□「平成24(2012)年ブログ」NO.2 平成24年4月1日〜6月30日
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■「釈迦の仏教・真理の言葉」 平成24年6月27日
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昨年は、親しかった方達との別れが重なり、諸行無常を身にしみて感じるようになった。そんな折、NHKのEテレで「ブッダ 真理のことば」という番組に触れた。見る気があったわけではなく、チャンネルを操作している時に目にとまったのだ。番組は中盤を超えていたので内容全般をつかむことは出来なかったが、番組をナビゲートされていた佐々木閑(しずか)講師の解説の断片に、心奥が揺さぶられる思いがした。
それは、子供のころから聞かされてきた(刷り込まされてきた)仏教観とは、大分異なっているように思えたからである。興味が募ったが番組も終了してしまったので、それ以上踏み込むことも出来ず、忘却の彼方に去っていた。
ところが今週、いつもの本屋でNHKテレビテキストのコーナに立ち寄ったところ、「ブッダ 真理のことば」のタイトルが記されたテキストが目に入った。思いもしなかった偶然の遭遇に、このテキストを読ませようとする意図を感じないわけにはいかなかった。
テキストには、昨年9月に放送した番組のアンコール放送であることが記されていたが、再放送は3月で終了していた。講師の解説をTVで拝聴することが出来ず残念ではあったが、テキストは大意をとらえ易い平易な文章で記述されていたので、とても助かった。偶然の差配はそこまで織り込んでいたのかもしれない。
前置きが長くなってしまったが、本テキストを読み自分が信じていた(信じ込まされていた)仏教と、仏教の創始者ブッダ(釈迦)が説く仏教とは全く別ものだということを思い知らされ、唖然としてしまった。この国に生まれてきてこの方、日々育まれてきた人生観には、社会に浸潤していった幾多の仏教思想の反映が大きく作用していたと思う。そしてそれは紛うことのないブッダの説く仏教だろうと思っていた。
ところが、大乗仏教を基とする「日本の仏教」と「釈迦の仏教」は教義の土台が根本的に違っているとのことで、同じ言葉を使っていながら、その解釈や位置づけが全く異なるというケースがたくさんあるとの解説に唖然としてしまったのである。昔、歴史の授業で習ったこともあり、「小乗仏教」と「大乗仏教」の違いを知らなかったわけではないが、この歳になるまで教義の土台が根本的に違っていようなどとは思いもしなかった。誠に恥ずかしい限りである。
要するに、苦を背負って(老、病、死への恐れ、不安等々)生きなければならない苦しい世界(一切皆苦)にあって、どこかに心やさしい神様がいて、救いの手をさしのべてくれるというのが、釈迦を創始者とする仏教なのだと信じてきた。
ところが、解説によれば、ブッダは「そういう救済者はどこにもいない」、「この世は原因と因果則によって粛々と動いているだけであって、不思議な力をもった救済者など何処にもいない」とし、「外の力に頼らず、あくまでも自分の力で道を切り開く」ことを仏教の原点にしている。と説いている。
一切皆苦のこの世界で真の幸せを手に入れる唯一の道は、自身の心の中にある煩悩を自分自身の努力によって断ち切る以外にない。この実践が「釈迦の仏教」のようである。苦悩時代に直面している現在、さらに、諸行無常を身にしみて感じるようになったいま、自分の生きざまを考えるよすがに仏教を考えるのも意味のあることだと思う。そういう意味では、内容も濃く、2-3時間で読めるこのテキストは、お勧めの一書だと思う。
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■「(続)(続)嬉しい知らせ」 平成24年6月25日
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この2月に、本欄で紹介した私の英会話の先生(カナダに帰国してしまった)から6月4日に以下のメールが飛んできた。
□【Re:Almost there】
Hi my dear student
How are u? Been a long time?
How is ur daughter?
Am almost due?
先のメールでは、もうじきMomになると書かれていた。そして、添付されていた写真はいつ生まれても不思議ではない様子が伺えたので、「すわぁ」と思ったのだが、まだこれかららしい。
うちの娘とほぼ同じ時期と伝えていたのだが、娘が既に4月20日に出産したことを、"ジジイ馬鹿"にかまけてしまい彼女に報告するのを失念していた。
あわてて、6月5日に次のように返信した。
□【Re:Almost there(Already, I'm a grand pa)】
I was very busy last month
because I had to sing a lullaby for my grandson.
My daughter gave birth to a baby boy on April 20.
I am a grandpapa now.
I am feeling happiness.
6月4日付のメールにも写真が添付されていた。かなり大きなおなかになっていたので双子かもしれない、などと思いを巡らせながら嬉しい報告を待った。
6月24日深夜、ついに待ちに待ったメールが飛んできた。
□【Birth Announcement】
Hi everyone,
We are so excited to introduce you to our son:
Lucas, Ar○○ Le○○○
He was born at Mount Sinai Hospital on the 14th day of June
at 8:40pm.
Three of us are enjoying this new journey
and look forward to seeing you all soon.
Proud parents
○○○ and ○○○
無事に男の子を出産したとの「嬉しい嬉しい知らせ」。人ごとながら、私の娘とほぼ同い年で、同じ時期に出産をしたこともあって他人事とは思えず本当に嬉しかった。
思えば3年前、英会話の手ほどきを受けたことが切っ掛けで、こうしたやり取りが続いている。このようなことは想定もしていなかった。本当にホントに不思議な縁である。
これは、いつも「三日坊主」に終わってしまう性格を見抜いた、語学の女神が仕組んだ業に違いない。であれば、拙い英語で対応に苦しむが、続けていかなければならないのであろう。
英語の習得は本当に辛いが、このような嬉しいメールを受けると止める訳にはいかない。二人目、三人目の嬉しい知らせはいつのことになるやら、それまでに英語の力は上がっているか?・・・。 悩ましさは続く。
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■「WFP応援団の考える会」第二弾 平成24年6月17日
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この度、国連WFP協会の関連団体であるWFP応援団というボランティア団体から、講演会開催の案内をいただいた。
案内には、
『WFP応援団の考える会』第二弾
「水を考える〜アフリカでの井戸掘り」
昨年の”飢餓を考える”に続く第二弾。
今回は、ODA活動に現地(ケニア・エチオピア・南スーダンなど)で協力する民間企業に所属し、井戸の掘削や道路整備などの従事されてきたM<森長史人>さんにお話しを伺いながら、皆さんと「水の大切さ」を考えたいと思います。となっていたが、活動を始めて間もない私には、関連団体との絡みなど分かる訳もなかったので躊躇していたのだが、団体の広報を見ると、1997年に発足し、様々なイベント会場で広報・募金活動を行うほか、講演会、写真展、チャリティコンサートなども手がけ、国連WFP協会と連携し、横浜を中心にWFPの活動を広く紹介していることが分かった。
であれば、躊躇する理由もないし、この団体にも講演にも興味も惹かれたので6月17日、会場となった横浜馬車道「馬車道プラザ」に出かけ、講演を拝聴することとした。講師は28歳、某社のエンジニアとしてアフリカの国々で井戸の掘削に携わってきたことを踏まえ、エチオピアでの経験談を基に「水を考える」講演を進められた。参加者が少なかった(14名)こともあり、活発な質疑応答が飛び交う友好な懇談会ともいうべき講演会となった。用意されたビデオや写真、さらに湧出する多くの的確(知見を求めんとする餓えた)な質問に、参加者の理解は促進し主題に関する関心を一層高めていったように思う。
