地下410mへの道

芦別付近は 「晩壮年期」浸食を繰り返す土地の終わりの時期にみられる、山が丸みを帯び、谷幅が広がり、川が蛇行する地形 の地形を示す山地で、
最高所は500mを超す尾根がある。
付近の水流は蛇行して芦別川に注いでいる。 芦別市


西芦別・頼成地区にはかつて2万9千人が暮らしており、
住宅、学校、消防署、共同浴場など公共施設にも給水し、
三井石炭鉱業による専用水道施設があった。 廃道


古い資料に基づき、浄水場を目指して町はずれの小高い山に登る。
開坑から6年目の昭和19年(1944)には、1,400戸 従業員9,200名にのぼった。
これだけの従業員がいれば、相当数の住宅や諸施設も必要となる。 浄水場



頂には鉄筋コンクリート製の建屋がある。
これは山の上に設けられた配水池の制御棟のようだ。
資料には昭和18年(1943)4月1日から運用とある。 配水池


建物は厳重に封鎖してあり内部は伺い知れない。
開坑以前の西芦別地区は農家が25戸のみで、
これらはすべて買収、鉱業所設置に合わせて社宅の建設が始まった。 浄水施設


煙突は恐らく水槽内の凍結を防止するためのボイラーのためのようだ。
初期の段階から鉱員社宅は192戸におよび、
水道については21棟1区画に4か所の共用栓があったという。 煙突


足元にはやはり通気管がある。
この下は地下タンクとなっており、
踏み抜きや落下に十分注意する。 通気管


奥には三角屋根のもう一棟がある。
こちらがポンプで水をくみ上げる着水井と薬品混和池の建屋のようだ。
かなりの大きさがある。 浄水場



外観は劣化が激しく、壁が大きく崩れている。
開坑間もなく536戸の社宅が建設され、
当初から本格的に大規模な開坑が予定されていたことがわかる。 廃墟


巨大なゲートバルブも残る。
社宅の建設ラッシュは山間の田園地帯を瞬く間に炭住街に替え、
忽然と炭住街が現出したかのようだったという。 バルブ


付近にも通気管がある。
薬品混和池では水に含まれる細かい砂や土をフロックと呼ばれる塊にして、
沈殿しやすくする作業がある。 通気管


建物の天井は大きく崩れ、穴が開いている。
戦後の炭鉱は国家再建の基幹産業であり、
復員してきた大量の労働者の受け皿となった。 建屋


破損したバルブが転がる建屋周辺である。
炭鉱の暮らしは高給で住宅も支給され、
水道・電気・石炭代も無料と鉱員の人気は高かった。 バルブ


浄水場の内部には沈殿池やろ過池、そして多数のゲートバルブがある。
昭和22〜23年で745棟、1,390戸の社宅が建設された。
これは頼成地区だけで物足りず、中の丘、緑泉、旭日町に進出する。 内部


付近には当時の変圧器も朽ちている。
昭和23年(1948)当時は直轄の社員が4,143名で労働者合計は9,822名であった。
これは請負の外注労働者が4,878名にのぼり、その割合が多かったこととなる。 単相変圧器


浄水場はひっそりと山中に残る。
当時の炭鉱関連人口は22,899名とこれは、
芦別の総人口の30%を占めていたこととなる。 浄水場


森を移動し南部排気立坑付近に到達する。
南部排気立坑は+10mL大坑道と-180mL大坑道に接続し、
昭和57年(1982)9月までは主扇による排気機能を司ったようだ。 南部排気立坑


平場は残るが遺構は見当たらない。
鉱員の外注請負割合が多かったのは芦別に限らずの状況であったが、
請負業者も全面的に炭鉱に依存しておりヤマの一員に違いはなかった。 平場


施設があったような人工的な雰囲気はある。
西芦別・緑泉・頼成の炭住街にはそれぞれ商店街があり、
80軒ほどの店があったそうだ。 立坑


辛うじてレンガの遺構があるが用途はわからない。
商店への出入り業者も含め、広範囲の人々がヤマに生活を委ね、
一蓮托生の運命共同体であったのである。 レンガ


付近には縦横にヒグマの足跡が存在する。
ヒグマが人を襲う理由は3つある。『排除』『戯れ』そして『食害』である。
八月沢入気風洞は川向こうに存在し、到達できなかった。 ヒグマ


紅葉の森を進む。
一山一家の精神があった炭住街も実は企業社会であり、
社員と鉱員、直轄と請負、下請けと孫請けなどの隔たりは存在したようだ。 紅葉


周辺には坑口、二坑本卸及び副卸が存在したはずだが発見には至らない。
鉱員社宅の居住者においては、経験・社会・家族構成などもほぼ同じ状況で、
親密な長屋コミュニケーションが存在し、炭住独特の互助精神となっていた。 二坑本卸副卸


二坑本卸は沢の奥にも見当たらない。
社員数のピークは昭和33年(1958)の4,540名で、
当時は5,000戸の住宅が存在し、人口は25,000人を記録した。 二坑本卸


