火薬庫の電話




空知炭田群の中央部に位置する上砂川町。
現在の人口は約3,300人。
南北の山岳に挟まれ、比較的温暖で降雪量も少ない。 上砂川町

町はずれの炭鉱敷地跡に残るかつてのモニュメント。
「総力の発揮」
他面は「業績の向上」そして「責任の完遂」である。 総力の発揮


本町付近から一つの尾根を歩く。
4月下旬とは言え、山中には残雪があり、
しかしツボ足で歩いても沈まない。 廃道


しばらく進むとすぐに遺構である。
鋳鋼製の消火栓である。
何もない山中に突然の廃祉であるが、ここも輪車路だった可能性がある。 消火栓


沢に向かってSGP100A程度の配管が露出する。
水路ではなく、選炭に関する設備の、辛うじての遺構かもしれない。
この奥に施設跡は無く、一旦本町まで下山する。 配管


本町の近代的なアパート脇に残る設備。
かつての炭住の浄化槽のようだ。
会社経営の「供給所」は「販売」と呼ばれていた。 浄化槽


積雪の中に残る炭住街の基礎である。
供給所は魚・野菜から衣類でも家具でも格安で揃ったらしい。
専門の魚菜部を持つ販売店もあり、ちょっとしたデパートであったようだ。 炭住跡"


炭住街の一画には消火栓の廃祉が残る。
石炭の自然発火の原因は、低温度における酸化現象とされ、
メタンガスを起因とする坑内爆発に影響が及ぶことも懸念され、火災には特段の配慮があったようだ。 消火栓跡"


携帯用の電気安全灯用のアルカリ蓄電池が破棄されている。
電解液はカセイカリ溶液で、放電・充電時に極板との間に化学反応が起こり、
故障は少なく、寿命も長い。 蓄電池"


こちらはバッテリーロコ用の鉛蓄電池だ。
こちらも電解液(硫酸)に二種の電極を浸して、
その保有する化学エネルギーを電気エネルギーに交換するものだ。
こちらは極板の腐食等での故障が発生しやすいが、これは防爆型(マウスon)のようだ。


春の日差しの中、正面のズリ山に向かって歩く。
水没しつつも付近には次々と遺構が現れる。
「一山一町」の石炭の街、その象徴だ。 水没


鋼製の架台である。
ボンベ類やワイヤー等を積載したのか重厚な造りである。
30回以上の積雪等により、腐食が著しい。 イケール

レールが散発してきた。
しかも12kgf級や9kgf級が混在し、
複数の軌道がここに敷設されていたこととなる。


そして坑口「第一坑」と左手は人道である。
ここでは昭和45年より水力採炭が施工された。
10Mpa(100kgf/cm2)の高圧水を20mmのノズルから噴射し石炭を破砕、その水で切羽の石炭を輸送する。 第一坑



この水力採掘の圧力は消防ポンプのホース先の10倍以上と高圧で、
切羽の無人化が進められる安全面にも配慮したものであった。
また火薬・炭塵など爆発の要素も抑えられ、その技術をカナダに輸出した経緯もある。



この坑口は「大津沢電車坑口」である。
相手側坑口は北坑口となる。
ここから峠向こうに軌道があったのだ。 大津沢電車坑口




更に上流には坑口が林立する。
石炭政策は斜陽化する中、生産性の技術的向上はめざましく、
昭和40年代から20年間で、1人当たりの生産性は2倍となった。
この最大要因は坑内条件の近代化・機械化によるところが大きい。 坑口


この坑口は「預け線坑口」である。
充填と採炭を繰り返す、かつての採炭方法に代わり、
ドラムカッタ(円筒形高性能掘削機)等による連続採炭が可能となった。 預け線


「第一斜坑」前に残るエゾシカの屍である。
亡骸となった動物と朽ちた廃墟。
動乱後のデフレに起因する、石炭乱売は昭和36年の「石炭鉱業合理化臨時措置法」の上程に至る。 第一斜坑


標高270mのズリ山がいよいよ視界に広がる。
臨時措置法の骨子は@非能率炭鉱の買上げとビルド坑への生産集中。
A標準単価の調整B高能率炭鉱のみの坑口開坑許可C「石炭鉱業審議会」の発足。
これら措置はエネルギー革命と共に、閉山に拍車をかけることとなった。 第一斜坑


クマゲラの巣が残る大木。
昭和33年以降、異常貯炭、単価引き下げ、過剰雇用の整理が進み、
閉山炭鉱は179坑に及び、92,700名の削減が秘められた答申となった。 クマゲラ



