ほんなら・・・
  ほんでも・・・


 35回目 

    『気楽な旅行者には
    ”時間そのものを忘れさせる島”
    だった』
             後編

       ・・・・・2005年4月26日・・・・・

『まるだい』さんのシーサー。 2007年1月21日増補分です。


 前回の第三十四回に載せている本は(羽根田さん執筆のムック誌を除いて)私が鳩間島に渡島した時と比較的近い内容のものでした。
 ですから、ついつい内容とは関係なく”思い出”話とあいなりました。

 今回に載せる本
(切り抜きを含めて)は私の知らない鳩間島ですので、単純に本の紹介程度の、つまり見聞記にはならないモノを適当にウダウダ書く事になりそうです。(ぶっゃけた話、ヒジョ〜に書き難い)


『海と離島』  海と離島
   VOL.5

 準入選
鳩間島奮闘記

 坂本とし子 著

 多分、”創栄出版”
 だと思う。

 1984年7月31日 
 発行と思う。

海と離島』 VOL.5 
 準入選「
鳩間島奮闘記

 手にしたのは、一九八四年八月


 『私は、現在鳩間島から東京に働きに来た形になって居る。でも本当を言ったら”敗者”として逃げて帰っていると言った方が正しいのかも。鳩間へ住民票を移し、そこで一生骨を埋める積もりで行った筈なのに、』
から書き出し、自分自身のとの戦いに負けた心中を赤裸々に書かれた物。


 
『わずか一年半の生活だったが、思い返せばあの頃の心の葛藤さえも懐かしく、又楽しかったのかな?』
 と書きながら、続けて、
 『でも、鳩間には少なからず失望の念を禁じ得ない。』
 それは、

旅人だった時は、あんなに素朴に温かく迎えたのに、住民となったら好奇の目、”よそから来た者”と言いた気な雰囲気だ。』


 四年前初めて訪れた島は見る物聞くものすべてが物珍しく、
 『こんな楽園があったのか』
 と真面目に思い
 『人間同士の煩わしい付き合い、島の昔からの古いしきたりや風習、お互いに言葉の通じないもどかしさ等色々ある厄介な事なんて全々頭に入らなかった』

 『夢のような素晴らしい所、ここでずっと暮らせたらいいな〜と漠然と思ってた』

 当時、島で暮らそうと準備している本土から来た人がいた。
 彼女は彼に次に来る時は泊めさせてもらいたい」と図々しく頼み込み、二年後に押しかけた。

 しかし、
 『都会の煩わしさから逃れ、のんびりした生活を夢見て来た筈なのに、この現実の厳しさ、空しさはどこから起因するのか?』

 島のおばあ達から生活の知恵を色々と教えてもらい、もやしを作り、ニガリを使わず海水を使って豆腐を作り、畑を耕し・・・・。
 それはそれで、しんどくても楽しいものであった。

 彼が躰の精密検査を受けに一時離島した後、一人で暮らす自信はなかったが、一人になった途端、一人ってこんなに気楽なものかと思った。

 しかし、彼が戻ってきた時に内心にでも「なんや、何もしてへんかったんかいな」と思われるのが嫌で、炎天下、鍬を握り悪戦苦闘しながら種蒔きまでこぎつけた。

 とか何とか続き・・・・。

 彼が戻って来た後、
 『畑の事を思うと何とも言えない気持ちだったが、このままではお互いに憎み合う状態に陥る様で』
 そんな別れ方はしたくないので、島を離れた。

 島のおじいやおばあには一杯親切にしてもらったものの、腹が立つ者、媚を売る者、誤解・偏見で見る者、自分の利益しか考えない者等々。
 坂本さんは書く。
人間の宿命は、
『あの素晴らしい、自然に囲まれた南の果ての小っちゃな島に於いて然り』だったと。

 でも、余り落ち込んでいないのは、多くの出逢い・鮮烈な思い出、貴重な体験。
 そして、
 『どこ迄も澄んだ空の青さとエメラルド・グリーンも海のお陰』であり、
 『私にはこの島でのんびり暮らそうなんて、まだ十年早過ぎたって事身をもって知らされた』
 で締めくくる。



 一つ屋根の下に若い男女が暮らしているのを見れば、別に鳩間島でなくともなんやかんやと人はモノを言い立てる。
 俗世間のお話が、鳩間島で永住する気でいた者を阻害
(疎外)するかなり大きな要因だったとは皮肉な事だと思う。

 坂本さんは一九八二年頃暮らし始めたようだが、『子乞い』には一九八〇年に渡島した後、島を訪れた女性と区長の仲人で結婚し、部落総会で幹事に選出されたものの、一九八二年にこの若夫婦は離島する話が載せられている。

 島外者
(よそ者)の定着の悪さは経済的な、つまり糊口をしのぐ方策の問題もあるが、どうもそれは次の段階での話のようだ。
 坂本さんの離島原因は俗世間のありふれた話もあるが、島の伝統・習俗・風習・慣習の重さに負けたと言っても過言ではないのだろう。

 「どうしても、最後ははじかれてしまう。どこまで行けば入り込ませてもらえるのだろうか?」
 石垣島・川平に住み着いて一年にはなる人が、二回目の八重山行の時に言っていた。

 前回の下嶋さん一家も川平で暮らしたようだが、入り込めたと言うには程遠いと思う。
しかし、川平は石垣島だから、ハダハダの御付合いでも暮らしては行ける。

 『パイヌカジ』の場合は、集落共同体と羽根田さん夫婦との微妙な均衡が保たれる稀有な例だろう。


『子乞い・・・八重山・鳩間島生活記』  子乞い
  ・・・八重山・鳩間島生活誌


 森口豁 著

 マルジュ社

 1985年2月16日 
 初版発行
『子乞い・・・沖縄の歳月』 子乞い
  ・・・沖縄 孤島の歳月


 森口豁 著

 凱風社

 2000年1月20日
 初版発行

子乞い・・・八重山・鳩間島生活誌

子乞い・・・沖縄 孤島の歳月

 手にしたのは、一九八五年三月に旧版。
つい最近に増補・新版。

 つい最近と言うのは、増補・新版が発行されているのを知ったのが、羽根田さんのHP”鳩間島通信”だったから。

 旧版に『島の歳月をみつめて・・・鳩間島への手紙』を加え、人口変動表と年表、そして写真が増やされたのが新版。


 一九八二年三月、鳩間小学校に二人の児童が入学した。
一人はピカピカの一年生、もう一人は転校生だった。
 彼らが廃校寸前の鳩間小学校に来るまでの島の人々の苦悩と動きを、筆者は記録物としてはかなりの情感をこめて書く。



 学校について覚えている事は少ない。
都会の学校と違い、開放された運動場・校舎なので、昼間に行くのは授業の邪魔かと思い、夕方二〜三回、運動場に行った程度。
 学校の入口に建つ右手側の柱には何の表示もなかったけれど、左手側には”鳩間小学校”の文字があった。


 子供を一度見たと前回に書いたが、それは夕方、桟橋の東側にある浜に並べられたサバニに乗って遊んでいる姿だった。

 民宿に戻ってから、「子供さんを見た」と言った時、大工定一さんが深刻な顔をして、「中学校がなくなり、このままでは小学校も廃校になる。そうなれば行き着く先は全島民離島・・・」と言っていた。

