『グッド・ウィル・ハンティング 旅立ち』(Good Will Hunting)
監督 ガス・ヴァン・サント


 何事につけ、物事を対象化して観ることが多く、自分の感情や心理に対してさえも、そのような向かい方をする傾向の強い僕は、映画を観ても強い感情移入や個人的な部分で考えさせられるといったことが比較的少ないのだが、珍しくもこの作品では、善くも悪しくも自らを振り返らされることが多かった。その一番の理由は、この映画が傷つくことを恐れる高いプライドとそれゆえに生じる自己防衛という臆病さとそこから踏み出す勇気というものについて、実にデリケートに、高い品性を湛えた形で、リアリティのある綴り方を果たしていたからであろう。

 このプライドの問題は、来歴や表れ方に違いはあっても、この映画に登場する主要な人物総てに共通するものとして描かれている。だから、決して特殊な問題として際立っているわけではない。ウィルやショーンに顕著であったのと同様にランボーやスカイラーにも充分うかがえたように思う。そのことから自由で解放されていたのは、チャッキーのみではなかっただろうか。結局、最終的にはチャッキーが一番カッコヨク見えるのも、ウィルとショーンの次第に深まる関係性のなかで、準備され始めていたウィルの旅立ちのときの最後の一押しを彼が見事に為し得たからだけではなくて、根本的なところで彼が高いプライドや強い自意識から自由な立場であったことも大きく影響しているように思う。たとえそれが彼の獲得したものではなく、結果的に得ている立場であったにしてもだ。

 そして、臆病な自己防衛を生じさせるプライドの高さを描きながらも高い品性を湛えることができたのは、そのプライドが単に自己を防衛する目的を果たすだけでは満足しないほどに高くてクールなプライドだったからだと思う。自己防衛の仕方によっては、自分で自分のプライドを傷つけてしまうおそれというものにも常に晒されていたように感じられた。そういう点で、彼らのプライドの高さは、僕のなかのプライドと実に良く呼応してくるのだ。それゆえに持つ自信だとか孤独といったものも含めて、程度は兎も角、人間としての性質では極めて同質的なものを自分のなかに感じた。だからこそ、踏み出す勇気といったものに僕が脅かされたのであろう。彼らが眩しく、自らを反省する形で振り返らされたように思う。

 個人的に僕が最も自らを投影する形で意識させられたのは、ショーンである。数学のノーベル賞と言われるフィールズ賞を若くして受賞し、MITのエリート教授であるランボー教授をして、自分以上に優秀な頭脳を持ちながら社会的成功を求めず、能力に見合わない位置に甘んじたままでいることで常に自分を脅かしてきたと意識させているらしい彼の同窓生のことだ。ランボー教授は、自身の野心と社会的成功には自負を持ちながらも、ショーンからはつまらないことだと冷ややかに見られている気がして仕方がないのだろう。ショーンが望めば手に入るはずなのに望まなかった程度のものに自分が殊更こだわってきたことで、彼のプライドが傷つくのである。しかし、彼のプライドもショーンを否定したり、見下すことで簡単に自己防衛できるほどに安っぽいものではないから、逆にショーンを社会的成功の野心の側に引き寄せることで安心を得ようとしているかのように見える。ある意味では、最も認め、信頼しているのだ。だからこそ、彼が発見した天才ウィルのセラピーを彼に託するのである。僕がそういう形で誰かを脅かしているのかどうかは定かではないが、多くの人から能力に見合わない位置に甘んじて、苦にするところがないと見られてきたような気はする。それは進学大学にしても、就職先にしても、職場内での歩みにしても。

 一方のショーンにしても、自らの選択に対して後悔はしていないものの、完全に割り切れてもいない。だからこそ、ランボーのことが気になるし、彼には自信満々に見えるランボーの姿が疎ましくて、同窓会にも出席できないのである。その選択は、彼にはきっと後悔とかの対象ではなかったろうと思う。後悔うんぬんよりも運命的なものだと感じているような気がする。自らの選択に対しては同じ時に同じ状況がやってくれば、再び同じ選択をするだろうと思えるほどに後悔の余地はないんじゃないだろうか。異なる選択をすれば、彼のプライドを損なうような選択だったのだろうから。しかし、選択そのものには悔いがなくとも、その結果に対しては割り切れない思いが残るということはよくあるものだ。でも、だからと言って、結果からそれを丸ごと後悔としてしまうと余計に彼のプライドは傷つくのであるから、彼には後悔の余地がないに過ぎないとも言える。