ODAに関しても、被支援国・とりわけ被支援者(市民)、支援国(外務省、JICA)、支援当事者(会社、社員)間における関係が実体験を聞くことで理解が深まったように思う。また、それぞれの関係の利害が、それぞれの立場で追い求める理想と現実のギャップのはざまで翻弄されかねない問題が潜在していそうなことにも気付かされた。
WFPの活動を進めていく上で、とても大事なことを学んだ気がする。真に有効な支援とは? 考えなければならない課題は重いが、逃げてはいけないのだろう。
それにしても、Mさんのような若者が海外を股に活躍されていることを大変頼もしく思った。彼らが世界の真のリーダに育ってくれることを祈らざるを得ない。
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■「大エルミタージュ美術館展」 平成24年6月16日
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ある先輩の誘いを受け、6月16日に国立新美術館へ「日本自由画壇展」を見に出掛けた。国立新美術館には初めて行ったので、そのゴージャスなたたずまいに関心を引きつけられた。雨天だったが土曜日だったこともあって館内はとても込んでいたが、それは「エルミタージュ美術館展」に魅せられた来館者だと気がついた。
本館ではいくつかの企画展が並行して開催されていたが、本「美術館展」の入口には長蛇の列が出来ていたからである。そんなにすごい展覧会なのかと思い、誘われた展覧会を後回しにして、早速当日券を買い求めた。
手にしたパンフレットには、「ロシア国外では最大級のエルミタージュ美術館展。巨匠マティスの傑作≪赤い部屋≫、待望の来日」とのイントロに続き、次のような案内解説がなされていた。
『「ヨーロッパへの窓」として築かれたロシアの美の都、サンクトペテルブルグに位置するエルミタージュ美術館。ロマノフ王朝歴代皇帝の壮麗な宮殿と300万点を超える所蔵作品が見事に調和した、世界有数の美術館です。女帝エカテリーナ2世が国家の威信をかけて美術品を収集したことに始る同館のコレクションは、古代から現代まで幅広く、正にロシアという大国によって編纂された「美の百科事典」ともいえる人類の遺産です。
本展覧会では、この膨大な所蔵作品の中から、16世紀から20世紀の各時代を代表する「顔」ともいうべき秀作の数々を紹介します。ティツィアーノに代表される盛期ルネサンスのヴェネツィア派絵画から、17世紀バロックの巨匠ルーベンスやレンブラント、18世紀イギリスの肖像画家レイノルズ、19世紀ロマン派のドラクロワ、印象派のモネ、近代画家の父セザンヌ、さらに20世紀初頭に活躍したマティス、ピカソまで83作家、全89点。なかでも、マティスの最高傑作の一つである、≪赤い部屋(赤のハーモニー)≫が、東京には約30年ぶりとなる待望の来日を果たします。
出品作品のほとんどは、通常はエルミタージュ美術館の壁を飾っている常設展示作品という豪華ラインナップ。質、量ともにロシア国外では最大規模となる本展をとおして、400年にわたる西欧絵画の精髄をご堪能ください』。
本解説の一字一句を地でいく展覧会になっていると感じた。西欧絵画の真髄を見せつけらた思いがした。素人の鑑賞者にさえ、絵の美しさとそれに込めた作家の思いが分かるような気にさせる作品のエネルギーに圧倒されてしまったからだ。
さらに、時代区分ごとにその代表作品を見られることで、西欧美術の進展経過が理解できたように思う。書物などで進展経過を追ったこともあったが、生で見て追う迫力は何にも替えられない感動が伴った。
それは、T.16世紀 ルネサンス:人間の世紀
U.17世紀 バロック:黄金の世紀
V.18世紀 ロココと新古典派:革命の世紀
W.19世紀 ロマン派からポスト印象派まで:進化する世紀
に区分されており、現代のアヴァンギャルドに繋がる変遷を一堂に見られる幸運をしつらえている。この幸運を見逃す手はないと思う。
とにかく足を運んでみたらいかがだろう。きっと興奮と感動を享受できると思う。
お勧めの展覧会です。
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■「日本で1番幸せな県」わが故郷に想う 平成24年6月11日
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60歳を超えた頃から、故郷の学校の同窓会が1年おきに開催されるようになってきた。今までは5年ごととか、幹事の気紛れ思いつきとかで開催されていたのだが、歳を重ね人恋しさの情が強まってきたからなのかもしれない。
もっとも定年になって定職から解放されたことも拍車をかけているのだろうが、故郷の友たちは未だ現役で頑張っている者が多いので、このことは推量の域を出ていない。我が県人は働くのがとても好きなのである。
健康なうちは身体を動かし社会に貢献する。また、それはそのような環境が整っているからこそ可能なのであろう。 そんなことなどが総合評価され昨年わが故郷は、日本で一番幸せな県と称されるようになった。故郷を離れた私にはとてもうらやましいのである。
今年の4月に高校の幹事からクラス会開催の通知が届いた。1年おきにしてから3回目のクラス会となったが体調不良、家族看護、諸会合のため6月9日に出席したのは13名であった。1年おきになったことでいつでも出席できるとの気安さが生じてきているのかもしれないが、在郷の仲間は忙しいらしい。1番幸せな県を象徴していると言えなくもない。
2年ぶりの久闊を叙する言葉は温かく、それぞれの生きざまを開陳する言葉には熱気があふれていた。顔にはそれに相応しい新たな年輪が刻み込まれており、媼のとば口にたった仲間にはカメラに面と向かう勇気が欠けていたが、最近のディジタル写真補正機能の素晴らしさを信じ込まされ、ポーズをとる姿に往年のマドンナの片鱗を垣間見せていた。
アルコールも回り、饒舌に拍車がかかったクラス会のたけなわは1番幸せな故郷を表徴していたが、「思えば今では我が故郷は全国にその名を轟かすほど有名になったしまった」と誰かが呟いた。我が国が原発再稼働に揺れるなか、その主役を演じるなどとは思いもしなかったに違いない。気がつけば、我が県には13基(53基中)の原発が設置されている。我が国の経済成長に大いに寄与したに違いないが、それにしても偏在し過ぎている。こういったことに直接口出しは出来なかったものの、何かの片棒を担いできたのではないかとの思いが仲間の口から洩れた。
「騒がれなければ気がつかなかったかもしれないが、こんなに多くの原発を抱え込んだ県が1番幸せと言えるのか? 1番幸せな県とおだてられ、いい気になり過ぎていたのではないか」仲間の口から洩れた言葉は重かった。
再稼働を余儀なく迫られ、ついにその断を下したようであるが、これからどうしていくのか故郷を愛する者の悩みは深い。今まで無関心だったことのツケはあまりにも大きいが、清算しないわけにはいかない。その責任は我々世代のものでもある。そんな自覚を促されたクラス会となった。そして何年か後には、我々が撒いた種で真に1番幸せな県にしようと誓わされたのである。
我が友の目にきらりと光る炎(ほむら)を見た。老人の忙しさだけは日本で1番のようだ。
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■横浜トリエンナーレ「トリエンナーレ学校vol.0」 平成24年6月5日
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6月5日、2年後に開催される「横浜トリエンナーレ2014(仮称)」に向けて、今年もトリエンナーレ学校が動き出した。前回の反省を踏まえ、早くから準備を進めるという視点から、本日、次回に向けたトリエンナーレ学校が開校されたのである。
横浜トリエンナーレ組織委員会の体制も新たに編成され、新たに就任された事務局長、事務局次長、サポータ事務局ディレクター、事務局のスタッフの下に開校式が挙行された。
当日集まったサポータ(ボランティア)は40名位だったと思うが、前回に引き続き参加された方々だったので、ほとんどが顔見知りのOB会のような雰囲気となった。もっとも組織委員会の方々もほとんどが顔見知りのかたばかりで意気の通じ合う開校式となった。開校式では、横浜トリエンナーレサポータ事務局から今後の活動、年間スケジュールの紹介があった後懇親会となり、これからの意気込みについて熱い交流がなされた。
これからは新しいサポータがどんどん入ってくるであろう。
彼らと一緒に、次回がさらに魅力のあるトリエンナーレにしていければと思う。
前回初めてサポータを経験し素晴らしい感動を味わいました。
こういった感動はお裾分けしないわけにはいかないのです。
だから、どなたか一緒にやりませんか?
