ほんなら・・・
  ほんでも・・・


     10回目 
    『北杜夫』さんの
    ”どくとるマンボウ”シリーズ。
                   
その三 
       ・・・・・2004年 8月 8日・・・・・


 このページで”どくとるマンボウ”シリーズはおしまいです。

 北杜夫さんの透明感あふれる内面の世界を描く『幽霊』『夜と霧の隅で
(新潮社刊)を代表とする作品、『楡家の人びと(新潮社刊)のような日本ではめずらしい三代記、児童書では『ぼくのおじさん』『よわむしなおばけ(旺文社刊)等も書き、そのどれもが基底にユーモア(諧謔)とペーソス(哀愁)が見えます。
 いつか手持ちの個々の作品を取り上げたく思っていますが・・・・。


『躁児マンボウ vs 快妻オバサマ・・・喋り下し世界旅行』 躁児マンボウ vs 
快妻オバサマ
・・・喋り下し世界旅行


北 杜夫 著
斎藤輝子 著

文芸春秋社

1977年5月30日 
初版発行
 故斎藤茂吉の妻で八十歳を越えつつも世界各国に出かける輝子おばさまの漫遊記は、五年ぶりの躁病にある愚息マンボウさんとのお喋りで笑いの連続。

 漫遊記も良いけれど、大歌人茂吉を、輝子奥様は結構こけにするところは爆笑物。
 天国にいるのか地獄にいるのか知らないけれども、茂吉は烈火のごとくに怒っているだろう・・・と思うけれど・・・「あいつには、勝てん」と諦観か。

『だって、偉大な人の妻っていうのは、みんなあなた、悪妻に決まっているんだもの。大抵解ってるじゃない』と開き直り。
 続いて宗吉
(マンボウさんの本名)さんが『茂吉っていうのは、日本短歌史上、人麻呂を凌駕しているし、最大の歌人だし、今後も、もうこれ以上の歌人は現れないでしょうね。・・(略す)・・その妻ですよ。その茂吉の印税でぬくぬくとと贅沢旅行して、少しは恥じなさい』とたしなめると『ホッホホホ、でも、わたくしにはわたくしの生き方があるんですから』と屁とも思わない。
 でも、こんな気楽な会話が出来る母親って好きです。


『怪人とマンボウ』 怪人とマンボウ

北 杜夫 著

講談社

1977年8月30日 
初版発行
 岡本太郎さんと小松左京さんと畑正憲さんとの対談。
対談の内容を無視しまして、三人様方への阿呆坊の思いをば。

 岡本太郎さんと言えば、高校生の頃、行きたくもなかった日本万国博覧会々場で”太陽の塔”を見て「なんじゃ?これは!」と思った。
破天荒、天才なのか知らないけれど、私には「合わん!!」と思った。
 そのうん年後、沖縄に行くようになり適当に本を読んでいたら天才岡本太郎さんが久高島で島最大のハレの日に墓覗きを行うと言う蛮行を知った。
 神聖なる処
(サンクチュアリ:聖域)にずけずけと島民の了解も得ずに入っちゃった。
葬られていた身内の一人は精神異常にまでなったと言うほどの行動で、「おれはこの世で一番。何やっても良ぇもんね」気分の愚かな岡本さんを「ゆ、ゆ、ゆるせん!」
・・・岡本太郎 著『沖縄文化論―忘れられた日本
(中央公論社刊)は何処に有るか分からん。多分、ゴミ箱に捨てたんだろう。
(『沖縄的人生』天空企画編・光文社刊・文庫の「南島へのナビゲーターたち」宮里千里 著に久高島の出来事が書かれている)

 小松左京さんと言えば『日本沈没
(光文社刊)ですが、読んでいない。
 戦後まもなく大阪砲兵工廠跡地に鉄を食べる人間が出現したと想定した『日本アパッチ族
(光文社刊)を読んだ時、、小松左京さんはSF作家らしく、日本国内の鉄を喰べまくり、果ては、日本の土台構造までも揺れまくるほどになったと壮大な物語りにし日本を滅ぼす。
 これに対して、開高健さんの『日本三文オペラ(新潮社刊)も同じ工廠に転がる大砲や戦車、鉄骨の残骸をかっぱらうのがお仕事だった通称”アパッチ族”と呼ばれる実在した泥棒集団を題材にしたものだが、この各個人の個性を活かした集団、組織力対官憲のドタバタを描き、人々のバイタリティあふれる生き様を描いた。
 同じ材料でも、開高健さんの方が私には「おっ、おっ、おもろいやんけ!」でした。
 元々SF小説はそんなに好きじゃないし、小松左京さんはその後”お上”と仲良しになったりしたので・・・。
 もっとも、開高健さんも、朝日新聞社臨時海外特派員としてベトナムに行き『輝ける闇
(新潮社刊)続いて夏の闇(新潮社刊)を発表後は釣り三昧生活を始めたので読まなくなった.


