■ 「松井 冬子」展に想う 平成24年3月9日 |
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「松井冬子」は日本の古典絵画が受け継いできた美意識や主題、様式、技法などのうち、近代になって「日本画」の概念が成立する過程で捨て去られたものに、新たな価値や創作の手掛かりを見いだし制作にとりくむ若手のひとりとして紹介されている。さらに、芸術表現が呼び起こす精神的肉体的な「痛み」を始点として、恐怖、狂気、ナルシシズム、性生と死などをテーマに挑発的とも言える作品を制作してきており、いま最も注目される画家の一人であるとも紹介されている。本展覧会は代表作《世界中の子と友達になれる》を出発点とし、松井がどのように自らの表現を突き詰めて来たかを検証する展覧会であるとのことであった。 1月14日に初めて見た時に全体に暗い印象を受けた。キャプションを丁寧に読んだわけではなかったので、作家の深い思惟を理解しないまま鑑賞したこともあって、その表現にはついていけないギャップを感じた。それでも、思惟の表現に何か心を引き付けるものを感じ、紹介されているようなことに一歩踏み込んでみたい思いに駆られた。幸いにもチケットがもう1枚あったので、2月21日に再度鑑賞を試みた。 今回はキャプションをじっくり読みながら作品を見、その思惟の帰結がグロテスクな臓器むき出しの絵であったり、幽霊の絵であらねばならないことが、芸術の素養のない者なりに理解出来た。なるほど論理的でさえあると思った。 そのとき、芸術の素養のない者にとっての独善的な鑑賞に思いが至った。ムンクの「叫び」は、論理的な説明なしでも作家の思惟が感じとれる。この絵に描かれている人物が不安に恐れおののき「叫んでいる」ようにも見えるし、周りに充満する恐怖の叫びに耳を塞いでいる様にも見える(実際は、自然を貫く果てしない叫びに、絵の人物が恐れおののいて耳を塞いでいると見るのが正しい見かたなのだそうだが)。作家の本当の意図を汲むには説明を必要とするが、論理的にこと細かな説明がなくても描かれた絵が鑑賞者の気持ちを鷲掴みにする作品もある反面、絵を見ただけでは何とも理解し難く、作家の思想・哲学を詳細聞かされることで、作品の奥深さに感動を催す作品もあることに気付き、素人にとって、芸術鑑賞が一筋縄ではないことを思い知らされる。 独善的かもしれないが、作家の思想・哲学の表現は絵画であれば色・線・形等の強弱、明暗によって平面上に写し表わしたものに集約されるべきものであって、音や言葉を使わずに分からしめるもの。それが音楽であれば音の高低、強弱、拍子(リズム)等のほか、場合によっては詩という言葉の組み合わせで表現し、図や場合によっては言葉を使わずに分からしめるもの。さらに文学であれば絵本は別にして、言葉の組み合わせで表現し、図や音を使わずに分からしめるのだと思っていた。ところが、松井冬子の絵は、キャプションという言葉の世界を借りなければ、私にはまったく理解が出来なかったのである。 そういえば、音楽の世界でも、文学の世界でも同様なことが言えるのかもしれない。何も説明を受けなくてもストンと落ちて親和性が持てる音楽や文学がある半面、評論家と言われる方が説く解説書を読まなければ理解が出来ないものもある。むしろ現実には、高名な学芸員の解説によって分からしめられることが多い。 文字で心象等を表現が出来るにもかかわらず、理解の難解な文学にぶち当たったとき、評論家の助けを借りなければならない鑑賞はその典型であろう。そしてそれに沿うことが芸術鑑賞なのだという風潮に迎合しているのに気付く。それは、単に理解力がないものの僻みなのかもしれないが、一方で、芸術文化の奥深さを思い知らされ、芸術鑑賞への道が遠いことに気付く。だがその分興味が一層深くなった気がする。 私はどちらかといえば、シンプル(単純)なものに魅かれ、見た瞬間に、読んだ瞬間に、そして聞いた瞬間に感情移入出来るものに憧れる。「松井冬子展」を見てそんな芸術鑑賞が自分には合っているのだろうと思っていたのだが、なぜか彼女の絵に惹かれる。「松井冬子展」をもう一度見て、何故なのかを確かめたい。 □ TOPへ戻る |