『ペレ』(Pelle Erobreren)
監督 ビレ・アウグスト


 苛酷で貧しい移民の生活を描いて、安易な同情や共感を許さない厳しさを持っているところが立派な作品である。例えば、教室でデンマーク人の子供が先生をからかったのがジョークとして受け入れられたのを見届けてから、もっと気の利いたジョークを言ったつもりのペレが先生に鞭打たれる時、単に移民への差別が描かれるのではなく、ペレの姿に自分のジョークの機知に有頂天になって油断をしてしまった悔恨と諦めが悔しさと同時に描き込まれているところなどハッとさせられる。幼時からこれほどの緊張と強靭さを要求される移民という立場やパンにバターを塗ることや子供が働かなくていいのが夢のようなこととして語られる貧しさというものは、感情体験としてちょっと想像が及ばない。そのもたらすところが人をいかなる存在としていくのか。アウグスト監督はいわゆる人物劇ではなく、壮大な自然のなかの人間の営みとしてそれらを淡々と描いていく。そのなかで、不屈の意志と欲望を持ち続けながらも廃人となるエリックやいささかの矜恃を持ち続けながら情けない生しか実現できないラッセもさることながら、最も印象深いのは、呆気にとられた顔のデンマーク人の子供たちを尻目に幾分紅潮した面持で流氷を飛び渡っていくペレの姿である。

 岸辺で難破する帆船のエピソードを待たずとも、海に入ることが直ちに死を意味する北欧の冬の海で流氷を臆することなく飛び越えていけるのは、その恐ろしさを知らないからでも、追い詰められてやけくそになったからでもない。いかに少年とは言え、そこで生活している者が、まして一度冬の海に飛び込んで死にかけたことのあるペレがそれを知らないはずがないし、やけくそではあんなに落ち着いて飛び渡れやしない。それができるのは、単なる勇気とか大胆さとかではなく、生と死の彼我にそれほど大きな落差のない状況に生きている者のみが持ち得る境地ゆえではなかろうか。例えば自殺のように敢えて積極的に死を選ばせるには至らずとも、死が決して遠い世界ではなかったり、格別に恐ろしくは思われない感覚というのは、生のなかで獲得するもの、守れるものが少ない過酷な人生を生きている人たちのなかに時折見受けられる。少年にして既にそのような感覚を身につけていることを端的に示す流氷のエピソードは、そういう意味でペレが置かれてきた状況の苛酷さとそのもたらしたものを最も雄弁に語っていて鮮やかである。この作品はフィクションであるけれども、死生へのこの清澄で透明な感覚はかつて戦没学生の手記『きけわだつみのこえ』を読んだ時に感じたものに似ている。それらを前にして、同情や共感、あるいは感動といったものがそう易易と触発されるはずもないのである。

 それにしても、「石の農園」を出た後のペレの人生に思いを馳せた時、おかしな話かもしれないが、マフィアのことを思った。移民であるために背負わされる厳しい貧困と差別そして根拠地を持てない不安、それら凄じいハンディキャップのなかで、なまじそれらに負けない強烈なガッツを持っていれば、どこかでよほど幸福な出会いがない限り、暗黒街で生きるしかないのかもしれない。ペレのパーソナリティには、その適性と言ってもいいようなものが確かに形成されていたような気がする。彼がそうなるはずだというわけではないが、そうなっても決して意外ではない。管理人助手への抜擢を拒否し、父親と別れ一人出ていくペレの自我の強烈さには、自由に憧れる強い意志と希望と同時に、決して世の中や体制に飼い馴らされることのない強靭さが秘められており、中途半端な成功には妥協しそうもないからである。ネクセの原作で描かれるその後のペレは、暗黒街に生きるのではなく、おそらく階級闘争の実践者として生きるのであろうが、原作のタイトルにある勝利者ないし征服者というのはどういう意味合いなのか興味深いところである。

by ヤマ

'90. 8.22. 県民文化ホール・グリーン



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