ほんなら・・・
  ほんでも・・・


 34回目 

    『気楽な旅行者には
    ”時間そのものを忘れさせる島”
    だった』
             前編

       ・・・・・2005年4月3日・・・・・

 目の前にサンゴ礁の海が広がる小中学校に通ってみませんか。(2010年1月27日UP)

 鳩間島では、地元の鳩間小中学校に通う海浜留学生を受け入れています。
 海浜留学生は島の住人が一定期間預かる形となり、島の人たちと生活をともにしながら学校に登校します。
 エメラルドグリーンの海を目の前に臨む学校は、集落から歩いて数分のところにあります。
 勉強や運動はマンツーマンに近い少人数制で行なわれ、小中学校の先生が親身に指導をしてくれます。 
 環境が変われば、子供たちもまた変わります。
 登校拒否やイジメなど、さまざまな理由で地元の学校に馴染めなかったたくさんの子供たちが、これまでに島の海浜留学制度を利用し、鳩間小中学校を卒業していきました。
 あなたも、鳩間島の小中学校に通ってみませんか。

     
海浜留学制度の詳細についは、通事建次さん
   (TEL.0980-85-6166)宛までお問い合わせを。



 三月一日、ムック誌が入荷した。
2005 琉球ブック もっと深く感じる沖縄へ・・・八重山離島紀行』と題したものなので、近頃よく出版されている流行としての”沖縄モノ”ムック誌と思い、あまり見る気がせずにいた。
 三日ほどして何となく表紙を視ると右下に”鳩間島”の文字が眼に。
急いで読み始め、執筆者名を見ると羽根田治さんだった。



『2005 琉球ブック もっと深く感じる沖縄へ 八重山離島紀行』 2005 琉球ブック
 もっと深く感じる沖縄へ
 ・・・八重山離島紀行


 山と渓谷社

 2005年4月1日発行

2005 琉球ブック もっと深く感じる沖縄へ・・・八重山離島紀行


 生理的に嫌悪感を持たず、何がしかの心地良さを八重山に感じた者は群島の内の何処かの島に思いを寄せるようだ。

 例えばリンクのページに”雨男通信”さんを貼っているけれど、管理者の雨男さんは波照間島に一番憑かれているらしい。

88年以来、年に二回程度のペースで波照間島にいっておりますので、
・・・(雨男さん)
今、2001年ですから、26回も・・・・ひぇ〜ぃ!!そこまで、波照間島に行かせるモノが雨男さんには有るのですね。
住む気はないのですか?』

・・・(阿呆坊)

いえ、24回ぐらいではないかと・・・いずれにしても異常な数値ですね。
波照間に惹かれるというよりは「ニシの浜」に惹かれているという感じです。
「住む」という気持ちは「今は」ありません。
沖縄に住むという行為がいかに難しいか、知れば知るほどよくわかりますので・・・。

・・・(雨男さん)

 ムック誌に載せられている八重山群島九島の内、小浜島・竹富島・パナリ
(新城)島を除く島々を廻ったのは三十年ほど前一九七三年九月末から十一月初は先島諸島、一九七四年二〜三月と、翌年の五〜六月は石垣島と鳩間島)の事で、もっとも心に深く残った島は鳩間島だった。

 ”鳩間島”を執筆した羽根田治さんは島への思い以上のモノを感じ、島の中学教師だった女性と結婚し島で暮らすようになる。
 彼の文章は、何処までも島に対する愛情をもとにして書かれているように視える。

 翌年、再訪した八重山で、しごく真面目に生活の拠点を八重山で、と考えた。
 しかし、石垣島にせよ、与那国島にせよ、波照間島にせよ、勿論、鳩間島もだが、波長が合う事とそこで暮らす事を素直に結びつける事は臆病者の私には出来なかった。

 一介の旅行者だった者としては、島そのモノに対する愛情を持つ事などほとんどなく、ただ単に島に行った時の自分自身を愛しているにすぎない。

 
でも、澄み切った青空と碧い海を目の前にして自己を
透明化出来た
(ように思っているだけかもね)鳩間島はいつまでも自己愛を通して気になり心に残り続ける。


『沖縄の孤島』  沖縄の孤島

 朝日新聞社 編

 朝日新聞社

 1969年11月20日 
 初版発行

沖縄の孤島


 手にしたのは、一九七五年七月。

 沖縄が本土
(祖国)復帰したのは一九七二年(昭和四二年)五月十五日。
 本書は一九六九年八月十五日から夕刊に十四回連載されたものを素にしたものらしい。

(復帰への過程については、第七回『アイヌモシリ』で記した小熊英二さんの『”日本人”の境界』が詳しい)

 鳩間島は全四ページ。
内写真が三ページで四葉。


 八月一日、ツノマタ漁解禁後の取材だったからだろうが、漁の白黒写真が一葉、色彩写真が二葉。

 ツノマタ漁解禁には程遠い時期だったが「〇〇〇〇が取れ、大阪の薬屋が買う」(漁業組合長の大工定一さん)と言われたものの、〇〇〇〇が”ツノマタ”だと解らず、道修町辺りが浮かんできただけだった。

 記憶違いなのか「昨年、コンクリート製桟橋が出来た」(大工定一さん)と言っていたように思うが、載せられているコンクリート製桟橋と変わらないようだ。
 ただ、二回目
(一九七五年)の時、この桟橋の上面コンクリート板の一部が陥没していたのは台風の為なのか工事に手抜きが有ったからなのか?

 浜のサバニ
(くり舟)は基本的には変わらない
写真では手漕ぎ船だが、原動機が取り付けられていたように思う。


 残る一葉は白黒写真で、島唯一の商店。
 商店の屋根は瓦屋根だったような気がするが、写真では本土で言う萱葺き。
(勿論、萱ではなくてクバ葺き
 入り口の石垣から右に写る木と屋根から下の店舗部は、撮影時から五年程経って視た記憶と変わらない。

 店の前を横切る鉢巻・褌姿の男が一人。
 鳩間島を担当した写真部員さんは、漁師さんが店の前を通り過ぎる一瞬を撮ったものをあえて選んだのだろう。
 クバ葺きの屋根はまともな状態ではなく、人の頭で言えば虎刈り。
 その意図が、
『ここでは月末までつづくこのツノマタ取りと、九月から始るイカ釣りが年間の大きな現金収入。男たちの目の色が違っていた』を強調するものであるとすれば作為的すぎるように思える。


 本文によると、新聞掲載時の半月ほど前、島に電灯がついた。
 数年前から琉球政府に陳情を続けてきたが、電気導入法の最低基準八十戸に満たない三十七戸の島に発電機をもたらしたのは、米国弁務官資金による現物給与だったとか。