 その時、情けない事にその意味が、重さが、あまりよく解らずにいた。
 小学校廃校=鳩間島が無人島??????
「何のこっちゃぁ〜? 何でそうなんねんな? 学校のない島なんか結構あるやんか」


 立地条件から一概に比較は出来ないが、稲垣尚友著『吐火羅国・・・針の穴から日本をのぞく』『悲しきトカラ・・・平島生活記録』『棄民列島・・・吐火羅人国記(一九七六年・八重岳書房発行。一九八〇年・一九八三年・未来社発行)を読むと、臥蛇島は戦前、百人を超す人間がいたのもカツオ漁のおかげだったのだが、一九五三年、食糧事情の悪さから役場より離島勧告が出された結果、人口流出をもたらし、一九六八年には鹿児島大学の離島調査団の某教授が村長に代わって勧告し、一九七〇年七月に無人島になった。

 最終的に臥蛇島の島民が決意したのは、
 
『島民が一番心配したのは・・・(略)・・・子弟の教育に向かない島と言われたからである。』

 一九七〇年、臥蛇島は中学生二人、小学生五人だったらしい。
鳩間島は小学生
のみ。
(一人だったか二人だったか、大工定一さんが言ったのを覚えていない)

 いずれにしても学級
(校)経営からすれば成り立たない規模だろう。

 臥蛇島と異なり、もうすでに教育環境にない鳩間島の場合は、多分、島に学校がないとなると、「新たに暮らす若者が増えない」が全島民離島への道筋だと言う事なのだろうと思う。

 加えて、非情な行政からの”圧力”も確かにあったのだろう。

 『教育委員会は、たった一人の生徒のために学校を存続するのは経費の浪費と考えていた。校長、教員、事務職と用務員あわせて四人の人件費や施設の維持費は、ただでさえ財政事情の苦しい過疎地の自治体にとっては大きな荷物だ』
(『子乞い』より抜)

 『「臥蛇島ひとつ整理できれば、一航海に五万円は油代がうくでなあ」と、別の席で村長は笑い飛ばしていたが、そんなことは島民の耳にはとどかなかった。つまり、定期船の十島丸は八つの島に寄港するためにジグザグコースを強いられている。西方海上にひとつ飛び出している臥蛇島に寄らなければ五万円の燃料費が節約できるというわけである。何のメリットもない島にこんな大金を注いでいる、という感覚が村当局にはあった』

(『棄民列島・・・吐火羅人国記』より抜)


 旧版が発行されて読んだ時、大工定一さんの話を思い出し、稲垣尚友さんを思い出し、「里子は、単なる時間稼ぎにすげへんやん」と思ったぐらいだった。


 新版の人口変動表と年表を見ると、一九七四年三月に中学校が廃校になり、人口は三十名を切り、二十数名。
 と言う事は、私が滞在した年は島での人口が一番少ない頃らしい。
島に憂鬱なる空気が漂い出した頃らしい。

 まったくもって、気楽な旅行者だったと新版を視て再確認した。


 気楽ついでに書けば。
 大工定一さんの名前が出てこないのを不思議に思って読んだ旧版だった。
 小母さんは数回登場するが苗字が”大工”と言うのは多分島に何軒かあるのだろうし、「旦那さんを亡くした後、民宿を一人で切り盛りする大工ヨシ」と書かれていても、気がつかなかった。

 二千二年八月、マギー教授の助手さんから。
 『電波が入りにくく阿呆坊さんのメールに気付いたのは 帰る直前の桟橋でまるだいに行く時間もなかったのですが 偶然、息子さんが来られ少し話をしました。三年前から代が変わったそうですよ
 とのメールが届いて、後日、桟橋で写された息子さん
(大工鉄夫さん)
の写真が郵送されて来て、「まんま、定一さんだぁ〜」と思って見ていても、まだ、定一さんが生きているとは思えないが、でも、「亡くなった」と心底思わずにいた。

 先日、孫娘さんからのメールに、『
祖父は22年前に癌を患い他界し、その後祖母が民宿まるだいをきりもりしておりました。』と書かれていたので、「やっぱり、お亡くなりになってたんや」と、ここで初めて、「出てけえへんのん、当たり前や」と納得した。


 閑話休題。

 ”島を興す”と言う目的は同じなのだが、一九七〇年代後半頃から本土の若者が移住した居住者達と、島で生まれ育った者達との”小学校”存続に対しての見解の違いは、島にとにかく人を増やしたいと考える”土着”と、島で暮らせるように生活の糧を得れるようにまずすべきだと言う”よそ者”とでも言えそうだ。

 よそ者は、身内ではないが仲間であり、島に居る以上、身内の習俗には従ってもらう存在となる。
 しかし、これまで島を守ってきた重い掟とは無縁に育った仲間には、この縛りは表面的にはつき従った動きが出来えても、骨肉化しているわけではない。
 もちろん、器がとてつもなく大きい者もいるだろから、意に関しない者もいるだろう。
 しかし、その大半の者はいつか爆発する。
爆発は土着に向けられる事なく、島を去る事を意味する。

 郷に入れば郷に従え。
恭順の意を示し続けた所で、簡単には身内になれない。
 
稲垣尚友さんによれば、
『何世代にもわたって島で生活している純島民』
『移住一世の準島民』
『”純”になるには二世以降でなければ、まずだめであろう』

 つまり、住みついた他所者はどこまでもよそ者
(仲間)だがよそ者が島で子供を出産した場合、その子供は身内になるらしい

 『子乞い』の主題は小学校存続に向けて如何に島民達は苦悩し苦闘したかなのだろうけれど、島に小学校が残る過程よりも”土着”と”よそ者”の絡み合いの方が、より島自体の存続の可能性の有無を示しているように見える。


 一九七四年だったか翌年だったか忘れたが、石垣島で、「ヤマハが小浜島に進出して来る」と言う噂を耳にしていた。
 漁業組合長でもあった大工定一さんに聞くと、「鳩間島の漁業権」云々と言っていた。
 その後、どう話し合いがまとまったのか知らないが、一九七九年七月に”はいむるぶし”は営業を始めたと思う。

(たまたま知った三十歳になるかならないかの女性の話なのだが、高校を卒業した後「石垣島で働かないか?」との誘いを受け、某宅急便八重山営業所で働き出し、旦那と付き合いだしたそうだ。旦那は小浜島出身で”はいむるぶし”は稼動しているものの、石垣島に働きに来ていた。結婚後、子供が出来、石垣島でも喰うには辛いので、大阪の親元に旦那子供共々戻って来たそうだ。・・・まったくの余談ですが)


 
『生産組合のメンバーの一人で山梨生まれの佐藤明雄は、この島に住むようになって六年、島の人たちがヤマトや那覇だけを見つめ、行政の施しのみを拠り所として暮らしていることに割り切れなさを抱き続けている』

 『土に触れ、自然の生態系のなかで生きようとするその想いは、一緒に住みついた西岡にも共通する。』

 『だから、島の人たちが、島の振興を図るためには観光産業しかない、それが第一だとして、この島の道路を舗装すべきだなどと言い出したのには首を傾げる。まして、この島に観光ホテルを、などということにでもなったら、もうそのときはここを去るしかない、と思う。』



