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美術館冬の定期上映会“北欧映画祭”
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暖冬の二月末日、美術館の北欧映画祭に出掛けた。ノルウェー、フィンランド、スウェーデン、デンマーク、アイスランドの北欧五ヵ国それぞれ二作品で計十本の映画の上映がおこなわれた。レベルもジャンルも多岐に渡る作品のなかで、各国二作品しか観ずに断ずるのは見当違いも甚だしいが、それでも個々の監督の力量を越え、ジャンルの違いを越えたところでの各国の地域性の違い、あるいは逆にそれらを包括した北欧的地域性といったものも感じさせてくれて興味深かった。 全般的にデンマーク(『ポートランド』『エピデミック』)、スウェーデン(『ウィンター・ベイ』『ハンター』) に傑出した作品がなく、ノルウェー(『野良犬たち』『卵の番人』) 、フィンランド(『祈りの果てに』『トータル・バラライカ・ショー』)に印象深い作品があった。それは、必ずしもその国の映画の水準自体を示しているのではない。むしろ反対だと思われるところが面白い。スウェーデンは、古いところではイングマル・ベルイマン、記憶に新しいところでも『マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ』(85年) のラッセ・ハルストレム監督を輩出しているし、デンマークは、古いところではカール・ドライヤー、新しくは『バベットの晩餐会』(87年) のガブリエル・アクセル監督、『ペレ』(87年) や『愛の風景』(92年) のビレ・アウグスト監督、『ヨーロッパ』(91年) や『奇跡の海』(96年) のラース・フォン・トリアー監督などの名が挙がる。それだけ世界市場へ映画が流通しているから、今回の北欧映画祭で掘り起こす余地が少なかったのだろう。結果的に、スウェーデン映画の二作では出来栄えに格段の差はありながらも、ともにこれまでのイメージを破って、スウェーデンの一般的娯楽作品がいかにアメリカ映画の影響を受けているのかを初めて知らされたような気がした。そして、社会福祉の進んだ国というイメージからはかなり外れた、社会の階層化や貧富の差、あるいは都市と田舎の格差といったことも含めて、非常にアメリカ的なものを感じたところが新鮮だった。一方、デンマーク映画の二作はともに、マーケットからみれば少々はずれた作品だったように思う。二作とも閉塞感や病んだ現代社会を感じさせるのだが、そこには意外なほどにアメリカ的なものは感じられなかった。そして、スウェーデンの二作から比べると一段低いレベルではあったが、こちらの二作品にも格段の差があった。そのなかで二作にいくらか共通する実験性という意味では、『エピデミック』が存外興味を惹いた。 脚本に込められた主題や感情を映像と音声によって表現しようとするのが映画だというのならば、成程こういう方法論もあるのかと感心したのである。いわゆる常識的な映画の手法によって脚本を映画化した部分のイメージを断片的に盛り込みつつ、その脚本を生み出す過程と脚本の世界に催眠術によって入り込まされた娘の様子をドキュメントする形をとるという意外な手法によって、閉塞感とか恐怖とかいったそれぞれ脚本のなかに込められていたものを表現している。脚本を忠実に映画化するのではなく、ある意味では脚本を対象化しながらも、その脚本の映画化により表現される予定だったはずのものを別な手段で表現しているのである。だから何なんだという気もしないでもないが、ちょっと感心させられた。 僕が観た九作品のなかで、最も強い感銘を受けたのは、ノルウェーの『野良犬たち』である。北欧映画という冠を被せられると、どうしても南国土佐に住む者として北国の厳しい自然とそこに住む人間のドラマを期待してしまうのだが、図らずもその二つが完璧に満たされた。むしろ想定した以上の厳しさに圧倒されたと言うべきかもしれない。とりわけ強烈だったのが、激烈な過酷さのなかにある自然をさらに上回る壮絶な人間関係の緊張感だった。巧妙に設定された特異な状況であるがゆえに説得力を増す形で、人間の実存に迫った凝縮度の高いドラマが展開されていた。 