全館灰燼

芦別市は北海道の中央部やや西方にあり、
その市の広がりは東西25km、南北50kmと非常に広大な街である。
かつては芦別五山と呼ばれる 三井系三菱系油谷明治上芦別高根 の炭鉱群が存在した。 頼成


かつての温泉へ向かう道は廃道状態だ。
方向を確認しつつ進む。 アクセス


1時間程度歩くと、
やがて建屋が見える。
どうやら温泉跡地のようだ。 建屋


建屋の手前には遊具がある。
周園には遊園地や池も手入れされており、
レジャーランド的な温泉であったようだ。 遊具


島の下は開拓時代から温泉地として知られていた。
明治39年(1906)発見、もしくは明治41年(1908)に猟師により塩類硫黄泉として発見とされ、
旅館営業を開始、大正3年(1914)には堀川温泉として譲渡される。 ブランコ


手前がボイラー室、奥が温泉本館のようだ。

昭和27年(1952)4月には坂田温泉と改め、客室は17室、収容人員40名、
浴槽は9坪が2槽存在した。 ボイラー室


巨大な給湯器が残る。
湧出量は54L/分、炭酸泉18℃で浴用加熱と資料にはある。 ボイラー


ボイラー室には棚があり、
様々な資材が残っている。 資材庫


ボイラー室の前の空き地には廃車がある。
ダットサンブルーバードワゴン410型のようだ。
昭和38年(1963)発売、1,200ccのモノコックボディだ。 ブルーバード


フェラーリなどのデザインで有名なピニンファリーナによるボディデザインで、
当時の日産の自信作であったが、
その顔つきから『醜いアヒルの子』と揶揄された。 ダットサン


ボイラー室の上流に本館がある。

鉱泉は外科疾患に速効ありと称され、
第二次大戦中は旭川陸軍病院の療養指定温泉として多くの患者に利用された。 本館


経営者が変わるごとに名称が変わり
やがて昭和39年(1964)5月に5名の出資者により再開業する。
この出資者5名に由来して『五楽園』という名称になった。 廊下


配電盤が残るがすでに機器はない。
家主のいない鳥の巣がある。 配電盤

隣接する新館の荒れた内部である。
それまでは歴史が古く、建物も老朽化していたが、
昭和39年7月に完成した新館6室の現状だ。 新館


五楽園として再興した以降、
改築による近代的建築によって温泉のイメージアップにつながり、
敷地内の薬師神社も改装を施した。 施設


浴場にはタイルの絵がある。

8月8日の祭りには浴場を無料で開放し、
盛大に盆踊大会を催すなど経営は積極的となっていた。 温泉


こちらは男性浴場のようだ。

昭和45年(1970)8月には本館客室8室とフロント、ホール調理室を含む240坪を改築、
二階建てによる近代的なものとした。 浴場


次いで昭和47年(1972)には大浴場の改築に取り掛かる。
鉄筋による地下一階を持つ70坪で
男女別大浴場2、家族風呂2となった。 浴場


温泉本館から上部に配管が伸びている。
おそらく源泉が上流にあるようだ。 浴場



上流にはコンクリートで囲まれた水槽があり、
絶えず泡が昇る。
湯温は12℃とやはり冷泉である。


大正時代から島の下には青木温泉、
相良温泉など複数の温泉が開発された。
そのなかでも島の下に五楽園ありと道内に広く宣伝された。 温泉旅館


しかしながら昭和49年(1974)4月13日、大量に発生した害虫駆除のための火が、
建物に燃え移り全館灰燼となった。
不慮の失火による全焼により再建不能となったのである。 旅館


昭和28年(1953)7月には日本歌檀の第一線にいた島木赤彦氏という歌人が、
温泉で開催された島の下教育所の潮音歌会に臨席した。
その後もたびたび島の下温泉で俳句歌会が開催されたという。 窓







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島の下温泉
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