 彼等と、一九六〇年代、吐火羅列島諏訪之瀬島に共同体を目指して暮らし始めたヒッピーさん達とは異なるが、とにもかくにも当初、島の人達と揉め事を起こしていたヒッピーさん達は下記に載せた本木修次さんによると、
『島では集落と少し離れた所に住み、バンヤン、バンヤンと呼んで、初めは少し距離をおいていたようだが、あの人たちの智力、若さ、体力、世界観・・・、除々に溶け合った。今や島の新開発戦士、島の骨格をなし』、欠かせない島の人になっているらしい。

 いつの頃の事か忘れたけれど、テレビでドキュメンタリー物を視た。
鳩間島で暮らしだした若者達が、島を開墾し南瓜を栽培し出す話だった。
 流通の問題が大きいが、上手く行くかも知れないと思った。

 が、彼等の生産組合は当初の集団農場方式が分裂したと本書に書かれている。


 著者の森口さんは新版の『島の歳月をみつめて・・・鳩間島への手紙』で行政のトンチンカンな過疎対策批判(例えば、防波堤)を述べた後、那覇に住む鳩間島出身の大工義紀さんが主張する、国土庁と厚生省が打ち出した健康保養地づくり”アイランド・テラピー構想『美しい自然や個性豊かな風土に恵まれた離島・僻地を老人たちの癒しの場に』『島の人たちが一丸となって行政への働きかけを始めてはどうだろう』と書く。

 マギー教授の助手さんからのメールには、
でも、鳩間島も久高島も阿呆坊さんが訪れた時とはぜんぜん違うはずです。
道路も舗装されているし、港はしっかり護岸工事してあり、私が行った時も工事中でした。
島の発展の為に必要なのか、雇用促進のための工事なのか???
私はもっともっと昔にたずねたかったと思いました。
28年前の八重山を見たかったです。
今後、観光化されて旅行者の為にと都会のものを持ちこまないで欲しいと願うばかりです。
鳩間島にダイビングショップだけは出来て欲しくないのですが・・・
ダイビング船が昼の休憩に上陸してましたが、西表から来ている様です。
と書かれていた。
 これは旅行者から見た”鳩間島”へ望むモノの代表なのだろうと思う。。

 でも、前回にも書いたが、「ヤマネコが大事か、人間が大事か」の問題は暮らす者と訪れる者=旅行者との永遠の課題だ。
 そこには、例えば木曽路の妻籠、馬篭のように自分達の暮らす場所をぞろぞろ観られる事に耐えれるのかどうかは、”聖域”
(伝統・風習)をも含めて大きな問題だろう。

 ”アイランド・テラピー構想”で言えば、お上主導の”リゾート法”
(総合保養地域整備法)に踊った施設は見事にぶっ壊れた。
 加えて、本土周辺の離島はこぞってこの構想に手を挙げている。
 そして、まだ日本国民はそれ程にも長期滞在型の保養
(もしくは旅行)を行う気質に至っていない。
 ”アイランド・テラピー構想”に乗り、稼動された暁には、老人達の島での一時的保養生活は、例えば南紀にある国民休暇村の前に畑を持っていた知人の話、「勝手に入ってくる。畑を荒らす」と同様の場面が起るだろうし、御嶽にお賽銭を置くのは日常茶飯事だろう。

 加えて、”利”に対する飽くなき欲望は人として付き物だ。
僅かなパイであれ、いや、僅かだからこそか・・・。


 識らない上に、解らずにいるのに、適当な事を適当に書くと、非難する人が出てきそうだけれど・・・・。
 この先はとてつもなく暗い。

(二回目の鳩間島行から戻って働き出した職場に竹富島出身者がいた。思う事を言ったら「本土の者に何が分かる!!」と・・・。昨年末、数年ぶりに会った。今も気の置けない仲間ですが)



 蛇足です。
 つい先日、発売された『沖縄 2005 最新版 るるぶ』(JTBパブリッシング発行・つまり昔の「日本交通公社」)を見ると、八重山で載せられているのは”石垣島””小浜島””竹富島”そして”西表島”のみ。

 
『同じ竹富町の波照間島である。波照間島では<南十字星の見える島>をキャッチフレーズに、島に天体観測所を建てるなどして観光客の誘致に取り組み、年々実績をあげている。九八年度に訪れた観光客は二万三千四百六十三人で、十五年前の六倍になった。』
 しかし、旅行ガイド雑誌の定番『るるぶ』に、この”波照間島”は載せられていない。

 一月程前に発売された『安宿沖縄 ’05〜’06』(ジャニス発行。つまり非常にマイナーな版元です)には、鳩間島の民宿は四軒載せられている。

 一九八一年に発行された『沖縄・離島情報・・・昭和56年夏の最新情報(ウイッピー文明社発行)には、上記『るるぶ』の各島に加え”黒島””与那国島””波照間島”。
 鳩間島は船便の時間と料金こそ載せられているが、島の紹介・宿泊案内は載せられていない。
 その上、版元が林檎プロモーションに変わったが、今年度の同書には”パナリ島””カヤマ島””浜島”が載せられているが、鳩間島は載せられていない。


『小さな離島に行こう・・・ニッポンの秘島めぐり』  小さな離島に行こう
  ・・・ニッポンの秘島めぐり


 本木修次 著

 ハート出版

 1995年8月25日 
 初版発行

小さな離島に行こう・・・ニッポンの秘島めぐり

 手にしたのは、一九九五年八月


 『里親の島に教育のまことを見る・・・鳩間島』

 一九六一年、海が荒れて一週間石垣島から出れず、泣き泣き”ニッポン”に帰った本木さんは、一九八七年、島で育った友利たかし君と里子の兼久勇人君の二人に迎えられ、彼等は島の案内をした。

 一九九四年、再訪した時、里親制度の創設に力を注いだ鳩間昭一さんの家には二人の里子がいた。
 
『「”おとうさん”浜に行ってきます。」里子の二人は昭一さんにきれいにあいさつをする。』

 鳩間さんは本木さんを、荒れた鳩間
(ヨナラ)水道を渡り西表島船浦まで送る時、『島も大変だが、人間をつくる教育こそ生命です。今や老人会は壮年会ですよ』と言った。


 著者の本木修次さんは、中学教師時代から島を廻りだし、校長で定年後も島巡りを続け、日本全有人離島四三六島踏査を終えた島博士。
 島三部作の一作目。


『小さい島の分校めぐり』  小さい島の分校めぐり

 本木修次 著

 ハート出版

 1998年7月20日 
 初版発行

小さい島の分校めぐり

 手にしたのは、一九九八年八月


 島三部作の三作目。
(二作目は『だから離島へ行こう』なのだけれど、一作目に載せたので鳩間島は載っていない)


 『鳩間島・・・里親制度さきがけも』

 本木さんは海・珊瑚礁・花・そして『時間が止まったような島』は『いかにも平和な桃源郷の風景では、日本の島の最高級だ』と書き、船便の悪さを逆に、『日本一流の悠然たる島だ』と書く。

 しかし、
『景色は良いが決して悠然たる歴史ばかりではなかったのである。』

 で、お定まりの里親制度を述べるが、
『しかしその後、島の過疎化は進んで』
『頼みの里親も高齢化してなかなか面倒を見れないことも多く』
『安定した計画的な教育の軌道にはなかなか乗れない苦悩が見えるような気がする』

 結びは、
『景観絶景、島人温和の鳩間島、八重山の星をもりたてたい。』


『光の島』  光の島
  (全8巻完結)

 尾瀬あきら 著

 小学館
 (ビッグコミックス)