雪と氷に閉ざされたグリーンランドで共同生活をする三人の男の物語である。詩人と狩人と学者という設定も巧みだし、何よりも人間関係のトライアングルのテンションの高さと微妙にずれゆく位相の展開が見事だった。狩人と学者で安定していた小さな世界に詩人が加わることで、小さな波紋が生じる。新参者が加わることで双方に起こる疎外と許容、異化と同化。それらの過程を経て小さな共同体は二者関係から三者関係のトライアングルへと変容する。図形的には三角形は最も安定した形象のはずなのだが、その一方で三角形となることは頂点と底辺の構造をも生み出す。頂点と底辺という構造が問題にならないときは極めて安定感が強いものの、一度その構造が問題意識として忍び寄ってくると、闘争と抑圧を生じさせて極めて不安定なものとなってしまう。人間関係のトライアングルがいつもドラマチックなのは、そのせいだ。安定と不安定という正反対の側面を最も端的な形で内包しており、安定は不安定へ、不安定は安定へと絶えず運動していく要素を秘めている。 この作品では、そういったトライアングルの持つ危うさと緊張感の綾なす位相のずれが、さまざまな形で提起され、展開していくのだが、それが目まぐるしい変容の仕方をし、緊張感が研ぎ澄まされていくうえでは、厳しい自然のなかに生きているが故の必然性ということが強い説得力を生み出していた。早い話がどんなに反発を覚えても、壮絶な自然の厳しさの前には助け合わなければ生きていけないのだし、その一方で、厳しい自然に晒されているからこそ、反発も含めてさまざまな感覚が研ぎ澄まされてくるのである。まさに北欧ならではの作品だった。 フィンランドの『祈りの果てに』も北欧のイメージにふさわしい厳しさが痛切に表れている作品だった。加えてこれまた北欧的な神秘と幻想のイメージも湛えていて、なかなか重厚な作品である。ベルイマン監督の作品にも顕著な傾向なのだが、北欧社会には父権の強さといったものが色濃く感じられるような気がする。そして、そのことに傷を負っている息子の姿というのが映画のなかから浮かび上がってくる。この作品のユハニだけでなく『ウィンター・ベイ』のヨンヨンと義父にしても『ハンター』のエーリク兄弟にしても、そういった前提がないと承認しがたい部分がある。そして、それは父権に留まらず、男権優位といったことにも繋がっているような気がする。今回上映された作品に、生き生きとした主体性をもつ自立性の高い女性の登場した作品は皆無であった。現在の映画は、概ねどこの国の映画でも男性よりも女性が魅力的であることが多いなかで珍しい気がしないでもない。自然環境が厳しく、おそらくは先進諸国といわれる国々のなかでは最も長らく狩猟をその生活の糧の中心としてきたと思われるところが、その原因ではなかろうか。そういう意味では、1970年代に先進諸国のなかでも先駆けて北欧でポルノ解禁が進んだのは、先進性ゆえではなく、むしろ女性の社会的地位が低いという後進性ゆえだったのかもしれない。福祉国家建設の理念も含めて、先進性のイメージで眺めることの多かった北欧に対して、複眼的な視点を獲得できたことは、今回の北欧映画祭の大きな収穫の一つだという風に思った。 そういった観点からは、アイスランドの二作品は異質なのかもしれない。未見に終わった『アグネス』は、女性が主人公の作品だったようだし、『ベンヤミンの夏』では、独居老人の女性が非情に重要な役割を果たしていた。この作品は、形式的にも内容的にも、アメリカ映画の秀作『スタンド・バイ・ミー』(ロブ・ライナー監督) を髣髴させる作品である。それでいて、アメリカ映画にはない、ヨーロッパ的格調を湛えていたような気がする。なかなかの作品だった。 参照サイト:「高知県立美術館サイト」より https://moak.jp/event/performing_arts/post_242.html | ||||||||||||||||||||||
by ヤマ '98. 2.28./ 3. 1. 県立美術館ホール | ||||||||||||||||||||||
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