斜面を登ると、明らかに炭鉱施設と拒絶された位置に建築物が現れた。
人工の土手に覆われたこの施設は火薬庫で間違いないだろう。
衛星写真で確認した色合いとも合致する。 火薬庫


更に土手を介して同じ並びに同様の施設がある。
ここには2棟の火薬庫が存在した。
しかも非常に保存状態が良い。 火薬庫


土手を下ると
そこは狭く区切られた場所で、明らかに「防爆」の目的がある。
ドアの向かいに何かある。 火薬庫


鋼製の箱に入っていたのは黒電話であった。
しかも「防爆型自動式電話機」「昭和45年12月」の銘板が。
もちろん受話器を上げてもダイヤルしても何の音も聞こえない。(マウスonで拡大)


火薬庫(仮)の扉はもちろん施錠され開かない。
火薬は火薬類取締法や鉱山保安法などにより詳細に規定されている。
貯蔵・取扱いに関しても通産省等の許可と火薬庫の所有が義務化されている。 火薬庫


「火気厳禁」の看板が朽ちている。
貯蔵には一定の資格を持った保安責任者の設置義務がある。
火薬庫の構造も多くの保安規則があり、例え事故が発生しなくても違反に対しては処罰の対象となる。 火気厳禁



少し斜面を進むと煉瓦製の構造物があった。
これは真谷地炭鉱のコークス炉に酷似している。
煉瓦の遺構は劣化速度が遅く、よく残存している。 コークス炉


煉瓦製の煙突内部はアートのような様相だ。
硫黄鉱山の焼取釜はほとんどが煉瓦製であるが、
これは全く違う構造だ。 煙突



更に登攀すると、明らかに人工的な塚があった。
これは恒久的に固められた土手のようだ。
踏み分け道は鹿道でしかない。 煙突


土手裏には腐食した鋼製の架台と小屋が設置されている。
サイズはL2,000xW900xT1,000程度のものだ。
現時点では詳細不明である。 鋼製


土手下には建造物が出現した。
かなり重厚な構造でRCの厚みが大きい。
配電盤があり、内部は部屋のようだ。 鋼製



素性が不明なのでよく確認してみよう。
鉄筋コンクリート製の建物で30坪ぐらいはある。
内部は水没しているようだ。 建造物


扉はリブの入った板厚t4.5mmの重厚な構造だ。
恐らく手動での開閉は困難なほどの重量あろう。
これは内部からの防爆に対応したものではないだろうか。 扉


扉脇には簡易な電動ウインチが設置されている。
これで扉の開閉を行ったはずだ。
それでは内部を確認してみよう。 ウインチ


内部通路はクランクのように折れ曲がっており、
水没の上に汚泥の堆積が200mmはある。
このクランク通路は間違いなく爆発の外部破壊の被害を最小限に食い止めるためのものだ。 汚泥


クランクの奥の部屋はすべての壁が鋼製で覆われている。
これは間違いなく「火工所」の廃祉だ。
この部屋で火薬の処理や加工を行っていたのだ。 鋼製部屋


火薬・爆薬を加工成形するのが火工所の作業目的だ。
起爆誘発のための電気雷管接続、タイムラグを誘発させるために、
信管・導火線などを装着する。 火工所



火薬を本来の目的に使用するための加工をこの部屋で行っていたのだ。
では、上部の鋼板函は何であろう。
クランクした通路、鋼板の壁、重厚な扉、すべては「防爆」のためだ。 火工所


箱の内部には150A程度の配管、フランジ付エルボが走っており、
地下の部屋と接続し、もしもの爆破時に減圧を行うようだ。
しかもリミットスイッチがスプリングを介して接続されており、
部屋の天井付近に在る弁の開閉を制御しているようだ。 LS


鋼製箱の対面には200A程度の配管が埋没しており、
フランジにはブラインドの蓋がしてある。
厚みは9mmもあり、相当な力がかかることが分かる。 フランジ


火薬を加工する徹底した防爆の施設。
ここまでの残存は珍しく、
貴重な産業遺産だと思う。 火工所


それでは一旦山を駆け下りて、
再びズリ山の頂点を目指す。
犬釘や枕木の残存する斜面を登る。 ズリ山



「ズリ」とは石炭の滓だ。九州では「ボタ」と呼ばれる。
数十年にわたって蓄積した厚い層のズリが、
自然発火し30年以上燃え続けている。 煙




かつてのヤマの象徴だったズリ山。
初夏になると毎週日曜はどこかで運動会が開催される、
「運動会ラッシュ」となり、それは秋晴れごとの風景であったらしい ズリ山








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燃えるズリ山跡
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