素晴らしい感動を共有しましょう。
是非ぜひご参加くだされたく、待ってますよ。
横浜トリエンナーレのことについては⇒こちらから
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■行事が集中した「国連WFP活動」 平成24年6月3日
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今月は、以下で紹介する国連WFPの行事が1週間のうちに集中して実行された。
いずれの行事にもボランティアとして参画し、宣伝・啓蒙、並びに募金等の活動を行ってきた。地球の飢餓を救うためにどれだけ寄与できたかは分からないが、気持を込めて取組んだ分遣り甲斐のあった充足感を得ることが出来た。
なんの力も持ち合わせていないが、お立ち寄りいただく方々へ掛けた言葉に心の底から「ご苦労さん」「すくないけれど・・・」と反応され、募金箱に差し伸べていただいた手に我々の思いが伝わっているように見えた。本当に貴く、眩しい一瞬といえた。
この一瞬にボランティア冥利を求めていたのかもしれない。
そしてそれは、真に心を通わせ共感を頂くことによってのみ求められるのではないかと気付かされた。学んだことは実に貴重で今後に活かしていかなければならないのであろう。
それにしても、立ち通しの活動はきつかったが、打ち上げで飲んだビールの味は殊更に美味であった。この味を知ったものは来年も必ずチャレンジするであろう。
■5月27日(日) WFPウォーク・ザ・ワールド〜地球の飢餓を救え。〜
・本イベントは、途上国の子供たちの飢餓をなくすために、世界各地で開催される地球規模のチャリティウォークで、今年は5月27日、横浜みなとみらい地区:臨港パークをスタート会場として実行された。
・当日、八木沼純子氏(プロフィギュアスケータ)がゲスト参加し、約3,000人の市民(家族)がそれぞれ10q、5qのコースに挑んだ。

・約60人のボランティアが参画し、上天気の中終日本イベントに奉仕した。
・会場での誘導と広報・宣伝、募金活動を担当。参加者の善意に支えられ充実した1日となったが、5月の紫外線をたっぷりと浴び、真っ黒に日焼けしてしまった。日焼けの濃さが活動へののめり込みの証しとなったようだ。

■5月29日(火) WFP新事務局長 アーサリン・カズンの講演
・この日、WFP 国連世界食糧計画事務局長のアーサリン・カズンが初来日し、東京の国連大学本部において「飢餓のない世界をめざして」(Fighting Hunger Worldwide)と題した講演を行った。
・ボランティアとして会場誘導を担当した後、彼女の講演を拝聴した。
・25年以上にわたり、米国及び国際的な立場において、非営利団体、政府、企業を率いて飢餓や食糧問題の解決に尽力してきただけに講演は胸に迫るものがあった。人口増大、自然環境の悪化、継続する紛争、食料品の高騰化など取組まなければならない問題の多様さ、複雑さを改めて思い知らされた。
でも我々は決してこれらから逃げてはいけないのであろう。
・講演後小谷真生子氏(キャスター・国連WFP顧問)との対談があり、当日参加した支援企業関係者、NGO、学生、国連、外務省、大使館関係者等と共に問題の共有ができたことはとても大事なことだと思った。中でも、飢餓にある子供たちがテロリストに刈り出されている現状を聞いたときに、胸が痛まなかったものはいなかったであろう。
まさしく、「Fighting Hunger Worldwide」なのだと思った。
・当日は、皇太子殿下と妃殿下が来場され熱心に聴講されていた。
・当日の報道記事は⇒こちらから
■6月03日(日) 「TVK 秋じゃないけど収穫祭}
・6月2日、3日の両日、日本大通り、神奈川県庁前、象の鼻パークを会場として本収穫祭が開催された。
・本収穫祭は2007年から、「神奈川の地産地消」を応援する目的で開始され、神奈川県産の野菜や海の幸などの食材・加工品をはじめ、それらを使った料理や環境に配慮した雑貨などの販売、環境関連企業・NPO団体のPR、親子連れで楽しめるワークショップなど、およそ100ものブースが出店する大イベントである。
・横浜開港祭とのシナジー効果もあり、毎年約70万人の人出があるとのことで、このような場所で国連WFPの広報・宣伝、募金活動を行うのは意味のあることと言えた。
・協会では、今年初めてブースを出すことを決めその意義を遂行することとなった。
・私は3日の日に参画し、国連WFPの広報・宣伝と募金獲得に努めた。
・雨を予想していた天気が終日晴れ渡ったため、予想を超えた人出となり多くの方に広報・宣伝することが出来た。その結果、想定を超えた募金額を獲得することが出来、出店初年度にしては上々の滑り出しとなった。
・参加したボランティア仲間が少なかったこともあってきつい作業とはなったが、それを補うに十分な激励の言葉を頂いた。終了後4人で飲みニュケートした反省会・打ち上げは格別な味わいのあるものとなった。
風船作りも随分上手くなったし、継続していくしかないだろう。

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■あざみ野カレッジ「マックス・エルンスト」 平成24年5月26日
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5月26日に横浜市民ギャラリーあざみ野カレッジで、「マックス・エルンスト」に関する学芸員の講演会があった。講師は横浜美術館の主任学芸員中村尚明氏。以前、横浜美術館の図書館を取材見学した際お話しを頂いた方だったので、是非お話しを聞きたいと思い聴きに出かけた。
折しも、22日にTVの「ぶらぶら美術博物館」の番組で、例の山田五郎氏が横浜美術館で開催中の「マックス・エルンスト」展の見どころを軽妙な語りで解説していたのを聴いていたこともあって、興味に拍車が掛ったからでもある。
案内に、『マックス・エルンストはドイツ生まれ、シュルレアリスムの画家・彫刻家として知られています。見たままの自然を描くのではなく、抽象でもないエルンストの絵の作り方を、登場人物と背景(フィギュア×スケープ)という視点から見つめる展覧会が横浜美術館で開催中です。画家の分身でもある鳥や、花や神話の動物が生息する不思議な世界の魅力を、展示作品に沿ってお話しします』とあったが、何故シュルレアリスムに傾倒していったか、「コラージュ」「フロッタージュ」「グラッタ―ジュ」という彼の編み出した絵の作り方も含め、氏の解説は学際的な中にも下世話に通じる話も織り込まれ、ご案内の通りとても楽しく拝聴することが出来た。
最後の結びに聞いたエルンストの話はとても印象深く、ますますシュルレアリスムに嵌っていく自分を感じてしまった。この感触を伝えられればと思いこの展覧会の鑑賞を勧めたい。開催は6月24日までです。是非お出かけいただきたく。
『人は開いた目で外の世界を観察することできる
目を閉じれば、自分の内側を見る
一番いいのは、片目を閉じて内側を見つめ
もう片方の目で外の世界を見定めることだ
もしそれら2つの世界を繋ぎ合わせることが出来れば
主観的生活と客観的生活の統合を達成することが出来る』
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■「金環日食」を観測した日 平成24年5月21日
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2012年5月21日に、日本の太平洋側の広い地域で金環日食が観測できるというニュースが大分前から流れていた。太陽がリング状になって見えるというこの現象はなかなか珍しいことのようだ。まして東京や大阪、名古屋など太平洋側を中心とした広い地域で見ることが出来るのは、930年ぶりらしいとのことで私の興味を掻き立てた。TVの報道も毎日喧しく、とりわけ観測グッズの宣伝は異常な状況を呈していたと思う。
大むかし、小学生の頃は下敷きや、ガラスの破片に煤を付けたものでよくお日様を見ていたものだが、それはいけないらしいことが強調されており時代の流れを感じてしまう。もっとも、今ではガラスの破片を手に入れることや煤を付けることも難しくなってきている。そのことにも時代の変化を感じさせられた。
"世紀の金環食を最適な観測グッズで"、と思っていたのだが、孫が生まれその対応や嬉しさのあまりにグッズを手に入れることを失念してしまった。20日、孫のお宮参りを済ませた夜、ボーっとした状況でTVを眺めていると、「明日の朝に起こる金環食観測への準備は万全か?」との脅迫するかのようなやり取りが聞こえて来た。あわてて店に問合せをしたが、時すでに遅しでグッズは全て売り切れていた。運の無さを恨むしかなかった。