 
『「復帰に反対はしないさね。だが日政(日本政府のこと)が何をやってくれるというのかね」そういって、一様に首をかしげる。形より、いま生きてゆく問題の方が切迫しているというのだ。そしてある主婦(五六)は、こんな風にもいった。「弁務官資金でいろんな施設をつくってもらってからでもおそくはないよ」・・・ことばに、本土にいては感じられない実感があった。』
 ここには、生き抜く為のしたたかさを見て取れる。

 朝昼夜の一日三回の時間発電だった。
 うろ覚えだが、朝は六時頃から八時頃まで、昼は十一時頃から十三時頃まで、夕方の十六時頃から二十一時頃までが発電時間じゃなかったかなぁ〜。
 間違っているかも知れないが、いずれにしても数時間ずつの発電だった。

 電気代がもったいないので必要のない電灯を消すと、民宿”まるだいさんの大将でもある大工定一さんが「消さなくても良い」と言う。
 聞くと、冷蔵庫が一台、蛍光灯が五本のように申告した電気器具で決められた契約なので「電気を使っても使わなくても電気料金は同じ」だとか。

 発電機は工事現場にあるような自動車用ヂーゼル機関の発電機で、電気料金の支払いからすれば、定常運転なのでほぼ燃料消費量は決まっているのだろう。

 桟橋に船が着くとドラム缶二本(だったと思う)の発電機用燃料が下ろされ、桟橋から島中央部に向かう整地されているとは言い難い一本道を登って行くと左手に発電機小屋があり、そこまで島内で一台しか見た事がないリヤカーに載せて運ぶ。

 滞在して数日後、船が着く時”まるだい”さんに居た。
 大工定一さんが私を見るなり「〇〇〇〇、手伝え」と言う。
桟橋まで行き、荷を
運んだり、燃料のドラム缶を運ぶのを手伝った。
 旅行者とは言え、若者の”力”を
・・・(と言っても、体力の無さには自信があるので、足手まといにしかならなかったかもね)・・・使うのは当然だと思った。
 以後、島一番の高台、灯台のある中森に居て船が来るのを見ている時は急いで桟橋に向かった。
 しかし、北の浜に居る時などは船が来ても判らないので、荷を降ろす手伝いを毎回必ずしていたわけではない。



 中森でボケ〜と昼からしていて、発電機の排気音が聞こえ出す。
「そろそろ、戻って夕飯にするか」
 寝転びながら本を読んでいて、排気音が止まると、電気の灯が少しづつ暗くなりポッと消える。
「寝るか」
 朝、眼が醒め起きようかもう少し横になっていようかと思っていたら、排気音が聞こえ出し、部屋の電灯が点き始め、テレビの音が聴こえ出す。
「起きるか」
 時計を持って旅行しないので、鳩間島では発電機の排気音が、時を知らしめるものの一つだった。

 静かな島だった。

 他の本によると、海底送電が竣工したのは一九八三年。


『海原の里人たち  八重山諸島聞き書き記』  海原の里人たち
  ・・・八重山諸島聞き書き記


 下嶋哲郎 絵・文

 理論社

 1978年6月 
 初版発行

孤島海原の里人たち・・・八重山諸島聞き書き記

 手にしたのは、一九七九年一月。

 一九七六年の秋から一年間、奥さんと五歳と二歳の子供と共に石垣島・川平村で
『きびしい風土の中に根づいている「島の民話」を掘り起こすため』『それも、昔語りの民話ではない。生活の体験を聞き取』る為に『「本当の話を聞くためには現地で暮らしてみなければ」と、腰をすえた』下嶋さんの視点は当然の如く鳩間島では”水”と”鳩間節”の話になる。


 現在でも毎日、西表島から船で水を運んでいるほどの島だが、運んで来れば井戸から水を汲み上げる苦労がなくなったから、老婆は「楽になった」と言う、と本文に書いてある。

 滞在中、この井戸に行ったのだが「これが、井戸?」だった。
こんこんと湧き出てくる井戸には程遠く、窪んだ洞窟のような所に溜まり水が見える程度の暗い”井戸”だった。
 天秤の両端に一斗缶を吊り下げ、一斗缶一杯になるまで容器で汲み上げ、井戸端まで登り降りする女子供を思うと、老婆の言葉の意味が実感として分かる気がする。

 水不足ではなかったのか、季節的なものなのか、見落としていたのか、西表島から水を運んでいる舟を見ていない。

 ”まるだい”さんの横の道を挟んで、もう一つの井戸があったように思う。
 その傍にはかなり大きなコンクリート製の水槽が地面に埋め込まれていて天水を溜め込んでいたと思う。
(井戸と受水槽をごちゃまぜにしているのかなぁ〜?)

 ”まるだい”の小母さんが、お風呂の水をこの水槽から釣瓶で汲み上げているのを見て手伝わずにいられなかった。
 まぁ、風呂好きではないので毎日沸かしていただいて入る気などさらさらなく、数日に一回の頻度で入っても「記録に挑戦」とばかりに洗面器三杯で頭から足の先まで洗ったりし、気楽な旅行者として擬似的な水不足遊びを楽しんだ。

 家の周りには、ドラム缶・水がめ等が数多く置かれ、屋根に降る天水導管で溜めれるようにされていた。


 他の本によると、西表島からの送水管が完成したのは、一九八十年。


鳩間節
    (喜舎場永c 著 『八重山民謡』)
一  鳩間中森(ナカムリ)走リ(パ)(ヌブ) 
   クバヌ下ニ 
パリ登リ



二  カイシャ 生
ム)イダル 岡(ムリ)ヌリバ  
   チュラサ 列リタル 頂(チイジイ)ヌリバ



三  マンガ南端(パイバタ)見渡シバ
   浜ヌ見ルスヤ 小浦(クラ)ヌ浜



四  小浦
(クラ)ヌ浜カラ ユル人(ピトウ)
   ウラヌ前ヌ 人心(ピトウグクル)



五  インダ 福浜(フクハマ) 下(シイザ) 離(ハナリ)
    
舟浦地(フナウラジイ)ヤカ マシィヌ地



六  舟浦人ヌ 見(ミ)ルミン  
   上原人ヌ 聞(シイ)リミン



七  稲(イニ)バ作リ ミヌラシ
   粟バ作リ ミキラシ

八  前(マイ)(トウ)ユ 見渡シバ
   往
(イ(アニ) 来ル舟面白(ウムシル)


九  ナコシャル舟ドゥ通(カヨ)ウダ
   イカシャル舟ドゥカシャラリカ



十  稲
(イニ)(チインチ) 付ケ 面白ヤ
   粟
バ並(ナ)付ケ サティ見事
(ミグウトウ)


