ほんなら・・・ ほんでも・・・ 23回目 『樹村みのり』さん。・・・]U ・・・・・2004年 11月 14日・・・・・ |
「解った!漫画だから書き易いので、続けてるの?」 つまんないから、もう止めようよと言い続けている嫁はんが、ついに言いよった。 嫁はんが「高橋和巳や椎名隣三を」「好きな辻潤を」と言うけれど、そんなの、この阿呆な私が書けまっかいな。 漫画なら読み返すのも楽だけれど、高橋和巳や椎名隣三、辻潤なんてそこそこまともに読み返すだけで、日が暮れて朝が来てのX乗根ぐらいの時間が掛かるし、第一、これらを読んで何ほどかのモノを書ける能力なんて無い事を重々自覚しとるわい。 (こう書くと、そんな気は毛頭ございませんが、樹村みのりさんの作品を不当に低く視ている事になりそうだなぁ) まぁ、ここまで来たので、あと単行本未収録二作品を含めて手持ちのモノが終わるまで続けますわ。 |
『歪んだ鏡』 樹村みのり 著 秋田書店 1983年10月10日 初版発行 |
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『歪んだ鏡』 (1982年 デラックス・ボニーター 創刊号 掲載) 数年に一回、高校時代の仲間達が集まり、軽い食事を取りながら取り留めのない会話を楽しむ。 野川はこれまで誘いの連絡が有っても、仲間の沢本に会うのが嫌で断ってきた。 沢本を「自分とは異なった性格考え方をする人」だと野川は思っていた。 一番早く御見合い結婚し、大きな家に招待された時、幸せで輝いていたように見える沢本は『結婚っていいわよ あなたたちも早く結婚しなさいよね』と言い、その後、集まった時に「姉が言っていたが、生活レベルが違う人の所に嫁いだ人は、集まりにだんだん来れなくなってきた」と言った。 野川は沢本にもう会いたくないと思った。 しかし、今回は他の者には会いたく思い、意を決して出かけた。 集まった六人の内、未婚者は二人。 毎日台所でお酒を一杯飲んでる佐藤が「旦那は好きだけれど、同居生活を始めると義母とうまくやれる自信はないし、子供が出来て育ててみれば母親失格だし、だから、どうしても結婚しなくちゃならないものか・・・疑問に思う」と言った時、沢本が「結婚ってのが判っただけでも良いじゃない。私自身それまでの生活を変えたかっただけのように思う。きっと、さっさと御見合いでも良いから結婚して自分の生活を変えたかったのね」 野川は驚いた。 あの時にこのような話をしてくれていたならば、好きになれていたのに・・・・。 既婚者達は時間を気にして、御土産のケーキを買い求めて帰った。 柏木(既婚者で子供がいない?)と野川は夕食をと寄り道した。 野川が「沢本を昔はもっと嫌っていた」と言うと「すぐに態度に出るので、苦手だったと知っていた。あなたは昔と変わらないわね」と柏木。 帰路の電車の中、柏木の言葉に引っかかり高校生の頃を思い出す野川。 『いつか ほんとうに 心の底から大好きな人ができて わたしたちは愛しあって結婚するの そうなったらステキね』 誰もそんな人がいないまま、その思いを続けて来た。 『結婚っていいわよ あなたたちも早く結婚しなさいよね』と言った時の沢本ほども人を愛して来なかった自分に気付いた。 『歪んだ鏡は歪んだ物体をまっすぐに映し出す あなたの瞳を見つめるわたしに やがて わたしが見えてくる』 これが冒頭に書かれている言葉。 普通に読めば、歪んだ鏡=妥協産物としての既婚者で、歪んだ物体=野川で、最後の1コマは『いつか ほんとうに 心の底から大好きな人ができて・・・』なので、歪んだ鏡の既婚組と歪みを(一部?)矯正した野川になる? とすると、夢みる乙女の高校生だった野川は、三十路(?)