毎週月曜日は、地元の病院でボランティアをすることになっているので早起きをすることにしている。いつも通り早起きをして出勤の準備をしていると、金環食を観測しようとする近所の大人や子供たちが家の外で騒いでいた。一晩寝ているうちに薄れかけていた思いが蘇り、外に飛び出た。7時30分だった。みんな大騒ぎをして天を仰いでいた。目がやられるかも知れないとの思いが駈けるより早く、天を仰いだところ薄い雲を通してくっきりとした金環食が裸眼で確かめられた。感動に唸った。
雲が切れ始め真っ赤なリングの姿が現れた時には、さすがに裸眼では無理でグッズ調達の不始末を恨んだが、金環食が完全な形を形成した7時35分ごろ隣にいた近所の子供が眼鏡を差し出してくれた。「おじさんどうぞ!」の声に感極まってしまい涙目ながら眺めた金環食にひと際の感動を覚えた。子供に「素晴らしい!」との絶句の言葉に「ありがとう」を添えお礼を告げた。そんな風景があちらこちらに見え、出勤間際のお父さんたちを喜ばせていた。絶えて久しい近所づきあい、大人と子供の暖かい交流を垣間見ることが出来、心が熱くなった。金環食がもたらしてくれた恩恵を大事にしなければと思った。
昨晩は無理だと思っていたことが、何と嬉しいことになったことか、ラッキーとしか言いようがない。これは、毎週月曜日にボランティアで汗を掻いていることへのルーナ(月の女神)からのご褒美なのかもしれない。ますます精を出さないわけにはいかないのである。
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■「初孫の産土(うぶすな)参り」 平成24年5月20日
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初孫が生まれて1ヵ月目の5月20日に地元の神鳥前川神社にお宮参りをした。
両家の爺,婆がやたらと張り切ってしまった。
「両家にとっては初めての孫なのだから、さもありなん」との言い訳で悦に入る。
「お父さんありがとう」「お母さんありがとう」
と自分を生んでくれた両親に感謝が出来る子に育ってもらいたい。
爺、婆たちのそんな思いを産土神様に祈願し、
はちきれん喜びと感謝の気持ちを捧げ、祈願に『ジジイ酒でも飲むかい』
と言ってくれる日を願う一言を添えておいた。
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■「月プロ恒例の軽井沢研修」 平成24年5月19日
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「月プロ」とは月曜日プロジェクトの略称で、現役の頃NPRO社で勤務していた時有志で立ち上げたチームの名称である。毎週月曜日のアフター5に会社のクラブに集合し、会社と自らを活性化しようと談論風発に興じたことから名付けたのであるが、要は仕事をこよなく愛し、酒をその次に愛することが出来るものであればだれでも会員になれるすこぶるファジーなプロジェクトチームと言えた。
決めごとといったような堅苦しいことは一切ない。だれがどんなに食べようが、飲もうが一切自由。勿論どんなに喋っても一切お構いなし。ただかかった費用だけは割り勘というのが原則。だから食べなければ、飲まなければ、はたまた喋らなければ割りを食うので、毎週月曜日の5時以降は覚悟して臨まなければならなかった。
時が経ちメンバーのうち2人の現役を除き定年となってしまい、数年前から年に1回旧交を温めるため旅行することを決めた。それが恒例となり今年で4回目を迎え、本年も5月18日にNECの軽井沢山荘に出掛けた。昨年は大震災のため中止したので久々の旅行となったが、一昨年、1羽のローカルなカラスにおちょくられ、てんやわんやの騒動に巻き込まれたことが思い出され、そのカラスとの再会も楽しみに拍車をかけた。
(「軽井沢からす騒動」の顛末はこちらからどうぞ。
「軽井沢からす騒動顛末記」)
ところが、今年は例年になく天候不順な日が続き、往きの関越道で霰混じりの雨の洗礼を受けた時に、今年も軽井沢の女神による思いもかけない企みが予感された。案の定軽井沢山荘は雲が切れて晴れてはいたがとても寒く、あのカラスにさえ出番の気力を失わさせ再会の楽しみを摘み、我々年配組(菅原、坂本、私)にはテニスをさせようとする気力さえ奪った。
ところが、それらは彼の女神の小憎らしいまでの企みに思えた。若手組(言後、中谷、黒瀬)には思いっきりテニスを楽しませ、というより疲労を蓄積させ、年輩組には近間の温泉巡りを意図的に選択させ、体力・気力を亢進させることでハンディを付け、当夜の宴会(含むカラオケ)と明日の行動を想定外の楽しみに引き摺り込む業に見えたからである。
 
我々年配組は別荘の建ち並ぶ山道を散策し塩壺温泉で至福の時を過ごした後、山荘で若手組を待ちながら一足先に酒盛りを始めた。一昨年はテニスでのほど良い疲れと思わぬカラスのおちょくりに杯を重ねたが、今年の天候では無理と思し召した女神の粋な計らいに、一昨年以上のピッチで杯を重ねることが出来た。若手が合流し食事をするまでの小1時間の間に500ミリのビールの缶を12本空けてしまった。勿論幹事役の黒ちゃんが持ち込んできた苦労を無駄にしてはいけないとの配慮でもあったが、60,70歳台老人の遣れる業かと信じ難い思いがするのである。でもこれはほんの序の口に過ぎなかった
飲みかつ喋りが亢進していった頃、山荘の支配人が部屋の様子を伺いに来、食堂の準備が整ったことを伝えた。彼は我々の行動が気になっていたのかもしれない。部屋に持ち込んだ飲食物(特に飲物)が半端ではなかったからであろう。ニコニコした顔ではあったが少しひきつり気味の顔には心配が透けて見えた。
我々は既に想定外の楽しみに引き摺り込まれていた。そして疲れを癒すには十分過ぎる量のアルコールを詰めていたので、シェフの腕をふるった料理を堪能するだけのはずだったのだが、このグループの本領なのか女神の精緻な企みのせいなのか、誰言うとなくさらなる食前酒を所望したのである。こうなれば飲まなければ、そして輪をかけて喋らなければ割りを食うので口角泡を飛ばし杯を重ねる羽目に陥った。酒量は想定の限度をとっくに超えてしまったが、企まれた愉しみは途上にしか過ぎなかった。愉しみを満喫させようとする女神は、我々の身体に今少しのアルコールを許容させることを差配したに違いない。
夕食後すぐ女神の分身が部屋からお酒の1升瓶を担いできて、われわれをカラオケの部屋に誘(いざな)った。誰あろう黒ちゃんの口を借りた女神から「もっと飲んで楽しく遣りましょう」と焚きつけられたときに、この日一番の盛り上がりとなりおじさん達は、女神の言葉を信じ、飲みかつ美声を張り上げたのである。この歳になって通常では考えられない行動としか言いようがないが、これら一連のことが明日の思ってもいなかった行動への伏線になっていたのである。
年寄りの目覚めは早い、昨晩あんなに飲んだのにすっきりした顔で早朝から入れ込んでいた。本日は特別な計画を立てず行き当たりばったりのユニークな1日を楽しもうということにしていたが、昨日の内に結構楽しんでしまい旅の目的をほぼ達成してしまったので、何処に行こうが誰からも文句は出ず、ただひたすらユニークであることが望まれた。まさかクマが出没する生息地に連れていかれようとは、こんなユニークな散策を経験しようなどとは誰も思わなかった。もしも昨晩あれほど飲んで、愉しんでいなければ少なくても頭は正常な判断を下したに違いなく、クマの迷い出るなどというユニークな1日を選択するはずもなかった。精緻な女神の仕掛けはずっと前から織り込まれていたに違いない。
朝食後、一行は軽井沢銀座へと向かった。3年前にも立ち寄ったこともあるのでユニークとは言い難たかったが、ウインドショッピングの傍ら歩くうち何か日常とは異なるものに遭遇できるのではないかと、老舗のホテルを過ぎ奥の方へと追いやられるように散策道を辿っていた。当日は昨日と異なり天気が良く汗ばむ陽気であった。汗が頬を伝った時に道の端に「見晴らし台」へ案内する標識が目に入った。その標識からはどう見ても20-30分程度の散歩コースとしか読みとれず、歳をとった我々には最適のコースに見えた。坂本君の口を借りた女神から「見晴らし台に行きましょう」と囁かれたときに、誰も反対するものはおらずユニークを求めて嬉々として彼についていった。
行けども行けども「見晴らし台」らしきものは現れず、引き返そうかと判断するには奥に入り込んでいた山道に沿って標識が立っていた。なんとそこには「ここはクマの生息地である。ラジオの音声を上げたり鈴を鳴らして通行するように」、さらに「万が一出遭った時には逃げないで後ずさりするように」と書いてあった。各地でクマ騒動が起きているこの頃なので心胆寒からしめるには十分過ぎる内容であった。それでもだれも引き返そうというものはいなかった。言いだし難くかったのかもしれない。それからは、心なしか喋る言葉数も増え声のボリュームも上がった。手には太めの杖を持つ者まで現れた。