十一 上原ヌ走リクバ
    アディンガーヌ殻
(ガル)神酒(ミキ)ヌマシ



十二 舟浦人ヌ走リクバ
    
(ハモウリ)
殻シ 酒ヌマシ
 鳩間島の中森に走り登って
 蒲葵林(クバ)の下に走り登って

 美しく林立している頂上のクバ林よ
 立派に並列している頂上のクバ林よ

 対岸の西表島を展望すれば
 白布を敷き延べたように見えるのが小浦の浜である

 小浦の浜から通行する人びとは、ちょうど
 蔵元政庁の大路をおおような態度で歩く風情である

 インダ 福浜 下離等の地質は
 上原舟浦地方よりか地味は肥沃でかえってよかった

 舟浦人の面当てに、上原人に聞かすために
 精魂を打ち込んで開拓してみせよう

 稲を作って稔らした
 粟を作って実(ミ)きらした

 南方の海を展望すると
 新開地を往来する舟は面白い眺めである

 どんな舟が往来しているのか
 如何なる舟がこんなにあるのか

 稲を満載してくる舟である
 粟を並載してくる舟どもである

 鉄面皮な上原人が鳩間に来たときは
 樫の実の殻で御神酒を飲ましてやれ

 厚顔の舟浦人が鳩間にやってきたら
 蛤の殻で酒を与えてやれ


るだい”さんには三線(さんしん)が置いてあったが、大工定一さんも小母さんも手にした事がなかった。
二人共、弾けたのかどうか知らない。
 滞在中、テレビから流れる音楽以外、島内で音楽を耳にした事はなかった。
したがって、鳩間節を未だに聴いた事がない。

 鳩間節が有名だと知らなかった。
ひょんな事から、鳩間節を知った。

 る日、郵便局の人がセメントを型に入れて固めた標柱のような物を作った。
 そんな事を知らない私は、大工定一さんが「〇〇〇〇、手伝え」と言い、「何かいな?」と小父さんについて郵便局に行くと、標柱とリヤカーが置いてあった。
これを灯台まで運ぶと言う。
 四〜五人の男で行ったものの、ドラム缶よりも軽いとは言え道の悪さと勾配から何回も休み休みして運んだ。

 地面に建ち上げて固定されたこの標柱の側面に、鳩間節の出だしが彫られていた。

 人頭税貢納の為、隆起珊瑚礁の島故に水田がなかった鳩間島は、鳩間水道(海峡)を挟んだ対岸の西表島・上原と舟浦地区の荒れた田地を借り受けさせられ、稲作を行った。
 鳩間人の田地は豊作だったけれど、上原・舟浦人のはそうではなく、彼らは「神の祟り」だと言い出し、田地の返還を強要した。
 新たにインダ・福原・下離の土地を開拓したところ、この地は肥えていて返還した土地よりも収穫が多かった。



 
『この歌は水がない地の人びとに米を貢納させるという無茶から事を発した、農民同士の悲しい争いの歌と解釈した方が現代的といえるかもしれない。』


 石垣島で他の島に渡るまでの船待ちは、石垣市内の二軒あるJYHを当初利用していたが、その後は港に近い裏道にあった民宿”砂川荘”を利用していた。
「明日から二〜三日、宮古島に行ってくる。出来れば池間島も・・・」と小父さん小母さんに言うと「八重山は温厚だけれど、宮古は気が荒い」
 そう言えば、地元の人も旅行者もよく「宮古は気が荒い」と口にしていた。
 旅行者は行った時の体験から来たものなのか、誰かに聞いたのを受け売りしてなのかどうか知らないが、少なくとも八重山で生まれ育った民宿の小父さん小母さんが宮古を嫌うには何らかのモノがあるのだろう。

 南紀和歌山には敬語謙譲語がない。海からの恵みで生計を立てている漁師さん達からすれば、板子一枚地獄の仕事場でのんびりと言葉をかけていては仕事にならない。
 言葉は端的にならざるを得ない。

 本島の糸満は有名だが、宮古にしろ八重山にしろ”海”を舞台に生きている。
 話す側にはその気がなくても、聞き手側からすればキツイと受け取る言葉は多い。

 加えて、琉球王府時代、地政的に八重山と王府政庁の間に挟まれ権力闘争に翻弄され、その後、琉球王府の流刑地になるなども関係するだろう。

 個々の島々・地区・地域には根っこは同じであれ、それぞれの文化が綿々と守り続けられてきた。

 文化と文化の対抗意識で、何かと取りざたされる那覇と首里・・・
(波照間島で那覇出身の若い県庁役人が現地視察に来ていて「本島では、コザで船待ちしている」と言うと、ケッ!と言う顔をして一言「あの、金持ち町!!」。時はまだAサイン・バーもあり、在日米軍が落とす銭はコザの町の一大産業だっただろう。七十年代初頭に本土の国立大を卒業し、那覇の県庁に奉職した彼からすれば”コザ”は色々な意味で「許されない町」と見ても仕方ないのかも知れない。これも、一方の視点から来た一種の”対抗”だと思う)・・・。

 どう見ても農耕民族ではなく、風土的には琉球民族は海洋
(狩猟)民族だろう。
 ましてや、厳しい自然の中で自分たちの文化伝統を守り続けながら暮らして行くには、排除・排他的なモノを持たなければ侵略されるのがおちだっただろう。

 地縁・血縁の重さが各々の島を、島の文化を、そして自分達を守り、形作る。
 それが生き延びる為の知恵だった。

 だから、宮古は必ずしも血の気が多い人々が暮らしているとは思えない。
その時そう思った。

 下嶋さんの視線からずれてはいるが、圧制政治からとは言え、悲しい争いの歌にしなければ、自分達の”島”を守れなかったのだと思う。


 下嶋さんが渡島した頃の人口は四十一名。十七世帯。
 『かってはカツオ漁とスルメイカ漁でにぎわい、それが敗戦直後まで続いたという。』

 
大工定一さんは「鰹工場があり、鰹を加工し鰹節を作っていた」と言っていたと思う。
 そうするとかなりの重労働だったろうし、西表島での田地作業もあれば、芭蕉布を織り、水を汲み出し、ツノマタ取り、燃料としての薪も取らなければならなかっただろうから女も子供も休む暇もなく働いていたのだろうし、島には人が満ち溢れていたのだろう。


 『当時は百二十八戸、七百名もの人口を数えた』

だが
『今は道で人に出会うこともない。』

 一回目の渡島は二週間近く(これは、石垣市・民宿砂川荘の小父さんから電話が入り「島内の全学校へ給食のパンを運ぶ仕事を、俺の変わりに一週間ほどして欲しい」と言われて戻った為、滞在を短縮)二回目は一ヵ月近く(これも、もう一週間ほど居るつもりだったが、前に来た事があると言う同年輩の女性二名が滞在を始めたので、それまでの気楽さが失せてしまい、数日後に寄港した船で島を離れた)滞在したが、集落を通り抜けて歩いていても確かに人に出会う事はなかった。
 そして、多分、数回見ているのだろうけれど、記憶として残っている島の子供は一度だけしかない。

