参覺鉱山跡  探検: 北の細道 千成登鉱山

参覺鉱山で石垣に到達する




北海道前田村(共和町)

    『硫黄』は天然に遊離の状態で産出するため古くから知られ、
古代でも硫黄を燃やした煙でいぶす消毒法が使われていた。
その後も医薬や火薬の分野で用いられ、その名称はサンスクリット語の、
『火の元』を意味する語源からきているという。

また地球上に広く多量に存在し、 知床硫黄鉱山岩尾鉱山押野鉱山などと共に
日本では岩手県の松尾鉱山(s44/1969閉山)が最大の産出地で、主に火山地方に産出する。
火山ガス、鉱泉、温泉などにも硫化水素(H2S)二酸化硫黄(SO2)硫酸(H2SO4)などの形で含まれているほか
石油中にも各種化合物として存在している。

製法としては、土砂などの混在物から粗硫黄を分離し精製することとなる。
分離のために当時施行されたのは『焼取法』でこれは、
鉱石を鉄窯に入れて石炭などで熱し、溶融した硫黄分を製錬する方法だ。
メキシコ湾岸一帯などでは、地下の硫黄鉱床に鉄管を通じ、
送った加熱水蒸気を用いて硫黄成分を溶融し、圧縮空気によってこれを汲み上げるフラッシュ法が用いられる。

採掘された粗硫黄の精製は室温で二酸化炭素に溶かし、
氷冷して再結晶するか、鉄製の レトルト 中で硫黄を溶融、発生する蒸気を冷却して固体とする。

昭和30年代後半以降は重油の直接脱硫による方法で、 高純度のものが多量に得られるようになった。
原油中の硫黄成分は品質に害毒となり、燃焼の際には大気汚染の原因となる亜硫酸ガスを発生する。
それゆえに石油中の硫黄を回収利用することは、石油精製上の見地からだけではなく、
資源の有効利用、そして大気汚染防止の観点からも望ましく、現在では硫黄の主な製造方法となっている。
つまりこの回収硫黄の精製が各地、硫黄鉱山の衰退の主原因となった。


今回紹介する参覺(サンカク)鉱山は謎だらけの鉱山だ。
前田村という明治19年〜昭和30年にのみ存在した現共和町の古地形図から、 偶然発見した鉱山だ。

町史にも記載はなく、辛うじて昭和27年2月発行の日本鉱産史には『参覺』の文字が見られる。
硫黄鉱床であり、 『岩内町南東12km三角山附近』と位置の記載しかない。
但し、付近は明治期から盛んに探鉱された地域であり、
明治末頃に函館ハウル社により発見、 明治36〜38年が最盛期となった。

当時は千成登(チセト)鉱山と呼ばれたものの、
明治39年(1906)からは鉱石の産出が酷く減少し、事業縮小と相成った。
明治44年(1911)からは北海道鉱山合資会社の所有となった後、
その後民間企業の転々とした所有となり、昭和18年(1943)には硫黄整備により休山した。

昭和26年(1951)には再び稼行が行われ、事務所や旧坑の整備も行われた。
当時はレールや家屋も残存していたというが、
ぞの後、売山に奔走したまま休山に至ったという。

大きな盛況が無かった山中の小鉱山跡。
はたして遺構に到達できるだろうか。



三角山・三角鉱山沼・坑口・・・



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( ̄u ̄;)鏡池





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