新登川炭鉱 探検: 北の細道 新登川炭礦

新登川炭鉱跡で散宿所に遭遇する





北海道むかわ町

  発電所で発電した電気は、送電線、変電所、配電線などを通り家庭や工場に送電される。
水力発電所、火力発電所、原子力発電所などで作られた電気(数千V(ボルト)〜2万V)は
送電に効率のよい電圧に変換され、送電線に送り出される。

発電所〜変電所間などを経由する線を『送電線』と呼び
その中でも主要な区間を長距離で結ぶ線は『幹線』と呼ばれる。

電気の速度は光の速さと同等と言われ、
一秒間に地球を7周半(約30万km/秒)ほどの速度があり、
発電所で生まれた電気は一瞬にして家庭へと届く。

かつて一般電気事業者と呼ばれた北海道電力など10社に対して、
昭和27年(1952)に国策によって設立された電源開発株式会社(J-POWER)は、
平成16年(2004)には完全民営化を果たし、全国各地で自社発電所にて作った電気を、
自社送変電ネットワークを通じて地方の各電力会社等へ販売している。

もともとは戦後の電力不足を解消するために特殊法人として設立されたが、
周波数の異なる東日本(50Hz)と西日本(60Hz)をつなぐ周波数変換所も所有し、
その電気供給の安定化には一般電気事業者と並び、なくてはならない存在だ。

十勝にある昭和31年(1956)1月運用開始の糠平発電所そして、
足寄発電所から北海道電力 南札幌変電所まで送電するルートが『十勝幹線』と呼ばれるものである。
十勝幹線は亘長214.4km、使用電圧187kVの地域間送電線路である。

これら幹線の保守作業のための拠点(現場詰め所)を『散宿所』(サンシュクジョ)と呼称していた。
「散宿」とはもともと、寮以外に泊ること、また数軒の家に分かれて泊まることを意味し、
現在、愛媛県にはこの『散宿所前』という名称のバス停が残っている。

『散宿所』は明治29年(1896)制定の電気事業取締規則第69条で設置が義務づけられたもので、
電気が広まりつつある時期には、その管轄も当時の逓信省で行い、
線路(幹線)の各要所に技術者又は工夫の散宿を命ずるとの一文があった。

つまり『散宿所』とは電気事業者が法律に基づき、保守作業員を常駐させる拠点であったのだ。


新登川炭鉱は明治期に発見され、その後断続的な採掘が行われたが、
本格的な開鉱は昭和22年(1947)興和鉱業(株)によりなされ、
昭和29年(1954)6月には閉山した短命な炭鉱であった。
夕張の 登川炭鉱 とは山を隔てた東西に存在した別の炭鉱である。


今回、現地炭鉱跡付近で意匠の入る廃墟の建屋を発見し、
炭砿施設とは明らかに異なる表構から、その素性を掘り下げると、
電気事業・十勝幹線・散宿所と深まる謎の広がりに対峙した。

炭鉱跡とともにその広がる謎の施設を紐解いてみたいと思う。




十勝幹線・散宿所・廃校・・・




基台
基台跡



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