 2001年12月1日 
 第1巻初版発行

光の島


 手にしたのは、二〇〇一年十一月


 子乞い』を原作に描いた漫画。

 尾瀬あきらさんは『夏子の酒』が大ヒットしたのだけれど、”酒”と”米”には興味がなかったので読んでいない。


 固めの三里塚を扱った『ぼくの村の話』や、売れない女性フリーライターの『みのり伝説』は、連載中ってのは実に読みにくいので単行本化してから読んだ。
(大きな字では書けないけれど、本屋の役得ですわ。講談社さん、小学館さん、取次ぎさん、そして尾瀬あきらさん、ごめんね)

 『光の島』は連載が始って数回しか視ていない。
単行本を全巻買ったがパラパラとしか眼を通していない。
 だから、原作にどれだけの”尾瀬あきら”さんが表現されているのか知らない。


『島と岬の灯台めぐり』  島と岬の灯台めぐり
 ・・・日本一周 *
 ノサップから波照間まで


 本木修次 著

 ハート出版

 2003年4月28日 
 初版発行

島と岬の灯台めぐり・・・日本一周*ノサップから波照間まで

 手にしたのは、二千三年四月


 『鳩間島灯台・・・小さな離島に美しく光り輝く』

 四行ほどを使って、竹富町の島名を並べた後、鳩間昭一さんが船浦まで迎えに来、鳩間昭一さんの願いは届き、『今も学校はあるし、留学生も迎え元気を取り戻せそうだ』と三行。

 そして続けて、灯台の紹介文を四行。

 『白い十六メートルの灯台が、鳩間節を踊る娘さんのような神々しさを発して立っている。周囲のサンゴの美しい海に負けずに毎夜光り続けている。』

 でも前ページの平久保埼灯台(石垣島)、次ぎのページの波照間島灯台や与那国島の西埼灯台(いりざき)は写真が載せられているのに、何故か無い。


 小さな離島に行こう・・・ニッポンの秘島めぐり』『小さい島の分校めぐり』、そして本書にまでも、鳩間島=”里親制度”を書く。
 何も本木修次さんが教育者だったからだけではないと思う。
 


『公評』  公評

 連載
 「海と島のある風景
 第13回 
 「離島の輝き・鳩間島

 野本三吉 著

 公評社

 2003年11月号

公評

 野本三吉さんが連載しているのを知ったのが遅かったので、手にしたのは二千四年の五月頃。


 野本さんは小学校教師、編集者、日本放浪の後、寿町でソーシャルワーカーを経て、一九九一年から横浜市大の教員。
二千二年には沖縄大学に移り、児童福祉論専攻。

 著書の『不可視のコミューン・・・共同体原理を求めて
(社会評論社・一九七〇年刊)爆破・・・ 人間原型論序説(青林社・一九七一年)いのちのむれ・・・共生・共死の原像 (社会評論社・一九七三年刊)裸足の原始人たち・・・寿地区の子ども (田畑書店・一九七四年刊)寿生活館ノート・・・職場奪還への遠い道 (田畑書店・一九七七年刊)風の自叙伝・・・横浜・寿町の日雇労働者たち(新宿書房・一九八二年刊)を二十代後半頃にまとめて読んでいた。


 野本さんの専門演習を受講している多良間島出身の学生が、卒論のテーマに『離島における里親制度の研究』を取り上げた。
 そこで野本さんは、「島ぐるみの里親制度」の実態を調べてみたいと言う気持ちになった。
 学生諸君・沖縄県中央児童相談所・県里親会などに『子乞い』以降の現状を尋ねてみたが、正確な情報を掴んではいなかった。
 二千二年にNHKが放映した『さよなら、僕らの南の島〜沖縄県・鳩間島』のビデオを入手し、学生達と視た。


 十八人の生徒が転入し、全員が家庭も親もある島外者。
転入理由は、在籍していた学校に適応出来なかった為。

 子供達は鳩間島に来て、『どの生徒も鳩間島の暮らしの中で自分を発見し、自分の生きる道に向かって進み始めているのであった』


 そこで、『里親役をし、民宿をしている”まるだい”の大工鉄夫さんのところへ泊りに行き、実態を調べてこようということにな』り、五人の学生達と島を訪れた。

 島の紹介・・・(”まるだい”さんはお世話になったからなのか、他の民宿は屋号だけなのに『民宿「まるだい」は築100年という年代もの。家のつくりも、柱の一本一本も古い年輪が刻まれている。』と紹介)・・・の後、平良進校長の話を聞く。
@ 里子として学び、卒業して行った者達は幸せな家庭を築いていて、中
  には社長としてがんばっている者もいる。
A 里親制度を活用する機会は、里親の高齢化・条件が合わない・希望す
  る子供の減少等により、少なくなった。
B 現在は不登校等により転校する”留学”が多くなった。
C 児童福祉法、第二十七条第三項での”里子・里親”制度と、”海浜留
  学生”の二つの道を、島全体で取り組む為に作られた”まいふなー育
  成委員会”で話し合いながら行っている

 翌日、中学の授業参観を行った後、台風が近づいて来ている事もあり、予定を早め、学生達を調査の為に残し、島を離れた。

 
『ぼくは鳩間島を離れたのだが、ひどく心が惹かれているのを感じていた。この島で暮らしていくためには、この島に住んでいる人達が力を合わせ、支え合っていく他はない。そんな鳩間島の人々にとって、若い夫婦が島に定住していかないという危機感の中で生み出してきたのが里子、里親制度や海浜留学制度の活用であった。』


 一九八二年、里子を迎えて約二〇年。
時間稼ぎに過ぎないとは言え、良くぞ続いていると思う。
 でも、里子は、国内留学と言う形に変わったらしいけれど、賄い付き下宿
(?)寄宿舎(?)的な留学生を迎える島の人々がいつまでいるのだろう?

 若い定住者は増えたのだろうか?
子供を連れた定住者が来ているのだろうか?
定住者に子供が生まれたのだろうか?


『島・・・日本編』  
  ・・・
 日本編


 長嶋俊介
 斎藤潤
 仲田成徳
 河田真智子
 著

 講談社

 2004年
 7月1日 
 初版発行

・・・日本編

 手にしたのは、2004年7月


 鳩間を担当した執筆者さんは鹿児島大学多島圏研究センター教授。
専門は島嶼学)

 本書の『
はじめに』で彼は、
 『島の振興を目的とした、とってつけたような見てくれや、迎合的な観光歓迎策は”実力”とはほど遠いものである。むしろ島が自然体で持っている、本質的な魅力と魔力を取り上げてみたいと思っている。』
 『旅人から見た島の魅力と、島人から見たときの具体像の交差するところも、紹介したい。島側の人がなにをもとめているのか?こういった事項まで目線を向けた本が今ほど必要なときはないだろう。』
と書く

 一頁に写真が四葉。
浜で子供達の網で魚とり・家屋の屋根・貯水タンク・浜に上げられた小船数艘。

 本文は五分の三が子供たちの話。


 『子乞い』から『』まで、すべてが”里親”(里子)=学校についてのみ書かれていると言っても過言ではない。


 一九七五年から”鳩間島”が頭の片隅に残り続けていながら、手にした情報はこれらの本と、竹富島に御爺さんのお祝いで一九八〇年よりも前に一時帰郷した前述の仲間についていった奴達の話(「鳩間に行ってくれ」と頼んだ)、雨男さんのHPとメール、マギー教授の助手のメール、大工定一さんの孫娘さんのメール、そして、数年前に”鳩間島”で検索したHP(これらは、全てと言って良い程、景色の紹介だけでしたが)ぐらいだから、今の”鳩間島”の実態を識らない。

 識らなくて書くのも気が引けるが・・・・。

 国としての産業構造転換から、全島民離島とあいなった端島軍艦島のような事にはならないだろうけれど、”臥蛇島”は遠のいて行かないように思える。

 手形を書き換えながら生きて行くのも、自転車操業にも限度があるぜ!!