とんでもないユニークすぎる場所に迷い込んでしまったもんだと思いながら、ひたすら歩くのだが「見晴らし台」は遠く、なかなか到達しない。やっと擦れ違った人(思いのほか老夫婦であった)から頂上までの距離を聞いて愕然とすることもあったがようやっとの思いで頂上(碓氷峠)に辿り着いたときには1時間半以上経過していた。山道を4qも歩いたらしい。
頂上から見渡す景色は絶景に尽きた。浅間の山頂から噴火を示す一筋の煙が我々の登頂を祝福しているようにも見え、歩いてきた疲れもクマへの恐怖心も一遍に吹き飛んでしまった。浮世の濁にまみれた心がすっかり洗い清められ、こんなにもすがすがしい気持ちになったのは何年ぶりであろうか。久しぶりに味わう感激におじさん達の顔は紅潮していた。前日酒攻めにし、判断を鈍らせた揚句に易々とクマの生息地に誘い込んだのは、正にこの感激・感動を与えんがための精緻に張り巡らした女神一流の仕掛けなのであろう。
碓氷峠に佇みそう思ってあたりを見回すと、由緒ある熊野皇大神社が目に入った。全員で感謝の気持ちを伝えるため参詣した。社伝によれば、ヤマトタケルが東征の帰路で碓氷峠に差し掛かった際、濃霧が生じて道に迷った。この時に一羽の八咫烏が梛(なぎ)の葉を咥えて道案内をし、無事に頂上に着いた事を感謝して熊野の神を勧請したのが熊野皇大神社の由来だとされる。それを知った時に不思議な運命の巡りあわせを感じないわけにはいかなかった。我々が一昨年出遭った一羽のカラスはひょっとしてこの由来の八咫烏のお使いだったのではないかと思ったからである。きっとそうなのであろう。今年も彼のカラスは女神に化身し我々を感動の旅に誘(いざな)ったに違いなく、意外な場所で意外な再会となった。

ところで、このユニークな散策に更なるユニークなことがあったことを思いだした。これを書かずして今年の旅を締めくくれないであろう。カラス殿の仕掛けた精緻な仕掛けに「して遣られた思い」が、今年も旅の締めくくりとなってしまった。
我々にとって県や町村の記す「熊注意」標識は絶大であり、それゆえこの登頂は決死の思いであったのだ。だから、登頂後の思いにひとしおのものを感じたのである。ところがこれが妙なことになってしまった。
峠の頂きに茶屋がありそこの大女将(と言うか気さくな茶屋のおばあさん)とお孫さん(女児)が店番をしていた。我々は自販機でお茶などを買い求め登頂の喉の渇きを潤しながら、余りに気さくなおばさあさんの対応につい引き込まれ、核心の質問をしてみたのである。回答を想定し我々のアドベンチュアー魂が如何に自慢できるものかとほくそ笑みつつ、「ところで、今までにどれくらい熊と出遭いましたか?」と尋ねた。標識を見ていたものであれば必ず聞くであろうもっともな質問でなおかつ自慢が掛った質問と言えた。ところが返ってきた回答に絶句してしまった。「皆さんによく聞かれることで、腰を折る様で申し訳ないんだが、私しゃねここに嫁いで50年になるが、1度も熊に出会ったことなどないのよ」。こんな回答ってあるかい。「ええっ・・・」と発したきり呆然となってしまった。今まで味わった恐怖心、決死の思いは一体何だったのか?
実体のところはよく分からない。夜中に茶屋の周辺には来ているのだろうが、彼女が外に出なければ遭遇することはない。ただそれだけのことなのか、それとも標識は単なる脅しだったのか。ユニーク過ぎる落とし前に笑うしかなかったが、このような筋書きは誰にも用意が出来ないであろう。
我々はこの軽井沢のカラスに見込まれ、恩寵に浴するような宿命にあるのかもしれない。誠に喜ばしい限りというほかない。来年も再来年もずーっと来ざるを得ない、カラスに見込まれているのだから。
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■「ファンドレージング」の研修を受講して 平成24年5月09日
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先月の中旬、国連WFP協会から研修受講のお誘いを受けた。研修のタイトルには
組織力強化のための職員研修
地域における「志」金循環の秘訣
〜感動と共感がコツ〜
株式会社ファンドレックス
私たちは、NPO・公益法人・学校などのファンドレージング
を支援する社会的企業です。
社会をより幸せにするために取組む人達を支援し
日本社会に善意の資金循環を生み出します
と、記され、協会の職員が受けるトレーニング講座で一緒に学びませんかというものであった。お伺いするところによれば、ロールプレイの実習も織り込まれているらしく、3時間を超える本格的な研修のようだったので、この歳になって"今更研修でもあるまい"と躊躇したのだが、興味を掻き立てる講義への野次馬根性には勝てず結局受講することにした。
9日の13時30分、協会のスタッフ12人(事務局長も参加)にボランティアの有志6人が混じり研修は開始された。久々の研修で性根を据えたものの、"何を習得するのだっけ?”という基本的なことが見えず困惑。NPOのボランティア活動を始めて5カ月ぐらいしかたっていないので、ファンドレージングとか言われても戸惑うのが正直なところであった。
Fundrasingと記された資料を見て、何となく意味が感じとれたが、恥を忍んで告白するが私には馴染みのない言葉で、むしろDonationと言われれば少しは納得がいったかもしれない。この意味は、NPOや公益法人が活動するために必要な資金を調達することを指すとのことだが、NPOの活動が進んでいるアメリカでは当たり前の概念になっているらしい。
要するに、NPO活動のための財源を如何に戦略的に確保するのかであって、日本の寄付金集めに多くみられる「善いことをしているから寄付をください」「かわいそうな子供がいるから支援して下さい」といった自己満足的な活動とは異なるものらしい。講師の言葉を借りれば、「途上国の難民支援をやっているのだから、善意の支援は集まるはずだ」というモデルではなく、NPOにとって難民も国内の支援者もクライアントだから、寄付した人が「支援して良かった」と思えるコミュニュケーションが大事なのだということになる。
今まで、NPOはあくまでボランティア活動で行っているのだろうと思っていた私には、目から鱗の思いがした。NPO活動も事業活動であって戦略的でなければならないのである。研修の狙いは、そのためにどのようなコミュニュケーションをすべきかであった。今までは、自分たちの正当性を主張しがちであったが、それを脱皮して如何に相手に共感させられるような言い方を通じて、コミュニュケーションを図ることにフォーカスされていた。このために用意されていた「エレベータトークの実習」を何回かやらされたが、余りにも自分のメッセージ力の貧弱さに気付かされるばかりで、恥と冷や汗タラタラのロールプレイとなった。
エレベータトークとは、それに乗り合わせている時間のなかで要旨を分かりやすく伝え(プレゼンをして)、例えば商談に結びつけるということなのだそうだ。本研修を受けまだまだその域には達しないが、これからの我々の活動に生かしていくことが期待されている。
ブースに立ち寄って頂いたお客様に共感を得るエレベータトークによってマンスリードナーを確保していくことである。聖なる活動も戦略的な資金調達が出来てこそなのだ。磨きをかけるしかない。
ちなみに私の研修の成果をお試しになりたければ、国連WFP主催の「Walk The World」に是非お出かけ下さい。あなたを聖なるマンスリードナーにお導きできるよう、腕をさすってお待ちしております。
(WTWは5月27日横浜みなとみらい臨港パークで開催。詳細はこちらから)
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■「最良のジジイになることを誓ったゴールデンウイーク」 平成24年5月08日
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毎日が日曜日となってしまった身には、ゴールデンウイークに特別の思い入れはなくなってしまったが、今年は初孫と共に過ごしたことで特別のゴールデンウイークとなった。
生まれて10日ばかりしかたっていないが、
住人が一人増えただけで家じゅうがてんやわんやの大騒ぎ。
泣けば泣くで、静かな眠りが続けば続くで心配したり、
風呂の入れ方がどうのこうのと気をもんだり、
すっかり滑舌が怪しくなってしまった調子であやしたり、子守唄を聴かせたり、
35年前の我が子のときより入れ込みに力(りき)が入った。
