『ダロウェイ夫人』(Mrs.Dalloway)
『シークレット[嵐の夜に]』(A Thousand Acres)
監督 マルレーン・ゴリス
監督 ジョセリン・ムーアハウス


 第127回市民映画会は、女性の時代を反映してか、二本の作品が二本とも“女性の、女性による、女性のためだけでもない”という映画のカップリングであった。プログラミングした側がその点を意図したとは必ずしも思えない作品であっただけに、よけいに時代の状況といったものを感じさせてくれたように思う。それにしても、原作、脚本、監督、主演、総てが女性の手による映画でありながら、殊更にそういったことが売り文句にされない状況が既に来ているのだ。
 『ダロウェイ夫人』は、ヴァージニア・ウルフの同名小説を『アントニア』のマルレーン・ゴリスが監督した作品で、『アントニア』がまさしく“女性による、女性の映画”だと感じさせたことを思い起こすと、意外なほどに女性性が前面には出ていない映画だった。また、細部のリアリティに全くこだわらない展開やイメージあるいは人物造形の自由奔放な豊かさに驚かされたり、それでいて荒唐無稽などとは微塵も感じさせずに、作品全体に帯びる力強さやたくましさ、おおらかさといったものへと結実させていく構築力に唸らされた記憶からは想像もできないほど、慎ましく穏やかな描写で綴られていく。ダイナミックな創造性と女性的感性の見事な結実という点で僕は断然『アントニア』のほうを支持するけれど、人生を振り返り、過去に思いを馳せる心の動きという点では、四十路を迎えて、時としてそういう思いに捉われることがあるだけに、身近に感じられなくもない。つい最近、友人が教えてくれた“チクチクと胸をさすリグレット”というフレーズがすっかり気に入っている最近の僕の心境には、案外ふさわしい作品だったのかもしれない。
 クラリッサは、現実的で穏やかなダロウェイとの結婚を選んで、夢想家で思い込みが激しく、若々しい野望と情熱に溢れたピーターとの人生を選ばなかったのだが、そのことを強い後悔という形ではなくて、もうひとつの在り得た人生の可能性として惜しみ懐かしむ感覚をいだいていたように思う。それは、人生の半ばを過ぎた僕としても親しみの持てる感覚なのだ。残された時間が少なくなればなるほどに、夢想のなかでは人は人生に対して欲張りになるものだ。やり残した生に対する思いを、やり直しようもない残り時間の少なさのなかで偲びつつ、やり直しようもないからこそ、その現実を受け入れられるわけで、そのことによって老いを認めていく。そんな老いの受容の過程というもののリアリティを感じた。本当に久しぶりの時を経て再会したというピーターとサリーの人物造形がとても好もしいもので、後味のいい作品だった。
 『シークレット[嵐の夜に]』は、ジェーン・スマイリーのピューリッツァー文学賞受賞作を映画化した何とも凄まじい作品であった。かの「リア王」をモチーフに“不当に悪女扱いされた二人の姉”という視点で、とんでもない読み替えをした着想には唸らされるものの、あまりの救いのなさに呆然としてしまう。作り手が男というものに対して強烈な怒りを内在させていることに思わずたじろいだ。暴君か役立たずか軽薄なやさ男か、いずれにしても登場する男に魅力ある人物は、一人もいない。ドラマの緊迫感と堂々たる風景とで観る側を放さない力技を持つ故に一級の娯楽作品だとは言えるのだが、あまりに力技に走った演出と展開であったために、凄絶な父娘の関係にただ圧倒されるだけで、共感やイマジネーションの働く余地がなかった。実の娘への性強要という児童虐待は、決して希有なことではないとの社会的認知(アメリカの近親相姦には父娘が多く、日本では母子相姦が多いと何かで読んだことがある)は得られつつあっても、今だにケア体制は、ほとんど未構築であるように思う。父親を決して許さなかったことが自分の誇りだと言う次女ローズ(ミッシェル・ファイファー)と忌まわしい記憶をすっぽりくるむことで生き延びてきた長女ジニー(ジェシカ・ラング)。その姿には、何処にも救いがなくて、結局誰からもケアされない人生であった。
by ヤマ

'99. 7. 3. 県民文化ホール・グリーン



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