 お〜い!
本当に、これで良いのかい?


何か、鳩間島の人々や、大工鉄夫さんの娘さん、羽根田さんにも嫌われそうだなぁ〜。)


『パイヌカジ・・・沖縄鳩間島から』  パイヌカジ
  ・・・沖縄鳩間島から


 羽根田治 著

 山と渓谷社

 1997年8月20日 
 初版発行

パイヌカジ・・・沖縄鳩間島から

 手にしたのは、一九九七年十一月


 読み返してみて、初めて読んだ気がした。
なぁ〜んも内容を覚えていない自分に愕然とした。



  前記の『小さな離島に行こう・・・ニッポンの秘島めぐり』と『小さい島の分校めぐり』の間に発行された本書は他の本と異なり、著者自ら鳩間島にどっぷり首まで浸かっただけのモノがある内容。

 一九八八年に鳩間島を訪れた羽根田さんは、『酒を飲むのにこれほどすばらしい場所を、いまだ、ほかに知らない』と絶賛するマイトウゼの休憩所に惚れ、マイトウゼを経営する通事建次さんに惚れ、そして『休憩所で島の人たちといっしょに飲む事により、彼らの優しさとおおらかさの一端を垣間見ることができた。なによりもそれが嬉しかったからこそ、この島へ足繁く通うようになっていったのだと思う。』と島の人々に惚れ、『初めて島を訪れて以来、毎年の鳩間通いがはじま』り、短期滞在が長期滞在としだいに長くなっていった。

 そうこうするうちに、一九九四年には島に赴任していた中学校教師に惚れ、
『結婚してからは、鳩間で過ごす時間は生活そのものになった気がする。たとえそれが、一年のうちの半分にも満たない約四ヵ月であっても、だ。』

 惚れた人間が”鳩間島”での実体験を温かい眼差しで書く。
人を、学校を、海を、魚を、祭事を・・・そしてもちろん楽しく”飲む”を・・・・。


 ところで、『子乞い』のところでふれた島興しなのだけれど、本書には『これまで鳩間では。若い者が中心となって、カボチャの栽培や養蜂などによる島興しに取り組んできた。そのいずれもが頓挫してしまったが、島の人たちは第一次産業による島興しをあきらめてはいない。』
と書かれていた。

 本書が書かれてから約七年
子乞い』の新版から約五年経つが、第一次産業を主に、自分達、そして子供達も暮らして行ける島にしょうと言うのだろうか?
 それとも『子乞い』に書かれていた保養所施設、つまり第三次産業を主になのだろうか?

 つまり、島をある意味で”開放”するのだろうか?

 いずれにしても、若者が暮らしだし、子供が生まれ、中学卒業後に一度は島を離れても再び戻れるだけの”生業”がなければなるまい。

 結局、棲み分けが出来るほどの広さを持つ島ではない以上、島で暮らす人々の今後の方針(意識・認識)(伝統に対する考え方も含めて)統一性(=基本的価値観の共有)が今以上求められ、そこから”島”の方針が決まるのだろう。


 前回にも転載した二千二年九月の雨男さんからのメールには、

『この後の鳩間島は・・・。
公民館長の通事さんはこう言っておりました。
「急な発展は望まない。
この島のよさをなくさないように、島を守ってゆく」』


とあった。


”鳩間島”とは直接には関係ないけれど・・・・。


『われわれにとってユートピアとはなにか』  われわれにとって
 ユートピアとはなにか


 青木保
 種村季弘
 谷川健一
 徳永 恂
 真継伸彦
 村上公敏 著
 
 社会思想社

 1971年3月30日 
 初版発行

われわれにとってユートピアとはなにか

 手にしたのは、一九八〇年四月


 『日本人のユートピアはおおむね南の方向にむけられるようである』
谷川健一さんは『日本のユートピア』でこのように書き出す。

 彼の論は、島国であるが故に
『国境を越えてたやすく亡命できない』
『海は交通路であると同時に交通の障害になっている。』

 それは、
『沖縄の離島をあるいてみるとすぐにわかる。』

 過酷な離島で暮らす人々は
『海のむこうからおとずれるものにたいして強烈なあこがれと期待を抱くのは当然である。』

 しかし、
『島をおとずれるものが、島民に利益になるものばかりでないことも、ながい間の経験でよく知っていた。』

 でも、
『島に自衛の手段があるわけではなかったから、一応歓迎の素振りをみせて退散をねがうほかなかった。』

 そして、
『島民に害を加えるものにたいしてさえも媚態を呈することがあったことは、南島共通の現象であった。』

 これは、
『たんなる下心からだけでない賛美の気持ちがこめられていたのも否定できない事実である。』

 この事は先島の人達が『外界に対する期待なしではやっていけない現実をわずかでも知っているから』

 従って、
『海の彼方に対して幻想を持つなと云っても』言う方が無理であり、”ニライカナイ”と言う楽土を想定する思想が今日に至るまで続いているのは厳しい風土条件が存在がする為である。

 続けて沖縄におけるユートピア=ニライカナイを述べた後、さいはての島の意識から海の彼方にもう一つの島の幻想を求め、与那国島は南与那国島(ドナン)、波照間島では南波照間島(パイパトロー)と言う架空の島を生み出すと述べる。



 谷川健一さんのこの説はよく眼にする。
 この説からすれば、先島諸島をある種の”楽園”
(=ユートピア)だと思う本土からの旅行者と、島で暮らす人々との意識の違いは噛み合わない。

 時間給電さえ行われていない頃や、水飢饉の時に渡島したと仮定した場合、私は”気楽な旅行者”だとばかりにのんびりした時間を鳩間島ですごせたかどうか疑問で、そこでの現実の鳩間島の暮らしに驚愕し、尻尾を巻いてスタコラサッサと逃げ出していたと思う。



 今自分が居る処との対比において、実はそうなっては困るはずの「無いモノねだり」に気付いていながら、幻影としての”離島””孤島”におもねる。
 孤立した島は決して”楽園”=”理想郷”ではなく、根っこでは「まぁまぁ充足している」と気が付いている”今居る島”からの脱出の渇望対象だった事に気付く。

 現実からの一時的逃避行として”先島諸島””鳩間島”は自分で創りあげたユートピアとしての架空の島だったのよねぇ〜。


 多分、これが、島を訪れる大多数の旅行者だと思う。
 ましてや今は何がしかの”鳩間島”の情報が事前に手に入る。
甘いささやきのような、
『大自然の美しい海に囲まれた島』『何もない島』『世界で一番時間の長い島』(某HPより抜)だと。
 今も鳩間島は確かに
『海の美しさは天下一品で』『なにもないからこそ、なにものにも追われることのない贅沢な時間を過ごすことができます』『ゆったりと流れる時の流れに身をゆだねながら、南の小さな島』(”鳩間通信”より抜)に違いない・・・と思う。


