押野鉱山跡  探検: 北の細道 古武井硫黄鉱山跡

押野鉱山で自然の摂理を見る




北海道恵山町

  南部馬より一回り大きく、見事な毛並みの馬が一頭、
後ろには二両のトロッコが連結し、レイルは港町から緩やかに登っている。
一両には荷物が満載で、もう一両にはわずかな食料品と人の乗る広さが確保されている。
馬夫は七曲や長坂では降りてもらうという。恐らく急坂であろう。

到着したのは空気のひんやりした山中の新しい家が並ぶ一角で、
ひときわ目立つ建物が「押野鉱山事務所」であった。
上流のムサの沢付近の露天掘りで採取した鉱石は、碁盤の目に仕切られた標本箱に整理される。
付近の「一番坑」へ向かうと、二人の鉱夫が坑道から鉱石満載のトロッコを押して出てきた。

カンテラとアセチレン灯に灯がともされ、高さ五尺(1.5m)幅六尺(1.8m)の坑道には、
三尺(90cm)毎に鳥居型の支保工があり、本坑側には疎水坑も掘られている。

選鉱所は山縣(やまがた)鉱区寄りにあり、鉱石選別の樋に傾斜のついたスクリーンが取り付けられている。
これは塊鉱と粉鉱を効率よく分離するためだ。

精錬所は古武井川中流の中小屋精錬所が廃止され、旧山(ふるやま)と青盤(あおばん)に焼取釜が設置され、
すべてのルートにトロッコの軌道が敷設されていた。
これは、鉱夫の数600名、当時、「東洋一の硫黄山」と称された
明治35年6月の古武井硫黄鉱山(山縣鉱山)と押野鉱山の情景である。



元治元年(1864)頃発見された古武井川上流の硫黄鉱床は、
日露戦争による特需、明治42年(1909)には精錬用薪材運搬のための、
古武井川(青盤)--尻岸内川(荒砥)間に鉄索建設を経て、
山間には3,000人を超す大集落が形成される。

10kmを超える馬車鉄道、暗渠商店街、「小滝楼」と呼ばれた料亭、鉱山病院に
3か所の精錬所も建設され、焼取釜90基、硫黄釜204個を設置した。

しかしながら、大正6年(1917)にはメキシコ湾岸においてフラッシュ法による、
大規模な硫黄採掘が進み、輸出に陰りが見え始める。
その影響もあり、昭和28年、資本投入から約50年の歴史に終止符を打つ。


冬の間、資料を詳しく分析し、5月初旬に現地入りした。、
当時は鉱山事業の繁栄に伴い、周囲の森林は失われ、
製錬煙のためか樹木や苔の類まで立ち枯れた現地も、
衛星写真で見ると茂る樹木に、大規模な治山ダムがそびえている。
閉山から70年近い山中で、はたして遺構に巡り会えるのだろうか。






精錬所・獣・倒木・・・


煉瓦
( ̄u ̄;)耐火煉瓦



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