まじまじと顔を見ていると、ますます親父(娘の亭主)殿に似てきている。
さもありなんと思いつつ、「あちらの家系の顔に似たか!」
との、ため息が洩れそうになったとき、それを見透してか微笑みを返してきた。
未だ微笑みなどできるわけがないのに。
でも、これは誰が何と言おうが微笑みなのだ。それは、私にしか分からない。
天使の笑みに撃たれ、この子の最良のジジイにならなければと誓わざるを得なかった。
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■「日本病理医フィルハーモニー第1回演奏会」 平成24年4月29日
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本日19時から日本病理医フィルハーモニー(Japan Pathologists Philharmonic)の第1回演奏会が、横浜みなとみらい大ホールで開催されることを聞いていたが、会社のOB会(JOB会)と重なっていたため残念ながら聴きに行くことは出来ないと思っていた。でも、プログラムを見た時に都合が付けられるのなら、是非鑑賞したいとの思いがあった。
幸いにして、昼日中に始まったOB会はカラオケで喉を嗄(か)らすまで続いたが、17時前にはお開きとなったので、酒と歌の酔いが残ったままではあったが、フィルハーモニーの魅力に惹かれ新橋から桜木町まで直行した。
大ホールに着いて驚いた。JPPは、病理診断を専門とする医師(病理医)たちが中心となって結成したフルオーケストラであってプロではない。それなのに、会場には長蛇の列が出来あがっていたのだ。アマチュアのオーケストラなのになぜこのように人気があるのだろうと目を疑ったが、並んでいる方達は正真正銘この演奏会を楽しみにしているお客様であった。2.000名を収容出来るホールは3階席までほぼ満杯となり、その人気の高さが窺えた。もっとも入場が無料だったこともあったかもしれないが、クラシックの根強いファンの多さに目を見張る思いがした。
総勢92人による演奏メンバーは、北海道から九州にわたる全国から集まった医師や技師、そして数名の賛助出演者で構成されていた。一体どこで練習をしているのか不思議でならなかった。"上手いわけがない"。大変失礼だがこれが最初の印象だった。ところが演奏が始って、その印象は木っ端みじんに吹き飛んだ。「素晴らしい」の一語に尽きた。
指揮を執られた秋山さんは、「最初は賑やかで楽しい「カルメン」前奏曲で幕を開け、次の「フィンランディア」は、重苦しい雰囲気で始まりますが、最後は祖国の誇りと国難からの脱却に向けての賛歌になります。東日本大震災だけでなく、経済的にも社会的にも何かと不透明な我が国ですが、「頑張れニッポン!負けるな日本!」の心意気で演奏します。続くバッハの「アリア」は、先の震災でお亡くなりになられた方々のために謹んで演奏したいと思います。この演奏が終わった時には拍手をなさらないでください。皆さん方と共に祈りをささげるひと時の黙想を・・・」。と挨拶され第一部を始められた。
選曲の確かさ、そしてメンバーの真摯で心のこもった演奏に会場は圧倒され、感動の極みがブラボーの掛け声と大きな拍手によって象徴されていた。
第二部では、我々にはなじみの歌ばかりでテノールの魅力を存分に味わうことが出来た。米澤先生の歌唱力はほとんどプロはだし、この先生にも会場からは多くの掛け声と、感動の拍手は鳴りやまず第1回の演奏会は大盛会のうちに幕が下りた。日頃医師の立場から人を助ける業務に携わっているからこそ、ひとの心の内をえぐる演奏が演じられたのだと思う。
酒の酔いがこの素敵な演奏に一層高められ、至福な時を過ごすことが出来たことを素直に喜んだ。今日は無理して来たことは否めないが、無理して本当に良かった。
感動も無理をしなければ求められないのかもしれない。
□感動を呼んだ演奏のプログラムは以下の通り。
■第一部(指揮:秋山隆(川崎医科大学病理学1・准教授)
G.ビゼー カルメン組曲より4曲抜粋
第一組曲より「闘牛士(終曲)」「前奏曲〜アラゴネーズ」
第二組曲より「ハバネラ」「ジプシーの踊り」
J.シベリウス 交響詩「フィンランディア」
J.S.バッハ 管弦楽組曲第3番より「G線上のアリア」
E.エルガー 行進曲「威風堂々第1番」
■第二部(指揮:岡輝明(関東中央病院病理科部長)
J.プッチーニ 歌劇トゥーランドットより「誰も寝てはならなぬ」
(テノール歌唱:米澤傑(鹿児島大学医学部病理学教授)
P.マスカーニ カバレリア・ルスティカーナ「間奏曲」
J.プッチーニ 歌劇トスカより「妙なる調和」(テノール歌唱:米澤傑)
E.ディ・カプア 「オーソレミオ」 (テノール歌唱:米澤傑)
F.レハール ワルツ「金と銀」
F.レハール 喜歌劇メリーウィドーより「ワルツ」
(テノール:米澤傑 ソプラノ:米澤悦子)
R.ワーグナー 楽劇「ニュルンべルグのマイスタージンガー」前奏曲
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■「JOB会の再会」に想う 平成24年4月29日
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昭和50年代の初頭、部員が活き活きと業務改革や新たな業務に挑戦していた職場があった。当時(昭和40年後半から50年前半)は正に激動の時代であったが、その中にあって常に進取で先駆的な考えで我々を牽引していった下さった上司のお陰で、このような前向きで誇りが持てる職場が形成されていたのだと思う。だから職場を離れても、長く繋がっていきたいとの思いからOB会が結成されたのは必然のことであった。
会の名称はJOB会。組織名の頭文字と皆さん"丈夫かい!"ということをもじって付けられた名称である。それは我々にとって、どこにも負けない仕事をする仲間・連帯を象徴していたと思う。本会の会合を重ねる中、その思いは一層高まっていき、本会での逢瀬を通じ連帯の絆は一層強くなっていった。だから、会員であることが誇りとさえ思えるようになってきたのだと思う。
まさか、この連帯を象徴する元上司が早世されるとは。昨年11月に届いた訃報に驚き、絶句するしかなかった。我々を束ねて頂いていた主柱を失った衝撃はとてつもなく大きかった。だから本連帯の紐帯が本当に危惧されたのだが、4月29日に再開されたJOB会で、それが杞憂であったことを知った。
当日は、女性の仲間が毎年定期的に催している「食事会」にご一緒させて頂くという変則的な開催となったが、20人ほどの会員が新橋の某ホテルに集合した。天気にも恵まれた昼下がりのホテルには大勢のお客様で混み合っていたが、我が方が占拠したコーナがひと際煩く、和気あいあいとした懇談風景を見せ、ホテルのスタッフや他のお客さま方の羨望の的になっていたように見えた。
主柱を失ってから5カ月、未だ衝撃の余韻が覚めやらないなかにいたが、交流で交わす言葉の端々に、既に哀しみを乗り越えた響きがあり、本連帯の絆がさらに深まる確かな紐帯が見えた。危惧が杞憂であった証しと言える。
きっと本会を作らせ給うた主(ヌシ)が、今日という日を設定し紐帯を確認させる導きをされたのかも知れない。であれば、その思し召しをこれからも大事にしていかなければならないのであろう。
恐らく、当日どこかの陰で我々の話す言葉の一言ひとことを漏らさずに聞いておられたに違いない。当日は未だ時期尚早と思い「あっちっち事件」の話や、「足指の効果的運用」の講義、さらには「リビア独り住まいの風景」の話等を敢て話題にしなかったが、ひょっとしたらご不満だったかもしれない。
近いうちに、本会の新たな再会を果たし、これら本会に伝わる伝説をにぎにぎしく奏上し、ご冥福をお祈りするとともに本会を永続的に続けていくことをお誓いしなければならないと思った。
ますます不透明さを増す今日、本会で交流していく意義は深い。本会を作って下さった上司の先見性に感謝を捧げ、その意志を繋ぎながら、仲間や社会に少しでもお役にたてることをやっていかなければならない。ホテルを出た外の眩しい日差しにそんな決意を迫られた。
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■「日清オイリオ横浜磯子春まつり」 平成24年4月21日
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日清オイリオ殿の社会貢献イベント「横浜磯子春まつり」が、4月21日と22日の両日横浜磯子事業場で開催された。今年で30回の開催になるそうだが、事業場を開放し、地域の方に大いに楽しんで頂く工夫を凝らしたイベントや、日清オイリオショッピングゾーン等の設営で、来場者から大変な好評を博していた。