 自分達の居場所
(生活空間)が最後の位置に居るなんて思いたくもないのが人情だろう。
 島外者の旅行者が、「ここが楽土だ」と思った地点にいる島民からすれば、それこそ、「ヤマネコが大事か、人間が大事か」と声を大にして言いたいだろう。

 生活としての過酷さは幾分マシになってきたとは言え、本土
(と、一からげに言うのは問題だが)彼らの生活時間(八重山時間)・風土的気質を横に置けば、指をくわえるモノ(=渇望の対象)だろう。

 島に観念的ユートピアを必要としない今、便利なものへの希求はそれらのモノを見知った今、手に入れたいのは当たり前の話で、それを即物的ユートピアを謳歌する本土の者が、「自然が大事!!」だの、「観光化されるのでは?」だの、「俗化するのはどうも・・・」だのと、相手かまわず自己本位の擬似的ユートピアのみを出した場合、「本土の者に何が解る」と立腹の一つもするのが当たり前だと思う。

 となると、島で暮らす人々が考える理想郷としての”島”を創る事
(島興し)に関して気楽な旅行者だった私は、これからも”鳩間島”で暮らす当事者ではない以上、ただただ静かに見ているしかないのだと思う。

 その結果、「現実からの一時的逃避行としての”鳩間島”は自分で創りあげたユートピアとしての架空の島だったのよねぇ〜。」ではなくなっても、島の人々が「良かれ」と思い考えた総意の結果
『海の彼方に対して幻想を持つ』必要がなくなるのならば、私は喜ぶ。


『反文明の島・・・りゅうきゅうねしあ紀行』  反文明の島
  ・・・りゅうきゅうねしあ紀行


 辰濃和男 著

 朝日新聞社

 1977年4月20日 
 初版発行

(一九七三年発行
『りゅうきゅうねしあ 沖縄・心の旅』
を改題したもの)

反文明の島・・・りゅうきゅうねしあ紀行


 手にしたのは、一九八一年三月

 朝日新聞「天声人語」を一九七五年から一九八八年まで担当した辰濃さんは沖縄が好きなようで、
 『沖縄を行脚し、光あふれた亜熱帯の島のなぎさに身をおくたびに、沖縄の海は、人間の極限のやさしさについて、野生的なおおらかさについて、愚直な生き方について、愚直さを貫き続けることのきびしさや懶惰(らんだ)であり続けることの難しさについて、文明とか競争社会とかいうもののおろかさについて、数々のことを語りかけてくれ、私のような都会生活者の硬直しきった魂のある部分をもみほぐし、よみがえらせてくれるのでした。』
とまで書く。

 一九七二年の八月末、石垣島の旅館で一番観光客の少ない島を尋ねると、「波照間島・新城島・・・でも行くのが大変ですよ」と答えられ、「近場では?」「黒島。でも、何も無い所ですよ」
 そこで辰濃さんは黒島に渡り、
『きれいさっぱりほんとうになにもない島』『観光客もいない。観光客どころか、島の人さえ、めったにお目にかかれれない』所で、(まぁ、黒島以外の島でも考えたみたいですが)とにかく”反文明”について色々と考えた雑文。
(因みに、渡島時の人口は四百三十人、世帯数は九十世帯だったそうだ)



 鳩間島に滞在していた時、『きれいさっぱりほんとうになにもない島』『観光客もいない。観光客どころか、島の人さえ、めったにお目にかかれれない』は同じだったけれど、私はきれいさっぱり本当に何も考えなかった。
 ”沖縄”を”反文明”の旗手・指針とも思わずにいた。
 そこが阿呆な私と、賢い辰濃さんとの違いなのだろうけれど・・・。


 
『石垣島から黒島まで「貨客船で一時間半かかっていく」ことよりも、「新鋭のホーバークラフトでわずか十五分で行く」ことの方が能率的であり』、それが本当に良い事なの?と、問う辰濃さん。
 私はこの能率的な乗り物で黒島に渡った。

 事由は単純で、”能率”重視ではなく、「こんな乗り物、ここでしか乗れない」からで、前回(第三十四回)の与那国島からの帰路に乗った沖縄航空の小型機と同じですね。

 島の民宿に山中貞則さんの額が鴨居に掛けられていた。
 山中貞則さんが八重山に来た時、「離島航路の不便さを訴えた」と民宿の主は言っていた。
 毀誉褒貶は国会議員に付き物だけれど、沖縄返還時
(返還の功罪は横に置いといて)の佐藤内閣で総理府総務長官・沖縄開発庁長官なんぞを歴任しただけの事はあり、山中貞則さんが八重山を訪れた後、ホーバークラフトが就航され、確か石垣島・竹富島・西表島・黒島を結んでいたと思う。

 山中貞則さんに如何程の票が集まり、如何程の”銭”が行ったのか知らないが
(この書き方は、故人の名誉を傷つけているんでしょうねぇ〜)
 琉球新報は二〇〇四年三月、自民党・山中家合同葬が行われた後の社説
『山中貞則氏死去・沖縄政策に”情””愛”注入』で、
 『政治家・山中氏にあったのは、沖縄への”情”と”愛”だ。鹿児島県出身であることが、沖縄への特別な感情を持った面もなくはないが、学生として過ごした台湾時代に接した沖縄の友人たちとの交流から、戦後も沖縄への関心を持ち続けた。法律や規則から見える沖縄でなく、そこに住む人間から沖縄を見続け、沖縄政策に反映させるため尽力した』
と書き、
 沖縄タイムスは、
 『山中貞則氏が死去・”沖縄”のため全力を傾注』で、『沖縄戦の犠牲や米軍統治下での苦境、復帰後も続く基地負担に対し、「我慢を強いていることに(本土の政治家として)応えないといけない」という姿勢を一貫して持ち続けてきた』
と書いた。


 黒島から石垣島には船で戻った。
船の船尾には離島航路船なら必ず流していた釣り糸があった。
 離島航路では天気が良いと船尾の手摺に腰掛けて釣り糸を見ているのが好きだった。
 単調なエンジン音が突然止まり、船員さんが覗き込むとエラブ
(海蛇)がスクリュに絡まっていた。
 船員さんが海蛇を棒で取り除く作業中、何故かマンタ
(”オニイトマキエイ”かどうか知らんが)が悠々と船尾周辺を泳いでいた。
 波照間島に渡った最後の航海だった
(?)新栄丸からの場合は見事に釣れたが、黒島の場合は魚が釣れずに船は石垣港に着いた。 


『島』  

 オルダス・ハクスレー 著
 片桐ユズル 訳

 人文書院

 1980年12月10日 
 初版発行




 手にしたのは、一九八二年四月。


 私のわけの解らん文よりも。

  『新しい生き方を模索する人たちにとって、ハクスレーは宝庫である。
東洋の小島パラに漂着した英国人ウィルが、島の人々の暮らしの知恵やすぐれた道徳を見聞するなかで真如に目覚め、西欧的自我を脱皮していくユートピア物語』
                                  (某HPより)

  『インド洋上の小島に漂着した一英国人の眼に映る島の住人の高い文化、次々に開花する東洋精神の叡智の世界・・・・人間の真実の姿が自覚されてゆく。』                                           (本の帯より)