 会話にしても、元々社交的でない私なので余計にそうだったのかも知れないが、大工定一さんと小母さんは別にして、公民館長と聞いていた鳩間さんとは一度だけ「何処から来たのか」「大阪です」ぐらいの会話。
店の小母さんとは買い物の時に。
 郵便局の局員さんとは、一度切手だったかを買いにと、標柱を運んでいた時。
 これぐらいしか島の人と言葉を交わしていない。


『沖縄 聞き書きの旅』  沖縄 聞き書きの旅

 下嶋哲郎 著

 刊々堂出版社

 1983年7月26日 
 初版発行

沖縄 聞き書きの旅

 手にしたのは、1984年10月。

 海原の里人たち・・・八重山諸島聞き書き記』の姉妹本と言える本。
 『鳩のいる島』『車はリヤカー一台』『雨水が生活用水』『名物のヤシガニ』『全生徒三名は皆兄弟』が内容の四ページ。
 下嶋さんの西表島と鳩間島の位置関係イラスト一ページ。
 写真は、西表島を遠景にして学校の校庭の木の横で遊ぶ二人の子供と、鳩間水道
(海峡)から見た島の全景と、石垣港と西表島・白浜を結ぶ定期船鹿島丸へ向かう艀(はしけ)の三葉。


 『鳩のいる島』
 鳩間
(ハトゥマ)と言うからには鳩が多くいる島なのかも知れないなぁ〜と渡島前に思っていたが、鳥に興味がないので居たのかも知れないが視た事も鳴声を耳にした覚えもない。

 本には
『鳩がたくさん棲んでいたので鳩間島と名付けられたといわれています。』と書かれ、”オーボート(アオバト)””オーボゥトウ(ズアカアオバト)”チンボウトゥ(リュウキュウキンバト)””ヤマバト(リュウキュウキジバト)”と種類を並べ、西表島舟浦湾内にも鳩離(ハトゥバナリ)と言う島があるとも。

 別の説では、波照間島の「果てのうるま」、これは柳田国男著『海南小記
(角川文庫)に書かれたハテウルマ=”琉球の果ての島”や、他説のウルマ=珊瑚礁で、”果てのサンゴの島”に似た『<鳩間>の語源は<ハテマ>だとする学説がある。つまり辺境の島空間を意味する島名である』(次回に載せた『子乞い』より)がある。

 
『鳴声を一番耳にできる鳩はオーボゥトゥです。ポーポー、ポッポーポー、と山の中から、原生林の中から聞こえてくるのを聞くとき、仙人か世捨て人がのんびりと、また哀し気に尺八を吹いている、といった気分にさせられます。』

 「ハテマ」にせよ、「のんびりと、哀しげに尺八」にせよ、イメージとしての”厳しい孤島”なのだろう。
 だが、滞在中「厳しい」は想像出来ても「果て」=「辺境」や「孤島」はほとんど感じなかった。
 一九七三年二月、陸路がなく増毛港からの船でしか行けなかった、寒風吹きすさぶ中での北海道・雄冬岬の集落ほどには・・・。


 『雨水が生活用水』
 
『人々は一日の汗を海で洗い、真水でしぼった手ぬぐいでふくのです。』『風呂場へ行くと「風呂に入らないでください」と札が下がっていて面喰らいますが、これは「身体をふくだけにしてください」と言う意味です。

 これを先に読んでいれば、置いてあった石鹸を使わず、洗面器三杯もの水を使わずに、”気楽な旅行者として擬似的な水不足遊び”を楽しんだのに・・・。
 この札は見ていない。


 『名物のヤシガニ』
 民宿が一軒しかないと書いているが、下嶋さんが渡島したと思われるのは一九七六〜七年。

 渡島前、石垣島で耳に入れた話では「鳩間島に民宿は、有る」だった。
それ以上のモノは何も出てこなかった。
 例えば、波照間島ならば「民宿は三軒。○○はどうたらで、☆☆はこうたらで◎◎は・・・」と屋号とその特色が聞けた。

 西表島・白浜と石垣港を結ぶ定期船は途中の鳩間島に荷物・人があれば寄港すると聞いたので、それに乗ろうと港に行ったが、出港には三日ほどあり、「西表島・舟浦に行くと鳩間から郵便船が来ているのでそれに乗せてもらえる」と言われ翌日に乗った。

 舟浦に着くと、目に飛び込んだのは「ヤマネコが大事か 人間が大事か」と大きく書かれた立て看板だった。
 これは、東部地区と西部地区を結ぶ道路がなく不便を強いられていたところからの地元民からのメッセージだった。

 漁師のオッサンそのものの小父さんがそこにいた。
郵便船は本土の漁港に停泊している小型漁船と同じものだった。

 少しずつ近づいてくる鳩間島は”ひょっこりひょうたん島”に視えた。
それは私を喜ばせた。

 島内には”観光案内図”なんてあるはずもない。
 隆起珊瑚焦の島だからハブはいないと聞いていたので、自分なりの地図を作る為に、翌日から道のような道でないような所を歩き廻ったり、海岸線をグルリと歩いたりしている時、むらがガサガサするので視てみると”ヤシガニ”だった。

 下嶋さんがお世話になった民宿の小父さんは、ヤシガニが嫌いだそうで獲ってきたのを小母さんに茹でてもらって食べていると嫌な顔をした、と書かれている。
 私は捕る気がしなかったので、鳩間島では喰べていない。


『全生徒三名は皆兄弟』
 (次回に載せる本は『子乞い』からなので学校については略して)
 『住民が三十人ほどのこの島には、本土からふらりとやって来ては住みつこうとする若者たちが絶えません。一部ジャーナリズムが、「土地もタダ、君も南海の楽園で生活してみないか」などといった調子で呼びかけているせいです。』
 『しかし、島の人にしてみれば、この島では生活が苦しいので』
 『島を出ていくわけで』
 『それにタダの土地も家もありません。』
 『宿のおやじさんは元区長ですが、かなり強い口調で批判しています。』

 (ここは同音異句の、駄洒落ですね)

 『こうしたことが積み重なって、神聖なる場、獄の入口に、「この神域に無断で立ち入った者には何の保証もしません」と、少々ぶっそうな立札をださせる結果ともなっているような気がするのです。』

 立札はまだ立てられていなかった。
 しかし、白状すると、沖縄行の前に「聖域には近づくな!」と知っていたけれど、渡島して散策中、サンクチュアリ(聖域)に入っている。
 
 明らかに「此処だ」と解る処は”悪意”を持って入ったのだけれど、他の聖域は
(三ヵ所ぐらい視た)そこまで行って初めて「宗教的施設ぽいなぁ〜」と思った。
 まぁ、まさか民宿に戻ってから小父さんに訊くわけにもいかず・・・おくびにも出さなかった。
 ただ、二度と行ってはいない。

