『蜂の旅人』(O Melissokomos)
監督 テオ・アンゲロプロス


 初老に差し掛かった男が人生と自身に虚無を感じ、職を辞して家族と別れ、自分探しの旅に出る。青春時代の友人に再会したり、奇妙な同行人ともいうべき少女と出会ったり、生家を尋ねたりという大筋は、格別珍しくもなく、いかにも文学的香気の漂うお話である。

 しかし、映像と話法の仕掛人アンゲロプロスが、そんな話を当たり前に整ったドラマとして平然と綴っていくわけもない。めでたさや祝福感の全く感じられない冒頭の結婚式のシーンから始まって、蜜蜂に襲われ地に伏して大地をノックしながら死にゆくラストシーンまで、総ての場面・エピソードが徹頭徹尾、普通ではない不自然さと不可思議に満ちている。

 観ている側からすれば、漫然と見過ごしようのない台詞、映像、展開ばかりなのだから、始終引っ掛かりっぱなしになるわけで、そこにさまざまな意味を読み取り、解釈を加えることは、むしろたやすいとも言うべき作品だ。ラストシーンの大地のノックにしても、旧友を訪ねた病院で交わされたモールス信号のエピソードから、死にゆくことを友人たちに告げる信号だと解釈してもいいし、あるいは、主人公スピロの自分探しの旅とその結末自体が次世代へのメッセージなのだということを表していると観てもいい。また、虚無に包まれた現実から逃れ、次なる新たな世界へ旅立つ訪問のノックだと観てもいいのではないかと思う。

 通常は、そのようにして作り手が施した仕掛けを受け止め、そこに何らかの自分にとっての意味を見い出すと、作り手と親しく話したようなコミュニケイションの手応えを覚えるものである。ところが、この作品は、徹頭徹尾普通ではない不自然さと不可思議に満ちているがゆえに、その材料も刺激も豊富で鮮烈で、さまざまな解釈や想像を促してくれるにもかかわらず、それがコミュニケイションの手応えといったものには繋がらなかった。我ながら奇妙で不思議な感じがした。

 どうしてなんだろうと疑念をいだきながら、高知映画鑑賞会の川崎氏と話していたら、氏が「つらい映画でしたねぇ。」と言ったので、ふと気づいたことがある。つらさというのは、感情体験として僕が一定時間付き合ったことのあるものではないからなのかもしれない。僕は、幸か不幸か、それほど多くのつらい出来事に出会ってこなかったし、つらさを感じても、それをつらいと思うままに感じ続ける持続力がなくて、すぐに考え方や観点を変えて対象化してしまう小利口さに恵まれてきた。この映画がつらい体験やつらい出来事を描いているのであれば、想像力によって、僕にももっと馴染めるものになったのだろうが、『蜂の旅人』は、そういう類の作品ではない。もし、この映画自体の持つ感情の核の部分がつらさであったのなら、僕にはピンと来なかったとしても仕方がないかなという気がしたのである。そうか、さびしさでもむなしさでもなく、つらさが核だったのか。言われてみれば、確かにそんな気もする。

 この作品とともにアンゲロプロス監督の<歴史の沈黙四部作>を構成する前作シテール島への船出の主人公もスピロという名前だったという記憶があるが、あの作品で核の部分を構成していたのは、つらさというよりも、孤独であったような気がする。孤独であれば、つらさと違って僕にも馴染みの深い感情だ。そして、描かれていたのは、隔絶・断絶だったという気がする。『蜂の旅人』もそう言ってしまえば、似たようなエッセンスで成り立っているのだが、そこのところが微妙に違っているために、僕にとっては結果的にかなり印象の異なる作品になったということだ。面白いもんだなと思った。
by ヤマ

'97. 5. 9. 県民文化ホール・グリーン



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