  『「最良の寓話」 ・・・(略)・・・しかし彼の作風が一九三〇年代に一変して宗教性と社会性、神秘性と科学性とをあわせもつ寓話を次々と生みだすようになってから・・・(略)・・・”島”はハックスリーの語り得た最良の寓話であり、現代を見わたす不思議な視野がここからひらける。』 
(本の帯に載せられた鶴見俊輔さんの紹介文より)



 翻訳者の片桐ユズルさんは、一九六〇年代から七〇年代へかけて関西フォークの中心にいた人で、ハクスレーの著書の他、『ボブ・ディラン全詩集』(晶文社)、不条理に育つ・・・管理社会の青年たち(一九七一年・平凡社)等を翻訳。


                  「追加」です。

 大工定一さんの孫娘さんから、前回を流した後にメールが届き、「写真はどれでも使ってくれ!!」(これじゃ〜男言葉ですね。)との事でしたので、今回も送られてきたものを載せました。


昔の写真


昔の写真
大工定一さん。 大工定一さんの奥さん。

 ”海に生きる男”そのものの顔をしていると思う大工定一さん。
手にしているのは”山羊のお乳”・・・ではないと思う。

 物静かな奥さんには滞在中たいへんお世話になりました。
手にしているのは、滞在中、部屋にもあった”クバ”の団扇。



 前回、”鳩間の大統領”と密かに呼んでいたと書いたが、仏蘭西共和国の場合は”大統領”と”首相”がいる。
 両者が車の両輪のように動けばコトは事無く動くが、島の匂いはそうではなかったように思える節はあった。
(コアビタシオン:大統領の権限は大きいのだが、議会で大統領与党が少数の場合、議会で多数を占める大統領の反対政党の野党々首を首相に任命し、大統領と首相で行政権力が分立して二頭立て政治になる可能性がある・・・・とまで思わないが)

 三十人程が暮らす小さな島でも、まさに『鳩間奮闘記』に坂本とし子さんが書いたように、人間の宿命は、『あの素晴らしい、自然に囲まれた南の果ての小っちゃな島に於いて然り』で・・・・生身の人間だから当たり前だけれど。


 でも、かってもこれからも

      「ひょっこりひょうたん島」
                    作詞:井上ひさし/山元護久  
                    作・編曲:宇野誠一郎

       波をジャブジャブジャブジャブかきわけて
       (ジャブ ジャブ ジャブ)
       雲をスイスイスイスイおいぬいて
       (スイ スイ スイ)
       ひょうたん島は どこへ行く
       僕らをのせて どこへ行く

       丸い地球の 水平線に
       何かがきっと 待っている
       苦しいことも あるだろさ
       悲しいことも あるだろさ
       だけど 僕らは くじけない
       泣くのはいやだ 笑っちゃおう
       すすめ  ひょっこりひょうたん島
       ひょっこりひょうたん島
       ひょっこりひょうたん島

 
であると信じたい。


『外の釜戸』

外の釜戸
『左 貯水槽』

左 貯水槽

 釜戸はいくら睨んでも記憶にないけれど、貯水槽は母屋の外に建てられていたお風呂と便所の手前にあった物なのか?

 
と思うのだけれど、釜戸は相応の劣化が見られるが、貯水槽は灯台横に建てられたセメント製標柱程度の劣化に見えるので、あった事すら実は自信がない

 
ひょっとすると、一九七五年以降に作られた物かも知れない。

 「孫娘さん、私がお世話になった頃に、この貯水槽はありましたか?」


「おまけ」です。
船鑑札 表 船鑑札 裏

 ”サバニ”にも色々あるらしいが、”イノーアッキサー”は、内海の追い込み漁用で長さ約7.6m幅約1.2mらしいので、長さ・幅・からして”サバニ”の船鑑札だと思う。


 機関を設備していないので、この”松竹丸”は一九六一年以降に廃船されていないとすれば、船外機なんぞを後から取り付けたのかも知れない。


 ところで、念の為に、
盗ったん違ゃいまっせ。浜に落ちてたのんを、拾ろてきたんやでぇ〜」



 浜と言えば、この頃、八重山群島の浜には”廃油ボール”が
付き物だった
 中近東辺りに向かう油槽船が夜間に廃油を海上投棄する為だったらしい。
 海は美しいし、浜自体も美しいのだが、迂闊に寝転ぶとタール状のどす黒い廃油が付く。
 ただ、不思議な事に
・・・(油槽船の航路と海流の関係と珊瑚礁の位置からすれば、そうでもないのかな?)・・・鳩間島の北の浜には殆ど見当たらなかった。

 羽根田さんが渡島し、雨男さんが波照間島に行った一九八八年には、二人の文章から”廃油ボール”はなかったように思うが・・・。


 珊瑚を食い荒らすオニヒトデかどうか知らないが、東の浜でヒトデをかなり見た。
ナマコも見た。
 あまり見ていて気持ちの良いものではないので、北の浜か西の浜を主に行っていたのはこの為でもあった。


 ヒトデと言い、廃油ボールと言い、ろくなモノしか浜に落ちていない鳩間島だった、とは思わない。

 西表島で泊まった民宿の屋号は忘れたが、当時も”星砂荘”と言う名の民宿はあった。
 石垣島でその”星砂”なるものの話を聞いていたが、殆ど興味がないので「あっ、そう〜」と聞き流していた。
 泊った民宿で主が「見ろ」と言うので見せていただき、手のひらにこぼした砂は
(数年後に、”砂”ではないと知ったが)、小さくて小さくてよく分からない。
 よ〜く見ると”星”のような形をしているが、どちらかと言えば”金平糖”の微小版。

 小母さんが那覇に行っていた時、何がきっかけだったか忘れたが、大工定一さんが台所に置いてあった小瓶を手に取り「鳩間の星砂は大きいぞ。西表なんて・・」そう言いながら蓋を開け、私の手のひらに・・・。
 確かに、西表島で見た物とは違い、クッキリハッキリ凹凸が見える。
大げさかも知れないが数倍の大きさに思えた。


 本土の某潮干狩り場は、別の所で買ってきた貝を前日に浜に捲いているとか。
 嘘か実か知らないが、現在、西表島には鳩間島で取ってきた星砂を捲いているとか。
 さもありなんと言う気がする。

 小瓶ごと小父さんは私にくれたが、昨年の秋、母親の引越し・家屋の解体で行方が分からなくなった。
しごく残念だ。


 くったらくたらと、前回同様下らんものを書きました。
それを最後まで読んでいただいた方々には、心よりお礼を申し上げます。


 それはそれとして・・・。

 
そう遠くない時期に、ハッピー・リタイアして

・・・何しろ三十年程、行っていないのだから、二年や三年、五年十年ぐらいは大した時間ではない・・・

鳩間島に行くぞ〜!!

 
行って、気楽な旅行者を満喫するぞ〜!!

 その頃には、島としての生業が決まっているかなぁ〜?