 プライドと自負を巡ってそういう屈折をした関係にある二人の前に、彼ら二人の次元を遥かに越えた天才的な若者ウィルが、痛ましくも心もとない姿で登場してくる。彼もまた自己実現の在り様に思い悩み、苦しんでいる若者だ。過剰に与えられた才能と極端に欠乏している愛情体験という、通常の者から見ればプラスマイナスどちらもいささか度の過ぎた、人格的バランスを統合することの難しい個性に引き裂かれた若者のように見える。引き裂かれつつも荒んではいない個性の描出が見事である。また、あれだけ突出した才能を持ちながら、愛情体験の欠乏によって自信以上に不安と臆病さのほうに囚われてしまっている姿に説得力があるところも大したものだ。そんな若者のよりよき自己実現に手を貸すことになるなかで、彼を触媒としてショーンとランボーもまた、自身の自己実現の在り様に対して目を開かされることになっていく。その関係性のプロセスの描出には人間性の考察に対する含蓄が溢れていて、実に味わい深い。

 それにしても、人がよりよき自己実現を果たしていくうえで、いかに多くの掛け替えのない出会いの必要なことか。ウィルほどに卓抜した才を持ちながらも、旅立ちのときというものは、稀有なソウルメイト[心の友]チャッキーの存在だけでは訪れなかったのである。セラピストのショーン、ランボー教授、恋人スカイラーの誰一人欠けていても、可能性豊かな[good]ウィル・ハンティングという青年が、よりよき自己実現を求める意志[good will] を獲得[hunting] することはできなかったであろう。そのことが特異な設定であるにもかかわらず、実に普遍的な問題として浮かび上がってくる形で、爽やかに落ち着きをもって描かれていて気持ちが良く、共感を誘う。

 そして、人と人との関係性を豊かにしていくうえで、言葉というものが何と重い役割を果たしていることか。言葉だけでは何も生み出せないけれど、言葉なしにはこの豊かさは生まれないといった人間の関係性の肝心な部分をしっかりとつかまえた見事な脚本である。ウィルとチャッキーを演じたマット・デイモンとベン・アフレックの二人は、役者としての味もなかなかのものだったが、二十代半ばでこの作品を共同脚本したことのほうが遥かに強烈だ。人の心の奥深いところに触れる人間観の確かさや味わい深い台詞の数々、ウィルの才に迫るような圧倒的な力を感じさせる。

 ガス・ヴァン・サント監督は、一貫して若者と青春に目を向けてきた作家だが、題材として消費するのではなく、いつも問題意識と覚醒を呼び起こしてくれていて印象深い。青春に憧れ賛美するのではなく、不可解さと悲観にうろたえるのでもない形で、現代の青春を掬い取り、描き続けているように思う。僕にとっては、『ドラッグ・ストア・カウボーイ』『マイ・プライベート・アイダホ』以上に、キッズの製作総指揮として強烈な記憶を残してくれている。

 ウィルが廊下の黒板に書き出されていた高等数学の証明問題をスラスラと解きながらも見つかると逃げ出そうとする姿に、あれこれペーパーにしたり、提案したり、評論したりしながら、仕事としてその関係部署に就こうと積極的には踏み出さない自分の姿がダブッて見えたりした。ショーンがウィルに自らを語る際に、えらく弁明的であったり、自答的であったりするところにも琴線が触れた。ランボーがショーンに対して苛立っていることを感じて煩わしいと思いつつもほくそ笑み、幾許かの優越感を味わっていることが垣間見える部分にもドキリとさせられた。そして、ウィルもショーンも旅立つ勇気を得て、一歩踏み出す姿に爽やかさを覚えつつも、微かに気が重くなっている部分を自分の内に見つけたりもした。

by ヤマ

'98. 3.15. あたご劇場



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