若松鉱山跡  探検: 北の細道 若松鉱山

若松鉱山のハウルの動いた城




北海道せたな町

   数少ない函館の外国人商社の中で、明治元年(1867)から操業していた老舗が『ハウル社』である。
仲浜町居留地にレンガや石造りの倉庫を持ったハウル社は海産物貿易で大きな成果を上げていたが、
それ以外に大きくウエイトを占めていたのが、硫黄の輸出と鉱山経営である。
明治30年代にはアメリカやロシアから石油を輸入、帰路に硫黄を積込んだ。

やがて国縫周辺のマンガン鉱山、そして 熊泊鉱山 の経営に繁盛する。
当時、北海道の硫黄は日本一の産出量を誇り、
その大半が函館に集約され、主にアメリカ向けの重要な輸出品となった。
ハウル社はこの硫黄採掘から輸出までに携わり、大きな利潤を上げることとなる。
周辺のマンガン(満俺)の集約と輸送費のコスト削減のために、
16qに及ぶ馬鉄軌道敷設や、国縫から函館までは2,000t級の汽船も就航させたという。

しかしその後、経営者や店舗の変更を経過した後、大正末期に解散している。

ハウル社が渡島檜山地方のマンガン鉱山経営に、大きく寄与したことは明白だが、
16か所を超える付近の鉱山も昭和30年代にはすべて廃坑に追い込まれている。

今回探索したのは、その中でも最も資料が少ない若松鉱山である。
初音鉱山の6.5q南方に位置し、
周辺には栄出・賀老・金ケ沢・田中・ベニカモイなどの鉱山が犇めいていた。
初音鉱山は大正年間に2,500tの出鉱を記録しているが、
若松鉱山のデータはほぼ皆無である。
山中の小鉱山、遺構への期待は薄いものの、
その軌跡を辿ってみよう。


マンガン・山中・高品位・・・



満俺鉱
( ̄u ̄;)満俺鉱





トップページへ