このお祭りに同社のご好意もあって、以前から国連WFPのブースを設けて頂き、協会の活動内容の紹介、募金活動、WFP紹介パンフ等の配布等々、WFPの広報宣伝活動を行ってきたようだ。今年もその具体的準備が3月16日に話し合われ、私もそのメンバーの一員として参加した(担ぎ出された)。
メンバーの中には、仕事をしながらボランティアとして駈けつけてこられる方もいて、本活動を支えていこうとする高邁な精神を垣間見、心打たれる思いがした。当日の活動に必要な資材(パネル、紙芝居、募金箱、パンフレット類、文具一式、イベントツール(風船)等々)の荷造り、発送業務を18日に手伝い21日の本番を迎えた。
21日の朝9時に磯子の同社事業場に集合し、6人のメンバー(男子3、女子3)で送付資材を開包しブースを設営。当日は思いのほか寒かったが、以前から参加されている方達の手並みは鮮やかで、短時間のうちに立派なブースに仕上げてしまった。1月にマリノスのグランドで経験したものの、まだまだ活動歴の浅い私には感心することばかりだ。
それから、16時まで昼食を除き全員は、ほとんど立ちっぱなしで懸命に活動に従事した。あるものは声をからしてパンフを配り募金を募った。あるものは風船を膨らませ剣や犬を作り上げ子供たちに配った。あるものは、子供たちを集め紙芝居を上演した。我々の活動内容は決して派手ではなく地味過ぎているが、メンバーの熱い思いが来場者に届いたのかもしれない。寒いにもかかわらず思いのほかの訪問者と、思いのほかの募金を頂いた。

世界で餓えている方達に何とか暖かい手を差し伸べなければならないと、ブースを訪れてくれた方達の顔は本当に輝いて見えた。疲れて手足が痺れ吊ってしまったが、このような輝く顔に触れ、ご苦労さんという一声を頂いたとき何とも言えない充実感を味わった。私は今日だけしかお手伝いできなかったが、これからも継続して活動しようと思った。
充実感は求めていくしかないのだ。
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■「嬉しい知らせ:神様からの贈り物」 平成24年4月20日
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20日午前0時37分、長女が子供を産んだ。
男の子で体重2850g。父親似のなかなかのイケメン。
私にとっては初めての孫で、こんなに嬉しいことはない。
この日の来ることをずっと待っていた気がする。
赤子を抱きあげるのは、おおよそ35年ぶり。
腕の中に安心しきった様で身体全体を任せてくる。
爺と分かっているに違いない。
ニクイよ君は。この世に出てから15時間しかたっていないというのに、
爺の気持ちを鷲掴んでしまった。
「神様からの贈り物」にこんなにメロメロになろうとは思いもしなかった。
早速、子守り歌の練習を始めなければ!
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■Face Book : 「Breathing is Free 12,763.3」 平成24年4月19日
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横浜トリエンナーレが閉幕となって5カ月が過ぎた。久しぶりに参加アーティストだったジュン・グエン=ハツシバの活動を掲載するFace Book : 「Breathing is Free」に立ち寄ったら、現在の活動状況のほか、ヨコトリ出品作品(さくら)制作中にGPSを担いで走りまわったスナップ写真がアルバム風にまとめられていた。
東北の被災者の方々に思いを馳せ、暑かった夏の横浜を苦しみながら走り抜いたことを思い返しながら、1枚1枚を丹念に眺めていたら、私と"松"ちゃんの激走している写真を見つけた。はなはだ恥ずかしい限りだが、我々の感動の思いが映し出されており「ひとしお」の思いがした。このプロジェクトに巡り合えた幸運に改めて感謝したい。
Face Bookには下記から入れます。お暇なときにお立ち寄りいただければ幸いです(写真をクリックすると拡大します、ちなみに我々のスナップ写真は7月3日の欄にあります)。
⇒入口はこちらから
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■進行し始めた「誇大妄想型読書」症候 平成24年4月17日
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久しぶりに、文庫本18巻+1巻の長編小説を読破した。近年は長編ものに付き合う気は全く起こらず短編ものに限っていた。気が短くなったことや、スタミナが続かなくなってきたせいである。それなのに今回は何故19巻もの長編を読む気になったのか。理由は正直言って分からないのだが、敢て言えば先刻記述した通り「誇大妄想型読書」症候群が進行したからとしか言いようがない。
⇒「誇大妄想型読書」は「(続)アンチエージング」
に記述しました。
毎週月曜日、ボランティアの帰りに本屋による。たまたま2月の第一月曜日に本屋で目にしたのが、この本"デルフィニア戦記"であった。手に取った時から、この本はどこか古代西洋の戦記物で、長くても4-5巻ぐらいだろうと勘違いし購入してしまった。まさか、ティーンズノベルでファンタジー小説とは思いもしなかったのである。
歴史を踏まえ、リアリズムな展開を期待する小説にしては、作家の矛田砂胡氏に聞き覚えがなかったので新進気鋭の作家だと思った。読み始めてすぐに違和感を感じ、これが自分が思っていた戦記物とは違うことに気付いたのだが、今まで手出しを避けていたファンタジー小説の面白さに嵌ってしまったのである。思えば、この手の本に関しては食わず嫌いだったのかもしれない。子供の頃に漫画などの世界に夢中になったことが思い出され、この歳になって改めて突き付けられたことで、この手の本の本質的な面白さに気付かされたのかもしれない。
とにかくストリー設定が素晴らい。冒険小説であり波乱万丈の異世界伝記小説とも言え、ファンタジック嫌いなオヤジ読者でも引き摺りこませてしまう面白さがある。一気にのめり込み、先日気がつけば18巻+1巻を読破していたということだ。
それにしても、信じ難い行動になったものだと思う。もっとも最近の私は、シュルレアリスムにかぶれ、なおかつ、自分のその時の気分に応じた役割りを仮想現実の世界に誘(いざな)う小説に傾斜し、自分の今までやれなかった願望の成就を楽しむという、「誇大妄想型読書症」の進行とが相乗的に作用したのであろう。
今、ハイテンションの気分に浸っているがその後の反動を考えると、もっと多くのファンタジー小説を見つけなければならないのかもしれない。ティーンズノベルであることは読み終えるまで気がつかなかった。苦手とは言わずに、どうせ還暦を過ぎ一巡したのだからティーンズの世界にも堂々と入っていこう。そのことで「誇大妄想型読書症候」がますます進行するに違いない。
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■「山田五郎 横浜美術館コレクション・フレンズ・トーク」 平成24年4月10日
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山田五郎氏による「横浜美術館コレクション・フレンズ・トーク」が、4月10日横浜美術館で開催された。本トークの案内には、山田氏が横浜美術館が国内最大の規模を誇るシュルレアリスムの作品群を所蔵していることに着目し、ダリの作品に隠された愉しみ方などをわかりやすく解説します、と記してあった。
昨年、横浜トリエンナーレのボランティアに参画した時に、シュールレアリスムとは何か、ということについて興味を掻き立てられたので、ダリの話を聞くことで理解が深められるのではないかと思い本トークを聴きに行った。勿論、TVで見かける山田氏にも大いに興味があったからでもある。
「ダリの作品についてお話しする前に」と断りを告げられ、シュルレアリスムとは何かについて解説を始められた。聴衆は200人、横浜美術館のレクチュアーホールは満員。恐らく大方の方は芸術に関してはそこそこの知識をお持ちのようで、私とは異なりシュルレアリスムについては先刻ご存知に違いないないのだが、氏はあえてこの一番基本的なことからお話し始めたのである。あたかも、芸術的素養の全くない私に焦点を合わせて頂いているように思われ、誠に幸運と言わざるを得なかった。
「シュル」とは、○○の上という意味、だからシュルレアリスムとは「現実の上」ということであり、「超現実主義」と訳されている。との軽妙な語り口による解説に、なるほどと引き込まれていく。「超現実」とは、夢の景色の様なもの。夢の中で見るものは、現実以上にリアルだが現実ではありえないものである。超現実ってそんな感じかなぁ。
