1941年に六十歳を前に入水自殺した英国の女性作家ヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』を下敷きにして、同じように花を買い求め、パーティの準備をし、生と死に想いを巡らせ、自殺と向き合う三つの一日が描かれる。ダロウェイ夫人と同じ1923年のロンドン郊外リッチモンドの一日がヴァージニア・ウルフ(ニコール・キッドマン)、彼女の自殺の十年後で二十世紀の後半に入る1951年のロサンゼルスの一日が小説『ダロウェイ夫人』を愛読する主婦のローラ(ジュリアン・ムーア)、そして、新世紀を告げる2001年のニューヨークの一日がダロウェイ夫人と同じ名を持つ編集者クラリッサ(メリル・ストリープ)だ。まず、この意匠を凝らした設定のマイケル・カニンガムの原作小説を脚色して映像で巧みに綴らせた、デイヴィッド・ヘアの脚本の素晴らしさが印象深い。時と場所を越えながら、織り込むように重なり呼応し合ってくる三つの一日を絶妙のバランスで連ね合わせ、人の求める居場所と証というものの心許なさと生より死に心引き寄せられる魂なり、常に死を意識せずには生きていられない魂といったものの哀切を綴っていたように思う。そういう点では、先頃足摺岬を観て、原作小説に当たった田宮虎彦の世界に通じるものがあるのかもしれない。そう言えば、彼も七十六歳で投身自殺をしたのだった。

 小説『ダロウェイ夫人』を僕は未読だけれども、マルレーン・ゴリス監督の映画化作品は、五年近く前に観た覚えがある。フェミニズムの先駆けともされるウルフの代表作をアントニアで“女性による、女性の映画”を強烈に印象づけたゴリスが映画化したことで、濃厚なフェミニズム色を予想して見事に裏をかかれた記憶がある。そして、もうひとつの在り得た人生の可能性を偲びつつ、やり残した生に対する思いを、やり直しようもない残り時間の少なさのなかで、老いとして受け入れていく心境に味わい深いものがあったように思う。それからすると、この作品は、生よりも死のさす影のほうが濃厚だ。

 この映画では、生の証なり愛の証なり評価の証といった形で“証”へのこだわりと居場所としての落ち着きへの不安が描かれる。前者は特にクラリッサに強く窺われ、後者はローラに顕著だったような気がするのだが、『ダロウェイ夫人』にも描かれたそれらの問題は、僕自身にとっても身近なことだけれども、「生より死に心引き寄せられる魂なり、常に死を意識せずには生きていられない魂といったものの哀切」となると僕には、かなり苦手な領域になってくる。学生時分に、思春期青春期を通じて只の一度も自身の自殺というものに思いを馳せたことがないことを友人たちに咎められ、呆れられたことを未だによく覚えているが、その後も、只の一度もそういう感覚に引き寄せられたことがない。そういう意味では、テオ・アンゲロプロス監督の蜂の旅人を観たときに、映像と話法の仕掛けを堪能しながらも、感情的なコミュニケーションに不思議なほど繋がらなくて、手応えとしての心許なさを覚えたときのことを思い出した。あのときは「つらさ」だったが、「死への誘い」でも「つらさ」でも、感情体験として自身にさして覚えのないものをイマジネーションで補うにしても、それがあまりにも根源的な感情体験である場合には、何かを基に想像力で補うというようなことがむずかしくなるような気がする。

 先日、こまつ座の公演で井上ひさしの『頭痛肩こり樋口一葉を十五年ぶりに観て、やはり前回と同様、ある種の疎外感を覚えたことについて、「どこにも救いや支えとなる男の影はなく、結果的に、男女の断絶が際立つ形でしか女同士の連帯が描かれていないような気がし」たからだと思ったのだが、花蛍が一葉に指摘した、死に引き寄せられる魂という感覚のほうが僕を遠ざけていたのかもしれない。この『めぐりあう時間たち』を観て、『蜂の旅人』を観たときのことを想起するなかで、そういう思いが湧いてきた。

 ところで、映画『ダロウェイ夫人』を観たときには考えたりしなかったように思うが、今回ちょっと気になったのが、同性愛のことだった。2001年のクラリッサには、1923年のクラリッサと同じくサリーという名前の友人がいたが、二人は同棲していて人工受精で娘を得ていた。しかし、結婚もしていて、相手は同性愛者の文学者リチャード(エド・ハリス)で、エイズ患者だ。1923年のクラリッサ・ダロウェイがセプティマス青年の自殺に深い影響を受けるのと同じく、2001年のクラリッサ・ヴォーンも衝撃的な自殺を目の当たりにする。そして、クラリッサは同棲しているサリー(アリスン・ジャニィ)と、ローラは女友達のキティ(トニー・コレット)と、ウルフは姉と、それぞれ唇を合わせるシーンがあるのだけれど、作り手は、この作品でヴァージニア・ウルフのレズビアンとしての人生を夢想していたような気がする。

 つまり、ウルフが自身を投影したと思われるダロウェイ夫人が夢想した“在り得たもう一つの人生”というのを、政治家リチャードとの穏やかな人生ではなく、夢想家ピーターとの波乱含みの人生としている『ダロウェイ夫人』とは異なり、女友達サリーとの同棲生活だとしているように思うということだ。それは、更にもうひとりのウルフであるローラが、一度は自殺を試みようとしながらもそうはせず、平穏な主婦としての生活と二人の子供を棄てるに至るほど、夫に尽くす妻として男と暮らす生活を自身の“死の状態”と形容していたことや孫たるジュリア(クレア・デインズ)から怪物呼ばわりされていたところに、五十年前にしてそのような生き方を選び得た尋常ならざる強さを仄めかしているような気がしたからでもある。もしかしたら、ウルフの心の病に対しても、そういう面での本来の自分を抑圧したことに原因を求めて受け取っているのかもしれない。ウルフが、ローラのように生き得たなら、自死することなく、ローラのように長生きできたかもしれないということだったりするのだろうか。


参照テクスト:掲示板『間借り人の部屋に、ようこそ』過去ログ編集採録


推薦 テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/0305-3azu.html#hours
推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT」より
http://dfn2011tyo.soragoto.net/dayfornight/Review/2003/2003_06_02_2.html
推薦テクスト:「THE ミシェル WEB」より
http://www5b.biglobe.ne.jp/~T-M-W/moviemeguriaujikantachi.htm
推薦テクスト:「FILM PLANET」より
http://homepage3.nifty.com/filmplanet/recordH.htm#thehours
推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました。」より
http://www.k2.dion.ne.jp/~yamasita/cinemaindex/2003mecinemaindex.html#anchor000949
推薦テクスト:「シネマの孤独」より
http://homepage1.nifty.com/sudara/kansou7.htm#meguriau
推薦テクスト: 「マダム・DEEPのシネマサロン」より
http://madamdeep.fc2web.com/TheHours.htm
推薦 テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/taidan/0407-1meguri.html

by ヤマ

'03. 6. 1. 松竹ピカデリー2



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