 二回目の滞在時、船が寄港し三人の大阪弁を話す男達が降り立った。
彼等は何処ともなく歩き出して行った。
 数時間後、石垣に戻る船が寄港し、男達はそれに乗った。
 船が出た後、いつもの裏の部屋に居ると小父さんが怒った顔で「○○○○!! ☆☆☆☆に行ったか!!」と言う。
 ☆☆☆☆は何処なのか判らないので「何処ですか?」と聞くと、明らかに解る”聖域”だった。
 「お賽銭が置いてあった。あいつらが行ったんだ!!○○○○!お前は行くなよ。行っては行けないよ」
 滞在中に視た唯一の怒った場面だった。



 船の名前を下嶋さんは”鹿島丸”と記している。
そう言えば、そんな名前だった気がする。

 沖合いに停泊した鹿島丸に、季節・風・潮等々の関係からか、艀が往復するのを見ていない。

 ただ、灯台から視ていた時、いつもは速度を落とした後、珊瑚礁を避けて蛇行しているように見える船が、この時は水路を微速前進しながら進んでいたのだが、船首にいた乗組員の指示でも有ったのだろうか、停止した後、寄港せずに西表島・白浜に向かって行った事があった。
 この船は帰路に寄港したが。 


 一九八八年から八重山行を続けている雨男さんは、二千二年九月のメールに
過度な表現かもしれませんが、60年代後半〜70年代は島の行く末に関しては孤島に暮らす人々に対する好奇しかなかったように感じられます。
 そして、このあとに「子乞い」(80年代)、その後が「パイヌカジ―」(90年代)とつづく・・・。

と書く。

 こちらからの返信メールは、
 孤島に暮らす人々に対する好奇
(心)の見方は正しい気がするが、『しかなかったように』には少し疑問が残る。
 沖縄の孤島』にせよ、下嶋さんにせよ、好奇心から更に突き進むものを、「さぁ〜よ〜く考えてね」を文脈の中で伝えていると思う。

 私自身は『暮らす人々に対する』をかなり除いた”好奇心”そのものを持って渡島した。
 かなりと言うのは、”カルチャー”に人がいない事は有り得ないのでと言う意味。
 先島諸島は都会生まれの都会育ちの私には視るモノ聞くモノ総てが、それまで視て回った国内の”カルチャー・ショック”を上回るものだった。

 『それは、石垣島よりも、西表島で。西表島よりも、波照間島で。波照間島よりも鳩間島でと言う事で、私の中での確かに『好奇』
(心)につき従った動きです。
 ただ、妙に私は進むたびに心の平安が増していく気分が有りました。』


 次回は、私の知らない”鳩間島”を伝える『子乞い』から2005 琉球ブック もっと深く感じる沖縄へ・・・八重山離島紀行』までの本の簡単な紹介です。


ホンダ1300・クーペ9(後ろ)
35回目は後編ですが、私の知らない”鳩間島”です。


琉球犬の”かな”ちゃん  左の画像をクリックすると
琉球犬の”かな”ちゃん
のぺージに行きます。


HONDA1300イクーペ9でに乗って・・・掲示板へ。
 この車に乗って往き、
”本”の事でも、
”わんこ”の事でも、
何でも書いて
(掲示板)おくんなはれ。


ホンダ1300クーペ9の郵便車。
「お手紙は、この”HONDA1300クーペ9”で運びます」


アイコン・阿呆坊。 全面ページで見ています方に。
左の画像をクリックしますと
「表紙」へ行きます。

文責は当HP管理者に有ります。


久高島にて。 サバニと本島に沈む夕日

 鳩間島ではないが、沖縄本島に夕日が沈む久高島の浜。

 このサバニから更に数m上がった所に、三艘ほどのサバニが上げられていた。

 平底船の和船と違い、細身の船体は外洋を走行するには最適な構造だと思う。

 かっては櫓で舵を取り帆走されていたそうだが、与那国島で沖合いを走行するサバニはエンジン付だった。

 この写真ではエンジンは船体内に据え付けられているが、他の島で船外機付を見たような気がする。
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祖納にて。

 与那国島、租納集落。

 奥に見えるのは”クバ葺”だと思う。
 
クバについて)


 与那国島での出来事だが、この姿で集落を歩いている時、土産物屋さんもどきのお店があった。
 店内にはクバで編んだ団扇、大きな蛾の標本等々が置いてあり、訊くと「ヨナグニサンだよ」とか。
(実は、この”ヨナグニサン”を度忘れしていたら、雨男さんから”ヨナグニサン”だと教えていただいた。天然記念物だそうだけれど、そんなのを売っても良いのかしら?)

 盲人のお婆さんがお店に入って来て何やら小母さんと話、店を出て行った。
「何を話していたのか解らないでしょう」と言うので「まったく解りませんでした」

 根っからの方言で何一つ解らなかったのは、高校三年の時、大隈半島・内之浦近くの集落で煙草を買いに行ったお店での小母さん達の会話以来だった。

 盲人のお婆さんは郵便局を尋ねていたとの事。

 郵便局はお店の前の道を挟んだ斜め向かいにあった。
切手を買おうと入っていくと、局内にいた小父さんに「そんな格好で、歩くな!」と怒られた。
「海パンの上にTシャツ姿は、失礼だ!」との事。
つまり、下にズボンを穿けと言う事らしい。
 以後、与那国島はもとより他の島でもこの姿では歩いていない。

 石垣島で船待ち人のたまり場だった喫茶”ラセール”
(ラセーヌ?)で聞いた民宿は祖納集落の農協組合長の家だった。
 小父さんに「島の米だ」と言われ、小母さんが「美味しいでしょう」と出していただいた御飯だったが、長くて,しゃぶしゃぶ・べちゃべちゃのお米で「美味しいです」と答えたものの、口には合わなかった。



 三十五度の泡盛
(”どなん”)を同宿していた男と生のまま一瓶空けた翌朝、小母さんにえらく叱られた。
 聞くと「湯で割るなり、水で割るなりしないと身体を壊す」との事。

 翌日、石垣島で聞いていた六十度の泡盛
(花酒)手に入れようと同宿の男と酒造所に行った。
 適当に話をしたりし、お米を運ぶのを手伝ったりしたが、ガンとして「造っていない」と言う。

 後日、石垣島に戻った時「頼むと、消防署の近くにある酒造所でオリオンビールの瓶に入れてまともな栓をせずに売ってくれる」とも前に聞いていたので行き、手に入れ、飲んだが、果たして六十度だったのかどうか解らない。
 ただ、三十五度を皿に入れて燃やした炎の色とは異なっていた事と、口に含んだ時の燃えるような刺激から、少なくとも三十五度以上はあったと思う。


 ”東崎”等に行こうと思い小母さんに聞くと「このカブに乗って行け」と言う。
もちろん、ナンバー等ついていない。

 車の登録だが、本島では見なかったが
(もっとも、北部には行っていない)石垣島はさすがに少なかったけれど、他の離島ではナンバーなしの自動車は嫌になるぐらい見ていた。