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『不登校だったボクと島の物語』
不登校だったボクと島の物語

鈴木正輝・鈴木はつみ・鈴木正洋・
梅原利夫 著

ふきのとう書房

2005年6月23日
初版発行

不登校だったボクと島の物語

 発行・発売された時期的にTVドラマ”瑠璃の島”が発行元の射程に入っていたのが見え見えの本。
 それが悪いわけではないけれど・・・。

 鳩間島の特殊な環境の下で”不登校児”を受け入れ、その体制を整え、彼等が生き生きと甦生する場面が多いのは解る気がする。
・・・でも、結局、教育(論)ってのは結果論なんで、悪名高い刑事事件まで起こした某ヨットスクールに在籍した者の中にも甦生した者が多いのだろう・・・
 この意味では、この本は”鳩間”でのすばらしい事例が載せられていて文句のつけようがない。
 自分が今、中学生なら在籍したいぐらいだ。


『鳩間島』
      
      『鳩間島・・・南の国から’02〜’05
      磯和俊宏写真集
      沖縄県/八重山諸島


  
和俊宏

  2005年7月28日
  初版発行

   自費出版です。
  定価二千五百円 送料五百円で鳩間島が堪能出来ます。

 自費出版の常で出版流通に乗る事が出来なかったようです。

 『8月現在、沖縄と石垣でいろいろ置いてくれる本屋さん探索中!』
との事ですが、沖縄県での日書連加盟の本屋は石垣島に2店。
 多分、直接、磯和さんに連絡するのが一番です。

   
アドレスは isowa728@oregano.ocn.ne.jp 
  電話番号は 
0596−28−9601 



鳩間通信』を視て、メールで注文したところ、

『三重の磯和です、本日写真集を発送いたしました。(書籍普通郵便ですので、OOだと届くまでと2〜3日かな)
 
届いたら、ゆっくり見てあげてください。それから良いところ悪いところ感想などなど、またメールでもいただければ、本当に嬉しいのですが…。ありがとうございました。
 
〒516ー0037 三重県伊勢市岩渕☆丁目★−○● ◎◇◆□■△▲▽
 磯和俊宏
isowa728@oregano.ocn.ne.jp Tel 0596−28−9601 』

 との返信が。


 で、届いて、ざぁ〜と視た後に送ったメール。


 『添付の地図と、『鳩間島』本書の79ページの地図を較べると隔世の感があります。
 当時、帰阪して手に入れた5万分の1地形図でも、ここまで詳しくはなかったです。
 
 写真を見ていて人工物(灯台を除く)の写っていない”海””空”など以外、実は私が覚えている”鳩間島”ではなかったです。
 
 遠景であれ(例えば11ページ)灯台より左斜め下に写る白いモノが何なのか?そんなモノがあったのか?
 極端な事を書けば、堤防もテトラポットも一つもなかったように思うのです。
 大工さんの孫娘さんに「シーサーはなかったように記憶しますが」とメールで聞いた時「15年ぐらい前に」と返事があり、30年前のおぼろげな記憶に間違いがなかった自分に驚いたのですが、同じぐらい写真を見ていて、元校長さんが書く『この島だけは豊満にはほど遠い』への時空間は、私には”島”を思い”島の人々”を思えば、逆に色々な意味での良し悪しは別にして「これほどまでに豊かに推移した島」で良かったなぁ〜と思います。
 
 その意味で、数多有るHPに載せられている鳩間島の画像にはない『ありふれた日常のみ』が多く、例えば20ページの桟橋と船置き場の変容。47ページのシーサーは前述済み。56ページの犬は見なかったが豊かになった証左?(多分”かな”ちゃんの後姿)64ページの元自家発電小屋があった辺りかその少し上辺りの舗装され側溝すらある道。
わだちの有る道。自転車等々。
 時空間を飛んで行ける日が来れば行かなければ、行ってこの眼で視なければと思いました』


 得てして、写真家の眼は非日常をハゲタカの如く狙いを定めるようだけれど、磯和さんはあえて鳩間島でそれらを避けてファインダーを覗きシヤッターを押した。

 
『今日、カメラバックを持って鳩間島に旅立てば、明日には出会うことのできる風景ばかりです。鳩間島に流れる柔らかい風を感じることのできる写真が一枚でも入っていれば幸いです。初めてのあなた、鳩間島へ行ってみたいという気になっていただければ、なお幸いです。』
と磯和さんはあとがきに書く。

 この意味では、磯和さんが意図した点から外れた視方をしたのだけれど・・・・でも、今の普段の”鳩間島”を視れて良かった。


『瑠璃の島』
瑠璃の島

日本テレビ放送網

2005年6月25日
初版発行

瑠璃の島

『本書のノベライズ部分はテレビドラマ「瑠璃の島」を原作として小説化したものですが、制作上、番組とはストーリが異なる部分があります。』
だってさ。


『海と島じま』 海と島じま

星野通平 著

東海大学出版会

1977年7月10日
初版発行

海と島じま

著者の専門は海底地形・推積物の研究。
海と島とのかかわりを海の立場から本書を執筆。
 鳩間島は『
サンゴ礁』章に4ページ書かれている。
1971年に渡島したとの事で、中森の
高台から見渡たせるかぎりの島の北側が、1800万円で売りにだされたが、買手がつかなかったというの記述がある。
 今なら貯金を叩いても買うのに・・・・。
                        
2006・3・5


2006年7月30日増補分
『神と自然の景観論』 神と自然の景観論 信仰環境を読む

野本寛一 著

講談社・学術文庫

2006年7月10日
初版発行

神と自然の景観論 信仰環境を読む

神を感じさせ、神聖感を抱かせてきた”聖性地形”の中で鳩間島を。
 国見の丘としての鳩間中森のクバ自然林は聖地御獄の神木であり、神が海の彼方から依り着く目標であり、また、船人達にとっての位置確認の森であった。

 それは船人の眼は神の眼でもあったのである
                           2006・7・30


2007年1月21日増補分
『だれも沖縄を知らない 27の島の物語』 だれも沖縄を知らない
27の島の物語


森口豁 著

筑摩書房

2005年7月15日
初版発行
 1959年夏、森口さんが初めて訪れた時の島民は460人。小中学校生徒数も120人いたそうで、その後、1974年(昭和49年)春に訪れた時、島民は23人。生徒数は1人となったと書かれている。

 昨年のお盆時期、大工定一さんの孫娘さんからメールが届き

    『49年来島の記載の下は、「子乞い」の作者である森口さんです。
    もしかしたら、若い頃会ってるのかなぁ?』 と。

 あわてて添付の写真を視てみると、私の3日後に森口豁さんの記帳が。
 30数年前の記憶をたどるのだけれど、森口豁さんをまったく覚えていない。
残っているのは、島の風景と、定一おじさんと、おばさんと・・・。



『沖縄 郵便船で行く離島 SLOW LIFE TRAVELER 』 (DVD) 『沖縄 郵便船で行く離島 SLOW LIFE TRAVELER 』 (DVD)
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ティンティン(中国琵琶奏者)

ソニー・ミュージック


 ティンティンさんの琵琶演奏もさることながら、準主役的な かなちゃん が時折登場したりもする風景を凝視し続けていました。
 本質的な島が持つ”風景”は何も変わらず・・・・。


 左の写真に写る小父さんは定一おじさんの息子さんで、昨年お会いしました。

琉球犬の”かな”ちゃん  左の画像をクリックすると
琉球犬の”かな”ちゃん
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ホンダ1300・クーペ9(後ろ)
36回目はヒマにまかせて手にした本』です。


HONDA1300イクーペ9でに乗って・・・掲示板へ。
 この車に乗って往き、
”本”の事でも、
”わんこ”の事でも、
何でも書いて
(掲示板)おくんなはれ。


ホンダ1300クーペ9の郵便車。
「お手紙は、この”HONDA1300クーペ9”で運びます」


アイコン・阿呆坊。 全面ページで見ています方に。
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「表紙」へ行きます。

文責は当HP管理者に有ります。