 畑正憲さんと言えば『ムッゴロウの無人島記
(毎日新聞社刊)
 北海道行の時、厚岸から対岸には橋が架かってはいるものの完成には至らない建設中。
 橋の入り口まで走って行ってみたら、進入禁止のバリケード。止まって眺めていたら工事のおじさんが「渡って良いよ」のありがたいお言葉。
 渡って少し走った所がムツゴロウさん達の本拠地だった所ですが、中には入れなかった。
来る者、来る者を入れていたら仕事にならないので当たり前ですね。
 まぁ、わざわざ近くまで行ってみたいと思わせるほど、その頃好きだったんです。
 この後、確か『ムツゴロウの青春記(文藝春秋刊)ひょっとしたらムツゴロウの結婚記(文藝春秋刊)だったかを読んでいたら、、高校生の時の事が書いてあり、それは私からすると「高慢ちきな奴」に思える内容だった。
 以後、テレビも見なきゃ本も読まない。
所有していた本は『どんべえ物語
(角川文庫)以外全て処分した。


 と言う事で、本の内容抜きで・・・すんません。


『マンボウ博士と怪人マブゼ』 マンボウ博士と怪人マブゼ

北 杜夫 著

新潮社

1978年11月20日 
初版発行
 躁病に取り憑かれれていたマンボウさんはテレビ放映された洋画『怪人マブゼの挑戦』のテレビ局の改題『怪人マブゼ博士・・・恐るべき狂人』と言う題名・内容を気に入り、”どくとるマンボウ”なんてしまらないから、少なくとも躁病発病中は”どくとるマブゼ”と名乗る事にした。
 躁状態でのひっちゃかめっちゃか生活の1969年大晦日。
『当家の主人、只今発狂中』の札を娘は門に貼りたがった。
(この親父にして、この娘あり?)

 元旦に貼ろうと娘に言った時、マンブさんは怪人マブゼ博士に近い人物になったと真剣に思ったとの由。

 書名のわりにはメルヘン五編を加えたまともなエッセイ集で、『ストレスのことなど』『乳離れしない現代の青年たち』『恋愛と結婚は別か』『思い出の外国童話』『私の文章修行』『遊びについて』『平和』『あやまることの大切さ』『私の好きな言葉』等々と書き写していると雑誌PHPと間違えそうだ。


『マンボウ雑学記』 マンボウ雑学記

北 杜夫 著

岩波書店(新書)

1981年9月25日 
初版発行
 確かな事を覚えていないが、ひと頃の勢いがなくなり、業界では毎年と言って良いほど「岩波が危ない」と言われていた頃の事だったと思うけれど、「これじゃアカン」と思ったのか堅物のイメージだった”岩波”が少しづつ変身した。
 そのはしりとも言えるのが、北杜夫さんの『マンボウ雑学記』の出版。
 この後に、野坂昭如著『科学文明に未来はあるか』が1983年に出版され、新書版ではないが赤川次郎著『三毛猫ホームズの青春ノート』が1984年、『本は楽しいー僕の自伝的読書ノート』が1998年に出版された



 栄えある”岩波新書”入りをしたその内容については、マンボウさんも良く分かっていらっしゃるようで、のっけから
『これは伝統ある「岩波新書」にはふさわしくない本である。むしろ、中学生や高校生むきのエッセイといってよい。』との書き出し。

 とは言うものの、やはり伝統の重圧には逆らえず、第一章『日本について』第二章『お化けについて』の執筆では、参考文献を十七冊ほど並べるほどで、マンボウさんも”岩波文化”の妖怪に取り憑かれている。

 それは、前掲書『マンボウ博士と怪人マブゼ』に
『学術書の場合なんか、うしろに参考文献として、ずらーりと本の名が並べてあるが、実は著者はそんなに読んじゃいませんよ。私は医学論文でそのことをちゃんと知っている。あれは読みもしないのに、無理やり権威をつけようとして、ろくすっぽ関係のない書名まで能うかぎり多く並べてみせるものなのだ。』とお書きになっているところからして、”岩波”の為に自己を上げ底した自白(=参考文献)みたいなもんですね。

 第三章『看護婦について』は欧米日の看護婦さん事情を述べているだけなので抜かしまして、第四章『躁鬱について』は御自身がどこかで「躁鬱について宣伝しまくったのでかなり認知されてきた」風の事を書いていたので一読に値する。
 マンボウさんは医学博士号を持つ精神科医であり、自信が精神科医にかからなきゃならないぐらいの患者ですから、本人の第1期躁病期(昭和四十一年四月から六月)から第六期躁病期
(昭和五十五年九月から昭和五十六年三月初旬)の病状体験事例はタメになる?
 また、躁病患者への心構え、患者家族への忠告は、もし貴方にその気(け)が有りそうならば、下手に専門書まがいを読むよりもよっぽど役に立つと思う。