 西表島には駐在所があったが
(大半と言うよりも付けていた自動車を見ていないのだが)堂々とナンバーなしの車が走っていた。
 もっとも、任期数年の駐在所勤務でこんなのを捕まえていれば、仕事がし難くて仕方なかっただろう。
 役所関係
(気象台・学校等)以外のほとんどは無登録車だったと思う。

・・・・・・・・・・・・続けて・・・・・・・・・・・・

鳩間島・沖縄航空機より。

 船で渡島せず、行きは南西航空のYS11、戻りは沖縄航空の小型機にした。

 往きに南西航空に乗ると与那国空港に着陸する際「台湾との国境の関係で着陸態勢に入り、不安定な状態でUターンして着地するので、風の関係もあるのだろうが、着地後必ずと言って良いほど蛇行するの」と聞いていた。
 確かに、飛行機は蛇行した。

 沖縄航空の料金は南西航空の料金よりもほんの少し高い
(「”うるま”代ぐらいか」と思った)のだが、なかなか乗れない飛行機と言う事と、低空飛行と言う事で景色が良く視えると言う事と、何より「一番最後に乗れ!!」だった。
 六人乗り。
(八人乗りだったかなぁ〜?)
操縦者一人を引くと、飛行客は五人。
 奥から順に座っていくので必然的に、最後の者は副操縦席に座る事になる。
 もちろん、ウダウダしてから乗ったので、目の前には操縦機器が並んでいる席に座った。
 飛行中、「これをグゥ〜ット下げたら、このペダルを踏んだら・・・パニックになるやろな」と楽しんだ。

 上の写真は鳩間島を北東から視たもの。
(沖合いの珊瑚礁が、このページの最後の方に載せている地図と同じだと、当たり前なのに、驚いた)
左上の島は西表島。
右上の白い部分は尾翼。
左下は、低翼機の主翼突端部。

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現在の民宿”まるだい” 


現在の民宿”まるだい”

 冒頭2005 琉球ブック もっと深く感じる沖縄へ・・・八重山離島紀行羽根田治さんのHPより、メールを送り「大工定一さんの奥さんが写った写真等を渡して欲しい」と伝えたところ、羽根田さんはメールを転送し、現在”まるだい”を営んでいる定一さんの息子さんの娘さん(定一さんの孫娘・東京在住)からこちらにメールが届いた。
 その中に添付されていた写真。



 桟橋に着いて「泊まる所は有りませんか?」と聞くと「家で泊まれる」と小父さんが言う。
 船をもやい、郵便袋を降ろした後、小父さんの後をついて行った所が”まるだい”だった。

 民宿を示す看板も何もなかった。
 民宿は不特定の外来者を宿泊させ、食事を提供する行為が伴うので、厳密に言えば旅館法や保健所・消防署の許認可が必要だと知っていたが、こちらが聞きもしないのに「今、石垣の保健所に届けている」と言う。
 別に届けていようがいまいが、こちらからすれば泊めていただけるだけで感謝モノだった。

 島で泊まれたのは二軒で"まるだい”と、もう一軒は滞在中に知った公民館々長・鳩間さん宅。
(自宅だったか、その公民館にだったか?)


 三十年の歳月の変化は覚えている”まるだい”と少しは異なる。
 側溝まである舗装道、ブロック塀には驚いたが、それ以上に家屋に驚いた。
 縁側や柱を含めて、手直しされているようだが、しかし少なくとも家屋全体は変わっていない。


 下の写真の右側の部屋を使うようにと言われたが、その奥にあった小さな部屋を使わしていただいていた。
 雨の日は、部屋の前にはバナナの木があり、まだ青い小さなバナナが実っているのを視ながら寝転んで本を読んだりして一日を過ごした。


 二回目の時、那覇で暮らす子供に赤ん坊が生まれたので、小母さんが那覇に向かった。
その後は小父さんと二人だった。
 初日のお昼、慣れない手つき
(かどうか知らないが)で、野菜を少し増やしたラーメンと御飯をお盆に乗せて「さぁ、昼飯だ」と持ってきた。
 美味かった。


 那覇生まれの那覇育ちだが、休みには民宿を手伝っていた孫娘さんからのメールには
私は、おじぃの酒飲み遺伝子をそっくり受け継いだらしく誇りに思ってます。。。(10歳の頃からおじぃにビール飲まされてたから・・・「コーラより栄養があるんだっ」と自信たっぷりで言ってましたから〜)』とあった。

 初日の夕食時「酒を飲むか」と聞かれた私は「飲まないんです」と即答した。

 八重山では水牛の角を杯にして飲む。
杯を置くとこぼれるので飲み干すしかない。
飲み干すと注がれる。
酔いつぶれるまで飲まされる。
 とか何とか嘘のような本当のような話を耳にしていた。
例え嘘でもそれほどの酒豪達が多いと言う意味だろう。

 アルコールに弱い私には、小父さんの問いかけは・・・恐ろしいお誘いだと。

 私の返事に小父さんは、つまらん奴だやのうポイ顔をされた。

 だからと言うわけでもないのだろうが、小母さんが居る時もだったが、那覇に行った後、家には他人の私一人なのに、毎夜、桟橋前の店に飲みに行く小父さんだった。
 行く前に「○○○○! 何かあったら、電話しろ。電話がかかって来たら、◎◎◎◎に居ると言え」
 そう言いながら、手回し式の電話器を指差した。
 発電機が止まる前に帰宅した時は良いが、あの荒れた道を酔いながら戻るのは慣れた道とは言え、いくら夜空に多くの星がまたたいているとは言え、少々、心配した。


 孫娘さんのメールには『あの頃は確かに水道や電気のライフラインが不十分で、家に泊っている若者は皆様おじぃの命令でこき使われてた事を覚えております。』と。

 よく、民宿や旅館に置いてある”思い出帳”と同じように、まだ、数ページしか書かれていない大学ノートが一冊あった。

 ライフラインが不十分だったと思わなかったし、大工定一さんだけの”益”を求めて「手伝え!」と言われた事もなく、ましてや、こき使われた覚えもない。

 かなり早い時期に泊ったと思われるので「泊る若者は、我が頼むと、動く」と学習させてしまった一人なのかも知れない。

 しかし、一種の原始共産制に近いと言われる久高島ほどではないにしても、元々、共同体意識が強くなければ成り立たなかった世界で暮らし続けていた者からすれば、”島”共同体に闖入したと言える者にそれなりの事を求める・・・目の前に居る若者の躰を、共同体・集落の為に使う・・・発想は、極々普通だったと思う。
(そして、そこには”島”共同体であるが故に、闖入者を排除する世界があるのは当然の事だと思う。)

 とすれば・・・良い事をしたもんだと・・・思う。


 泊りだして数日後には、大工定一さんを敬愛の意味を込めて”鳩間の大統領”と密かに呼んでいた。
『頑固爺』下嶋哲郎・絵

 孫娘さんからのメールに
『昔と比べると変わりました。っでも変わらない景色の方が多いかなぁ。祖父のような、頑固じじぃの姿は少なくなりましたが・・・』
とあった。

 下嶋さんに転載の承諾と確認を得ずに載せているが、この”頑固親爺”と題された挿絵は、下嶋さんが泊った民宿の位置や本文の内容から、そしてこの顔からすると大工定一さんのような気がする。