現実を超えたものを視覚化していくことでシュルレアリスムとしての作品ができるのだが、その描き方(表現の仕方)にオートマティスムやコラージュ、フロッタージュがある。と解説は続く。
オートマティスムとは、心理学用語で「自動筆記」と言われ、自分の意識とは無関係に描く動作を指すこと。夢うつつで意識の朦朧とした状況、もっと言えば薬物でラリっているような状況、さらに言えば何かに取り憑かれている状況下で自分の意識とは無関係(無意識)に描がいていくこと。だからそれは、美意識や倫理といった意識に邪魔をされないで描かれたものになるらしい。早い話、夢で見ているあり得ないこと(心の中の願望や不安など)を、まるで現実のことかのように表現しようとするのがシュルレアリスムなのだと聞こえる。なるほどなるほど、素養のないものを頷かせる解説に目から鱗が落ちた。
ここまでの解説に、本日の持ち分60分の半分を大きく超えていた。話がとにかく面白い。ずんずん引き込まれていく。そしてこれからが本番のダリの話なのだが、この分でいくとどれくらいの時間かかるのだろうかと、つい余計な心配ををしながら、流れる様な解説に耳を傾けた。
シュルレアリスムの代表的画家であるダリ、本名サルバドール・ダリ。幼くして死んだ兄がいて、同じ名前サルバドールと名づけられたことで、少年ダリに大きな心理的影響を与えたらしい。から解説は始まった。
彼のカイゼル髭が象徴するようにかなりの奇人だったようだが、内面はとても小心で彼をシュルレアリスムを代表する画家に押し上げたのは、彼の妻ガラだったそうだ。彼女は彼の女神であり、彼の全てであったらしい。彼女の死後彼は激しく落ち込んで絵画制作を辞めたとのことであるが、一世を風靡した力量は今に伝わっている。と説く。
彼の妻を射とめる話、もともとポール・エリュアールの妻だったガラと強く惹かれあい、結果横取りしてしまったようだが彼女は魔性の女とも言われていたようで、ダリ自身が最後まで安心できなかったというぐらい支配されていたとのこと。彼女と一緒に上り詰めていく中で、商業的・金儲け主義と揶揄されるなど波乱万丈の生き様が語られた時に、何とも親しみを掻き立てる作家かと思った。
この間のダリと妻や仲間との関係を、下世話なことも含め微に入り細を穿つ話は絶品。とてもここでは記述できない。 これほど洒脱で軽妙な解説を聞いたことがなく、すっかり山田氏に嵌ってしまった。横浜美術館の館長が最後に、学芸員にはこのような話は出来ないだろう、異なった視点からの解説はとても興味深かった旨の感想を述べられたように、素人の聴衆を飽きさせずぐいぐい引っ張りこんで、気がつけばシュルレアリスム・ファンにしてしまう山田氏の博識、トークに不思議な感動を覚えた一日となった。
作品を見て、すんなり理解できるものはほとんどない。カオスにしか見えないものが多いが、習いたてのシュルレアリスムを愉しむことを試すために(無理して愉しむつもりはさらさらないが)、美術館に足を運ぶのも悪くないと思った。
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■「Back to the Past 2:古巣甲府でのOB会」 平成24年4月6日
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4月6日は、先月に続き今年2回目となる甲府詣でとなった。甲府での工場勤務を終え復帰してから15年間、私的には一度も訪問する機会がなかったのだが、今年は2回も訪問を重ねることとなった。1回目の訪問については既に報告の通りだが、今回は工場勤務時の職場(総務部)のOB会に出席するために訪問したのである。もともと本会は、昨年の同時期(信玄公祭り開催時)に計画されていたのだが、大震災があったので今年に延期したため、今年は奇しくも2回の訪問となった次第である。こういったことは重なるものらしい。
集合したメンバーは10人。歴代の部門責任者が初代から3代(私は3代目)まで3人が東京方面から駈けつけ、会社設立時に携わった仲間7人と15年を超える熱き再会となった。我々の容姿を容赦なく変えてしまった時の流れが、一人ひとりの顔に刻み込まれた年輪に象徴され、「白日の下にはとても晒(さら)せなくなってしまった」と洩れ出でた呟(つぶや)きに、15年という時の経過が表徴されていた。
思えば17年前、私とは20歳以上も離れた仲間と共に喧々諤々と議論をして、会社を支える総務部門を目指していた。私を除けばみんな若く、顔には情熱が漲(みなぎ)り(勿論皺など1筋もなかった)、活気に溢れていた。私はどれだけ鼓舞され、触発されたか分からない。本当に手ごたえを感じる日々だったことが思い出され懐かしく思った。
それから15年、交わす言葉の端々に、家庭を持ち一家の頼れる父や母となった喜びと苦労が滲み、それぞれの逞しい生き様に触れた時、物理的年齢差を超越した親近感を覚えた。当時はまだひよっこではなかったか。それが今では3人の子持ちで、幼稚園や小学校、果ては高校や大学への受験・入学に父親や母親として熱弁をふるっている。時が促す人の成長に目を見張る思いがした。それにしても立派すぎる。改めて当時の仲間たちを誇りに思った。
アルコールが回り、気がつけば我々は17年前の世界に「Bact to the Past」していた。そこでは皺が増えたことや頭が薄くなったこと、さらには子供や夫や妻のことなどから解放された純粋無垢な仲間による、昔と少しも変わらない職場が現出し、タイムスリップした良き時代を満喫することが出来た。そして昔とちっとも変らない仲間の語りや笑顔に、17年を超えて伝わってくる暖かで確かな友情に改めて感動を覚えた。
このような感動は、「あの人々」と「あの時」に「あの場所」で出会わなければ成り立たなかったに違いない。であれば、これからもこのような幸運な巡り合わせを大事にしていかなけらばならないのであろう。来年も再来年もずっとずっと続けていきたいと思った。それは、見えざる甲府の女神の意図に沿うことなのだから。
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■「爆弾低気圧下に出かけたボランティア」 平成24年4月3日
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3日、日本海で急速に発達した低気圧(970HP)は、台風並みの威力を発揮し日本列島を縦断、横浜もご多分に漏れず暴風雨の洗礼を受けた。当日は、国連WFPでのボランティア活動が予定されていた。当年度はこの活動に傾注していこうと思っていたので、新年度早々に本活動にアサインされた巡り合わせを幸運に思っていた。ところが、前日の天気予報によれば、相当に荒れるので外出等を控えるよう注意を促しており、とてもボランティアに出かけられるような雰囲気ではなかった。折角の幸運もフイになるのか、と、つくづくツキの無さを恨めしく思った。
当日の早朝、休むために電話に向かったのだが、朝の天候は誠に穏やかで絶好の外出日和。ツキを落してはならずとパシフィコ横浜の国連WFPオフィスに出掛けた。オフイスでは既に2人のボランティアが待機し私を待っていた。当日の作業は会員に手紙と数種のパンフレットを封筒に詰め込む作業で、3人が組になって進めるよう段取りされていた。もし私が休んでいたら、この方たちに迷惑をかけるところであったと思いながら、自己紹介かたがたお二人のお話しを伺うと、皆さん一様に低気圧のことは気なっているようだが、約束を反古にするわけにはいかないとの思いで出てこられたようである。何とも素敵な仲間ではないか。迷惑をかけるどころか運から見放されてしまうところであった。
こういった活動をされている方達は、約束を違えず愚直に行動されることで、自分のみならず仲間にも幸運を引きよせているのではないか、そんな気がした。であれば、自分も自分のためのみならず、仲間のためにもひたすら愚直に行動しなければならないと思った。お陰さまで、当日の作業は午前中で完了した。スタッフの方達も、こんなに早く完了できたことに驚いておられた。
幸運の女神が私たちの心意気を汲み、一瞬の天候の隙間に仕事が完了するように仕組んだに違いない。そして、私たちを暴風雨の洗礼を受ける前に解放し、清い達成感を与えてくれたことも織り込んでいたに違いない。年度初めにしては、想定もしていなかった「爆弾低気圧」という自然のオブストラクションに遭ったが、仲間の意気に恵まれ、ツキを落とさず上々の滑り出しが出来た。
今年度はWFPの支援活動に掛けるしかないだろう。
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