『あくびノオト』 あくびノオト

北 杜夫 著

新潮社

1961年8月5日 
初版発行
 その1の『へそのない本』の所で「姉妹本『あくびノオト(新潮社刊)は何処に行ったのか見つからない。捜す気力がない。」と書いたのですが、ひょっこり出てきた。
 でも、『マンボウおもちゃばこ
(1967年9月・新潮社刊)は見つからない。

 まぁ見つかっても見つからなくてもどっちゃでも同じなんだけれど、こう”どくとるマンボウ”シリーズを一度に眺めていると、中身なんてどうでもよくなってくる。
 これまでに載せた手持ちの”どくとるマンボウ”シリーズは、多分、シリーズの半分どころか五分の一以下、いやそれ以上だろう。
 そのどの作品にも流れているのは、北杜夫一流のユーモアだと思う。
 元来ペシミスト
(厭世家)であり、ニヒリスト(虚無家)である北杜夫さんがそこにどっぷりと陥る事なくいられるのは、彼自身の都会的センスと、青春期に過ごした信州・松本の風土と旧制高校独特の環境がもたらしたものなのだろう。
 このペシミストであり、ニヒリストと言う事では、痛烈な社会批判を込めた作品が多いが、米国の作家マーク・トウェインを思い出す。


 『輝ける碧き空の下で(第一部1982年刊、第二部1986年刊、共に上下巻。 新潮社発行)を最後に彼の作品を手にしたことはない。
 同じブラジル移民を扱った石川達三さんの『蒼茫
(1935年 新潮社刊)は彼自身が5ヶ月ほど移民生活を行い、国策としての移民、国家を背負った移民達の過酷な生活と思いを書き上げたのに対して、北杜夫さんは移民達の悲惨な暮らしを描いた。
 社会派と呼ばれた石川達三さんの視点と北杜夫さんの視点が異なるのは当然なのだが、北杜夫さんは登場人物に躁気質を持つ者を入れている点で”どくとるマンボウ”を彷彿させるものがあった。


『北杜夫の世界』 北杜夫の世界
・・・どくとるマンボウの世界


別冊新評

新評社

1975年3月10日 
発行
 四十八歳までの北杜夫さんの事なら(個々の作品解説は載せられていないが)これを読めば”どくとるマンボウ”おたくになれる?


『窓際OL トホホな朝 ウフフの夜』 窓際OL トホホな朝 ウフフの夜

斎藤由香 著

新潮社

2004年4月30日 
初版発行
 賢明な訪問者なら、「その一」での赤い文字 「その二」「その三」(このページですが)で、ほんの少し娘さんに触れたりしていたので、きっと載せるだろうと思ったでしょうねぇ。

 週刊『新潮』に連載が始まって少し経ってから読み始めた。
 その昔、開高健さん山口瞳さん達も社員だった某洋酒製造会社万年窓際女子社員 自称”マカ”キャンペーンガール、斎藤由香さんの爆笑エッセー。

 下ネタにならざるを得ない商品を持ち込んだ文章なのに、育ちの良さと親父さんの”血”でそうはならずにすます。
 こなれた文章で書く所は、只のOLの余技以上か?
でも、彼女の才能程度では書き続ける事のは難しいと思う。

 連載物以外に、斎藤家の思い出話が載せられており興味深く読んだ。

 それにしても、いくら親父さんが「もっと過激な店に行きたい」と言ったからって、娘と編集者の三人でランパブに行くか!?
 その上に、あとがきで
『父も、昔、芥川賞を受賞し「楡家の人びと」や何冊かの「マンボウシリーズ」を書いたものの、その後、大した作品も残さず、文壇の窓際族になってしまった。「窓際」の父娘。』とまで書くか?!
 この本のおかげかどうか知らないけれど、
マカは前年比6000%増の売り上げ
 少なくとも、阿呆坊はこの本のおかげで購入したので売り上げ激増に貢献した事になるな。
ネット注文で、購入の動機は?・・・「斎藤由香さんの『窓際OL トホホな朝 ウフフの夜』を読んで
と打ち込んだ。
 健康食品事業部の部長さん、昇進させなくても良いですから、ボーナス査定は上げてやってくださいね。


サントリーの健康食品『マカ』・パンフレット これがマカです。
  SUNTORY  健康食品オンラインショップ です。


ホンダ1300・クーペ9(後ろ)
11回目は、 
敗戦記念日に流す予定で

”キョウセイ”
  です。


HONDA1300イクーペ9でに乗って・・・掲示板へ。
 この車に乗って往き、
”本”の事でも、
”わんこ”の事でも、
何でも書いて
(掲示板)おくんなはれ。


ホンダ1300クーペ9の郵便車。
「お手紙は、この”HONDA1300クーペ9”で運びます」


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