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1975年・民宿の西側。

 左の鉄釜は、鰹節製造の頃にでも使われていたものかも知れない。
右のドラム缶、左奥のヒューム管にみえる物や、写っていないが家屋の周りには陶器製の水がめ等にも水が溜められていた。


 こちらを向いている女性は、二人組で来た泊り客の内の一名。
出身は知らないが「東京と埼玉から来た」とか。
学生ではなかったように記憶する。
 一度、鳩間島を訪れて、再び来島したとか。
こちら
(鳩間島)で暮らせるものなら、暮らしたい気があったようだ。

 二回の滞在で、私以外の宿泊客は彼女達だけだった。
そして、島に来た者は前述した大阪弁を話す三人の男達だけだった。

 写真から想像出来るように、彼女達が来て、ぶっきらぼうな男が泊っているよりも何かと話し易いからだろう、手前に写っている小母さんは喜んでいた。

 小父さんは・・・・はて・・・どうだったんだろう?
あい変らず、夜には飲みに出かけていたところからすれば、「晩酌の相手にはならないなぁ〜」ぐらいで変わらなかったんだろう。

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三味線(さんしん)
獅子。(1975年) 昔と変わらない”獅子”

 左下の獅子は私が写したもの。
右は、孫娘さんが
『昔と変わらずの獅子』と題して二千四年のお盆に写したもの。


 神行事だが、

『こっちはすごく神行事が多いでしょ。やれ世願(ゆうにが)いだ、やれ雨願(あめねが)い・・・、雨乞いだ、としょっちゅうなんです。そのうえ毎月旧暦の一日と十五日には神司(かみつかさ)の御願(うがん)もある。』(次回掲載の『子乞い』より)
 とあるが、”御願”が行われていた事も知らない。

 ものの本
(沖縄関係)によると「他所者に視られてはならない」ので、どのようにしても見せないようにするらしいけれど、どう思い出してもそのような素振りはなかった。
 多分、島民がそのような行動に出る必要がなかったのだろうと思う。
 個人的には”民俗学””宗教学”等に興味を覚えていない上に、一回目は滞在して数日後
(地図作りを終えてからは)、二回目は翌日から西の浜か北の浜もしくは中森・灯台に飽きずに行っていたのだから。

 後年、岡本太郎さんが久高島で行った行動
(『怪人とマンボウ』)を読んだ時、興味を持っていなくて良かったとつくづく思った。

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セメント製標柱。 セメント製標柱。(文字拡大)

 中森・灯台横に建てられたセメント製標柱。

 因みに、灯台の所に王府時代の見張台を復元した”物見台”はなかった。”鳩間島通信”の「見所」を参照して下さい

 この”物見台”を知ったのは、二千二年夏、マギー教授助手さんが鳩間島に渡島した折の写真を見た時。


 下の写真は場所移動した標柱。

 場所は
『草むらの中に立っていた柱は北の浜に向かう道の鳩間中森を少し過ぎた左手に立っていましたよ。』(マギー教授の助手さんからのメール)

 雨男さんの想像仮説では『王府時代の見張台を復元した時の工事の過程で移設されたのではないか』

 
願わくば、三回目の渡島が出来る日が来るまで、捨てないで!!
セメント製標柱。(2002年) セメント製標柱。(2002年)拡大文字

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本島・コザの”Aサイン”

 琉球政府下、在留米軍は自国の軍人さん達の為を思い、飲み屋さんにご丁寧にも保健所のお仕事をし、衛生面での徹底チェックを行ったうえで、太鼓判を押し、”Aサイン”を店に与えた。
 だから、下級軍人はあまり行かない高級飲み屋が多かった。


 鳩間島とは関係がない内容だけれど、脱線するついでに。

 大阪からのフェリーで那覇入りし、首里に行ったが、守礼門は現在のきらびやかな装いではなく、周辺に琉球衣装を身にまとった姉ちゃんもいず、素朴なものであった。

 那覇のJYHに泊り、翌日、同宿していた者達と五人で貸し自動車を利用して中部を廻った。
(実は、免許取り消しされていたので、他の者が借りて私が運転した。初めての右側通行と、整備不良気味のトヨタ・コロナは私をビビらえた)

 中城城址はこれまた、城壁が崩れ・・・素朴なものであった。
 本部半島経由で那覇に戻り、国際通りを外れ、裏道にあった旅館
(?)に泊り、翌日コザ市に向かった。

 コザの町をブラブラ歩き廻り、簡易旅館を見つけたのでそこに泊った。
 薄いベニヤ板一枚の壁。電灯が一つ。ベット一台・・・・。
うらびれた風情。
 どう視ても”あいまい宿”

 翌日、たまたまキャンセルがあったので、大東島に飛び、一泊して戻った。

 宿の経営者夫妻の家に上がらせていただいた。
「近くに、生バンドの店があるから、行け」と言う。
ここも経営されているらしい。
 飲みたくもないが、モノは経験とばかりに夕方遅くに行った。
 給料日前だからなのか、店はそれほど混んではいなかったが、米国軍人は・・・当たり前だが・・・大きな顔をして飲んでいた。
 が、彼等は疲れた顔をしているように見えた。
まだ、ベトナム戦争は終わっていなかった。

 胡座十字路から嘉手納基地ゲートまでの通りに面した食堂で、分厚く固い肉と喧嘩しながら喰っていて、窓の外を視てみると、日本語の文字が一つも目に入らなかった。
 まるで、西部劇に出てくる田舎町の安っぽいセットのようだった。

 このアンバランスで無機質な風景は不思議と気分を落ち着かせた。
”あいまい宿”は、更に自分を無意味な人間に思えさせた。
 妙に心地良かった。

 以後、本島ではここを定宿にした。
と言っても、船待ちでの三〜四泊ぐらいしかしていないが。


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舟浦から鳩間島に向かう。

 『「波をちゃぷちゃぷ ちゃぷちゃぷ かきわけて……」。この軽快なテーマソングとともに、ひょうたん島が動き出したのは1964年4月6日。以来、この番組は1969年4月4日まで、毎週月曜〜金曜の午後5時45分から6時まで、NHK総合テレビで放映されました。
 
 海をただようひょうたん島は、ドン・ガバチョ大統領、海賊トラヒゲ、サンデー先生、博士などユニークな登場人物をのせて、ライオン王国、犬の国ブルドキア、魔女の島などにつぎつぎにぶつかりますが、そのつど皆で力を合わせてピンチを乗り越えては、また漂流を続けてゆきます……。ひょうたん島の波乱万丈の冒険は日本中の子供たちをテレビの前に釘づけにしたばかりでなく、大人からも圧倒的な支持を得ました。』
                          (『「ひょっこりひょうたん島」ファンクラブ』より)


