芦別炭鉱跡 探検: 北の細道 三井芦別炭鉱

芦別炭鉱 排気立坑で巨人の腕によじ登る


北海道芦別市

 平成13年(2001)長崎県 池島炭鉱、 そして平成14年(2002)北海道 太平洋炭鉱が、それぞれ閉山し、
WW2からの復興の原動力や日本の近代化の礎となった石炭産業は 数か所の露天堀を除きすべてその役割を終えた。

閉山に伴い炭鉱の主要施設である 立坑 は密閉され、その他諸施設の大部分も解体または放棄されてきた。
立坑自体はその役目を全うしたが、その開削技術は道路や鉄道その他、
エネルギー施設などの分野で現在も受け継がれている。


元来炭鉱では開発費が抑えらえる斜坑によって工事が推し進められてきた。
しかしやがて採炭が地下深くに及ぶと、出炭や通気、防災や坑道維持管理の面において不具合が生じ、
得てして採炭能率の低下を招く恐れがある。
そこで進度を一気にかせげる立坑開発に推移していくのである。

日本における最初の炭鉱立坑は、明治元年(1868)三菱高島炭鉱(長崎)の北渓井立坑において、
2.1m×1.6mの矩形断面で深度45mが記録にある。
その後、明治17年(1884)には三池炭鉱(福岡)七浦立坑がポンプによる揚水を行いながら深度72mに達し、
明治39年(1906)には二瀬炭鉱(筑豊)で300mを突破、
昭和38年(1963)には高松炭鉱(筑豊)ではとうとう地上から1,014mの深度に達した。

その後炭鉱の深部展開は600〜800mが中心の時代となり、
1970年代には 夕張新炭鉱第一立坑や 砂川炭鉱南部排気立坑などの900m級が3本、
1,000mを超えるものが2本建設されるに至る。
同時期、海外では深度1,500mを突破していたが、日本では1,000m超の開発はあまり進まなかった。
これは湧水量の多さと共に高圧ガスによる深部展開の阻害が背景にあったと思われる。

炭鉱開発の約120年間でおよそ180本以上の立坑が建設され、
最も新しい、いわば最後の炭鉱立坑は昭和59年(1984)完成の太平洋炭鉱 知人(しれと)立坑である。
これは仕上がり内径φ6m、施工深度170mのもので、出炭、人員入出坑、入排気に利用された。


芦別炭鉱が三井鉱山によって開設されたのが昭和13年(1938)で、
第一坑(西芦別地区)、第二坑(頼成地区)、そして 黄金坑と三鉱区で稼働し、
昭和47年(1972)には黄金坑が閉山、 第一/第二坑が完全統合されたのが昭和56年(1981)、
三井芦別炭鉱として閉山したのが平成4年(1992)である。

最終的な三井芦別炭鉱の入排気坑道をまとめると以下となる。

  立坑名   完成年度   掘進距離(m)
 芦別立坑(←第二坑立坑)  S39 (1964)  406
 第一坑立坑→北部排気立坑  S33(1958)→S40 (1960)  243
 八月沢入気風洞(斜坑)  S46 (1971)  947.5
 北部入気立坑  S48 (1973)  651.8
 南部排気立坑  S48 (1973)  340
 中央排気立坑  S49 (1974)  1286
                         【掘進距離は付帯坑道も含む】

芦別炭鉱で深部化が加速し、その開発そして合理化の対策工事が開始されたのは、
昭和41年(1966)の南部斜坑(1880.4m)の掘削からで、
炭量密度や出炭規模、深度移行率を考慮したうえでの第一坑と第二坑の統合、
そして芦別立坑を大綱とする、通気系統の整理がメインであった。
互いに離れた主要入排気坑道によって通気を行う完全対偶式を避けて、
通気経路を短く独立させるために分割対偶式が採用された。

具体的には芦別川に沿って、炭山川から八月沢まで伸びる3本の大坑道(+10m,-180m,-410m)に対して、
それを四分割し、その通気動力と地形の要素風量、経済間隔を求め、
北から北部入気/北部排気/中央排気/八月沢入気風洞/南部排気と、
3本の排気立坑と2本の入気風洞をもって通気区画の整備が行われた。

今回はその中でも中央排気立坑以南の3本の立坑跡と付帯する浄水場を探索する。
なお現地はヒグマの足跡が縦横に走り、獣害の危険性が多く、
また現状の地形図と当時の鉱区図を詳しく照らし合わせてのオリエンテーリングが必要となるため、
詳細な位置については伏せさせていただく。



風洞・立坑・浄水場・・・




浄水場
浄水場



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