黄金炭鉱跡  探検: 北の細道 黄金炭鉱跡

黄金炭鉱跡でカナダから炭鉱へ向かう




北海道芦別市

   石炭産業は戦前期から戦後復興期に至るまで基幹エネルギー産業として、
日本の産業過程の戦略的位置を担ってきた。
日本経済の立役者であった製糸・紡績・鉄鉱・鉄道・海運業のそのすべての、
原動力となり、構造的に重要性を持つ産業であった。

国内炭の一次エネルギー供給量に占める割合を見ると、
1930年代は60〜70%を占め、次いで水力となっていた。
1950年代には54%から41%に下落し、高度成長期には石油への急速な転換と、
石炭産業の再編及び縮小が推し進められ、第一次石油危機を迎える1973年には、
15%と大きく減少し、変わって石油の占める割合が77%を超えることとなる。

しかし国内炭の減少と裏腹に1960年代には
オーストラリア炭などの輸入炭の代替比率が増加し25%を超えることとなる。
1970年には国内炭を凌駕する勢いで急増し、
90年代には国内石炭供給量の95%を占めるまでになった。


芦別市の北方に位置する黄金(こがね)炭鉱は、
昭和21年に開発着手され昭和24年6月には、石炭輸送のため芦別駅との間に索道が敷設されるに至る。
開坑後、地区は活況となり200人規模の従業員社宅が建設され、
各種修理工場や鍛冶工場、診療所、浴場、保育所等の施設が次々設けられた。

ところが、昭和41年には索道を撤去し、すべてトラック輸送に切り替えられ、
石炭不況は深刻化する。
昭和46年合理化、47年坑内火災の水没処理後、5月閉山を迎える。

露天掘り部門はその後、事業を継続したが、
昭和50年に終掘、付近の草地化と共に、その採掘跡は平成2年、
芦別市活性化事業として「カナディアンワールド」の建設に至る。

石炭エネルギーの斜陽化や産業構造の変革に伴い、
新たな地域振興産業として芦別市は「星の降る里」として、 大規模観光地化構想を計画した。
その一環として、第三セクターによる、
ラベンダー園、19世紀の赤毛のアンをモチーフにしたカナダをモデルとした、
公園整備が進められた。


公園の傍の炭鉱跡地。
今回は遺構も少なく、大規模な治山が成されたヤマであった。
しかし、かつての炭都の繁栄とその後を垣間見る、貴重な存在であった。










公園・遺構・治山・・・


廃祉
( ̄u ̄;)廃祉



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