さらに上流部にも人工的な一角がある。
当時の西芦別小学校の児童数は2,504名と、
まさにマンモス校であった。 平場


明らかな人工的な平場が存在するがここでも遺構の発見には至らない。
三井芦別駅前には40軒の商店があり、テレビが普及し始めた昭和30年代前半には、
電気店ではテレビの在庫がしばしば無くなったという。 平場


エゾシカらしい骨が落ちている。
これはヒグマのまんじゅうと呼ばれる食べ残しを土に埋めたものだ。
ヒグマはこれを自分のテリトリーと意識し近くに潜んで知る可能性もある。
このまんじゅうは足跡よりはるかに危険、すぐに撤退だ。 骨



山を下り、別の沢に入る。
炭住街の1年、正月は二坑神社の山神参拝から始まる。
会社では修祓式が催され、危険と隣り合わせ、初詣もこぞっての参拝となる。 巨岩


中央排気立坑に向かう。
冬季の炭住は除雪に追われ、しかし近隣同士共同で総出の雪かきが行われた。
暖房用の石炭は無料支給、ストーブが真っ赤になるまで経済観念なく石炭をくべたという。 紅葉


丸みを帯びた池があり、これは人工的な雰囲気だ。
5月は山神祭、6月は運動会、これは5町内対抗戦であった。
夏場は小平での海水浴、秋は4回の盆踊りに映画鑑賞会があった。 池


道は狭く廃道と化す。
10月には演芸会、学芸会、各種クラブや団体の競技会が盛んにおこなわれた。
会社の運動部はいずれも全道トップレベルであった。 廃道


ここからはGPSに従い、完全廃道を進む。
中央排気立坑は800Wの主扇による排気装置だ。
変電施設やそれなりの規模があってもおかしくない。 完全廃道


2qほど進むと笹薮の開けた一角がある。
ここに排気立坑がかつて存在したのだ。
現在は何もない。 マウスon 他参考排気立坑


奥のなだらかな斜面に巨大な風洞と扇風機台座、その制御室があったはずだ。
昭和56年(1981)の芦別斜坑の完成により通気系統の改善工事は完了し、
南部排気立坑主扇は停止、中央および北部排気立坑の稼働で排気ルートは完成した。 排気立坑


帰路で斜面に謎のコンクリート施設を発見した。
巨大な筒のようなRC製遺構だ。
これは鉱床図にも載らない設備だ。 排気立坑


直径は6mほどで、垂直に地面に向かっている。
その上部は90度折れ曲がり、
水平方向に延びている。 風洞


苔むした外観は昭和の後半のものではない。
恐らく中央排気立坑完成以前、
つまり昭和49年(1974)より過去の施設のようだ。 排気立坑


旧排気立坑らしい遺構の上部を目指して登攀する。
入気と排気がある程度離れている機械通気方式を『対偶式』、
対して近接した主要入気排気坑道による機械通気を『中央式』と呼ぶ。 登攀


見える範囲に入気坑と排気坑が存在する中央式通気は、
採掘坑道までの距離が長く、通気の往復距離が延び通気抵抗が増加するため、
坑道が延伸する以前の開発初期段階に採用されることが多い。 風洞


登攀した先には強大な坑口が開いている。
対して対偶式通気は、目的坑道までの通気用坑道距離が少なくて済み、
通気抵抗や坑道維持作業も少なくて済む。 坑口


坑口の手前には扇風機用の台座がある。
対偶式のように入排気坑道が接近していないと、
入気側から排気側への空気漏れ(=漏風)が少なく効率も良い。 台座


坑口の脇には鋼製の扉がある。
入気坑口と排気坑口が接近していると、せっかく排気した汚れた空気を、
入気坑口から再び吸引してしまう恐れもある。 坑口


坑口は縦に大きく、右手には扉がある。
奥には簡易な梯子がある。内部は床が抜ける可能性もあり、
まずはザイルを張ってグリグリ用いて入坑する。 坑口


安全を確認した後、急激に落ち込む手前まで進む。
足元にはレールもあり、
メンテナンス用と思しき梯子が続く。 排気坑口

水平部から90度折れ曲がり立坑部へと繋がる。
梯子は劣化し、触れると崩れそうだ。
恐らく180mまたは410mまで続いていると思われる。 立坑


坑口は閉山後、コンクリートで封鎖されたようだが、
近年倒木により崩れたようだ。
風は吹いておらず、どこかで封鎖されているようだ。 壁



横の鋼製の扉は軌道をふさぐように設置されている。
これは風洞メンテナンス用の 「コース巻き軌道」斜坑の途中からでも巻上が可能なロープウインチによるトロッコの巻上装置 か、
過去に採掘坑道として使用された際の 「スキップ」斜坑や立坑用石炭積載専用のかご型運搬装置。ワイヤーロープにて巻上巻き卸を行う。 用のルートかもしれない。 扉


垂直に降下する立坑坑道である。
写真ではわかりにくいが、円弧状の鋼板が坑道からせり出している。
これは「風橋(ふうきょう)」と呼ばれる、
平面交差する気流の混合乱流を避けるための装置かもしれない。 配水池


これら排気立坑だけでなく、映画館として利用された一坑会館、二坑会館、
各種集会に利用された芦山荘、頼山荘などの諸施設も、
54年の歴史と共に幕を引き、閉山の平成4年には最後の山神祭りが執り行われたという。 水槽








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