 郵便船から視える島を視て、「こりゃ、”ひょっこりひょうたん島”やんけ」そう思った。

 上陸しても、”ひょっこりひょうたん島”ほど大きくはないが、少なくとも、白い灯台はあるし、”大統領”はいるし、共同体として力を合わせて皆で生きているように視えていたし・・・・。


 鳩間島=ひょっこりひょうたん島、と思とります。

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てきとうな自作地図。


五万分の一.地形図。

『西表北部』五万分の一 
国土地理院
一九七四年九月三十日発行
(一九二一年測量・一九六二年応急修正”琉球政府”・一九七四年修正測量
 行政区画およびその名称は一九七四年一月三十日現

 御嶽にしても、浜にしても固有名詞が有るはずなのに下嶋さんは記していない。

 集落の道はあまり歩かないようにしていたので、基本線の道しか知らないが頭の中に鳩間島の地図が出来上がるまで、三日も四日もかからない。

 後は、昼御飯を喰べたら、晴天なら店に行きクッキー一箱とコーラを買って西の浜か北の浜に行き、寝ころびながら本を読んだり、身体が熱くなると海に浸りしていた。

 寝転んでいて眠ってしまっても、潮の満ち引きで身体が濡れだすような位置、そして太陽の傾きで「そろそろ戻るか」となった。

 「何処に行っていた」と小母さんが聞いても「北の浜」とかしか答えられない。
 小母さんも名称を言わなかったので、それぞれの名称を知ったのはかなり後に見た本でだった。


 北の浜でいつものように寝そべっていると、誰かの視線を感じた。
海辺の方に足を向けていたので、首を曲げながら上げて視ると
(この浜は少し高い所から降りて行く)山羊が数頭に混じって豚一頭(だったと思う。猪かなぁ〜?)が、横一列になりかなりの時間興味深げに見下ろしていた。

 面白いので、翌日も行った。
やはり、少し経つと見下ろしに来た。

 数日続いたが「悪い奴ではない」とでも思ったのか「お前なんぞに時間を取られていては、捕食行動の時間が減るわい」と思ったのかどうか知らないが、その内に来なくなった。

 聞くと「
(島の者が)飼っていた山羊・豚だが野生化している」との事だった。

 この連中とは、もう一度会っている。
それは、雨宿りするには最適かも知れない空き家に居た。
多分、寝床にでもしていたのだろう。


 今は一周道路があるが、手書き地図を見ての通り当時はなかった。
 足を濡らさずに海辺沿いに歩けるかしてみたところでは、東の浜でどうしても1ヶ所だけ濡らしてしまう所があった。
 一周、だいたい一時間の散歩コースだった。


 一九七四年発行とあるが、購入したのはもう少し後。
二万五千分の一はまだ発行されていなかった。
 
子乞い』を視ると、浜の数は同じ七っの浜だが、位置が異なる。
でも、まぁ、手書きの地図は必要にして充分の地図だと今でも思う。


 余談だが、クッキーを買い続けてしまい、店になくなった。
 天候の良い季節だから、船が欠航する事はほとんどなかったが、もし、台風の時期等であれば島民の非常食になるかも知れないモノだと思った瞬間、現金収入の乏しい島と言えども、買い占めてしまった行為は行き過ぎだと思った。
 次ぎの船でクッキーは補充されたが・・・・。

 下嶋さんは、五年ぶりの大干ばつに行った為、米軍払い下げの布製水缶で水を持参したとか。

 水とクッキーの違いはあるが、又、下嶋さんは石垣島で暮らしていたので情報を事前に知っていた事もあるが、心構えがどえらく違うと沖縄 聞き書きの旅』を読んで思った。
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ヤシガニ

 鳩間島ではなく、西表島で捕ったヤシガニ。
 (撮影後に逃がしてやった)

 さすがに、前から捕まえるのは怖いが、後からなら普通の蟹と同じように結構楽に捕まえる事が出来た。


 このヤシガニは土で汚れていないが、鳩間島で出会ったのは汚れまくっていた。
グゥッと、躰を持ち上げた臨戦態勢の姿には笑った。


 石垣島の所々に「ヤシガニを食べないように」と書いた保健所のポスターが貼ってあった。
 よく茹でるようにとも・・・。
食中毒の心配らしい。


 波照間島に渡って、民宿の小母さんが同宿していた者達に「特別に」とヤシガニを出して下さった。

 同宿者は、
私。

 福島県出身の元造船溶接工の若い男。
退職して、台湾から石垣に入ったとか。

 沖縄県庁の建設技術者

 民間会社のおっさん。
 何をしにきているのかと思ったら、来春の中学卒業生を廻してもらおうと、遥々ここまで来ていた。
 永山則夫さんが『無知の涙
(合同出版発行・一九七一年)『・・・金の卵たる中卒者諸君に捧ぐ』と書いている。
 島根県の企業だったと思う。
本土の過疎県が、更なる過疎県の最果てまで・・・「凄ぇ〜」と思った。
 聞くと、一年の殆どは「こうして、各地の中学を廻っている」とか。

 熊本県から来た日本人の伝道師さん。
 この人の福音船
(小型漁船の船倉を部屋に改造してあった)のおかげで、石垣島を出る前に「お終いの航海」と切符売り場で言われても「ふ〜ん、そうなの」と信じず木造船の新栄丸に乗り込み、民宿で小母さんから言われて沖縄県庁の公務員も「えっ!!その話、本当なの?」・・・県庁を出る前に彼は知らなかった・・・とようやく信じた暢気な私達全員は、時化模様の中、伝道師さんの船舶航行技術を信じて乗り込み石垣島に向かった。
(島の人に聞くと「鋼鉄船は、今頃、九州の造船所を出てこちらに向かっている」「今、作っている」と、いずれにしても数日中には来ないらしい。「この木造船の新栄丸はどうするの?」には「ここで燃やす」「ここで破棄する」だったけれど、本当に燃やしたのかねぇ?)

 で小母さんの「特別に」は若い県庁公務員さん向けだったのだろう。

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”友利御嶽”への入口。(1975年)
”友利御嶽”への入口。(2002年)
(マギー教授の助手さんより)

 友利御嶽の入口。
 左は一九七四年、右は二千二年に撮影。

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 大工定一さんの孫娘さんからのメール文と写真につきましては、連絡が取れず了解を得ずに載せています。
 この場を借りて「お許しを」

 マギー教授さんの助手さんの了解も得ていません。
今度、お会いした時に「埋め合わせしますよって・・・・」

 また、本文中に貼ってあるリンクにつきましても、了解を得ていないものもあります。
「あの〜、すんません」


琉球犬の”かな”ちゃん  左の画像をクリックすると
琉球犬の”かな”ちゃん
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