を過ぎても「変わらないわね、あなた」と柏木に言われて「ほぅかいな、変わらへんのんかいな」と驚いたものの「せやけど、変わる必要なんかあれへんわ」とばかりに最後の1コマの言葉となる。 つまりは、高校の頃、夢見る愛至上主義だった野川は、三十路に入っても今まで誰も愛して来なかったと気付いて愕然としたけれど「やっぱり結婚に至るには”愛”至上主義を変える必要はない」と再確認したって事か? 一回生の夏、利尻島の民宿で休養を兼ねて一週間ほどアルバイトをした。 そこの小父さんの話は面白かった。 「朝、散髪に行って来い!」って近所のおっさんが言うんで「何でや!」って聞いたら、昼からの船で礼文島から「お前の嫁はんが来る」言いよるんや。 「かぁーちゃんを初めて見たのはその日やった」 此処にはまず”愛”ありきの、愛第一至上主義なんてのは何処にもない。 年が明けた冬、稚内港は凍結していたので羽幌港から船に乗って行った。 小父さんは愛知県に出稼ぎに出かけていて(毎年との事)かぁ〜ちゃんと小学生の子供二人が”家”(家庭・家族)を守っていた。 掲載誌からすれば「やっぱり”愛”第一至上主義なのよね」なのだろうけれど、そして樹村みのりさんの思い(願望)でも有るのだろうけれど、その実、岸田秀さんの人間は本能の壊れた動物で”幻想”や”物語”に従って行動していると言う”史的唯幻論”を根っこでは否定し切れてていないと視る。 (『ものぐさ精神分析』中央公論社刊・文庫・1982年。『哺乳期の中の大人・・精神分析講義』朝日出版刊・伊丹十三共著・1980年)) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 『ルイ子さんのメガネ』 (1980年 mimi 1月号 掲載) 眼が悪くなったルイ子さんはメガネを作ろうと眼鏡店に行ったのだけれど、本日休業の貼紙。 大通りからちょっと入った所のメルヘン調建物のメガネ屋さんを偶然に見つけたのでそこに行ってみたら、魔女の様相をていしたおばさんが店主だった。 なんじゃかんじゃと検査をしてもらい、検査結果は「かなりの楽天家。人を信じ易く、単純、お人よし」 近頃、良く視えなくなったのはそれが原因で、年齢と共に変化していく視力なのに、それに気付かない為『年齢に乗り遅れる』だから『安全に世の中を歩いてゆけるためメガネが必要』で、症状は『鈍視』との事。 良く見えるメガネをいただき、代金を払おうとすると「しばらくかけていて、支払いたくなったらいつでも来て下さい」 翌日、メガネをかけて出社した。 メガネをかけていると、話をする同僚や、数ヶ月前に別れた男の相手の本音がルイ子さんの耳に聞こえる。 「似合うメガネね」=「私からしたら、あんたのメガネなんてどうでも良い事だけれど、でも、直ぐに嬉しそうな顔をして、ほんま、あんたはおだてがいの有る人ねぇ」のように・・・・。 すぐさま、返品しょうと怒りながらメガネ屋さんに行ったのだけれど、 「世の中、それが当たり前で、今までの貴女の視力が鈍かっただけ。みんな良い人に見えないって言うけれど、良い人ってのは貴女にとって都合の良い人でしかないのよ。もう少しこのメガネをかけている事を勧めます」と魔女店主が言う。 結局、ルイ子さんはもうしばらくかけている事になった。 そうこうするうちにルイ子さんは気がついた。 寂しい事だけれど、他人は私の為に存在しているわけじゃないのに、いつまでも子供のように周りに迷惑をかけていた事を。 少し経ったある日、メガネを落として割れしまい、あのメガネ屋さんに行ってみるとお店は跡形もなかった。 普通の眼鏡店で普通の近視用メガネを作ってもらい、そのうちには周りの人達もルイ子さんが大人になったので話かけてくれるようになった。 相手がどのように考えて思って言っているのだろうかと考えながら話をするなんてとても疲れる事だし、逆に、話す方としても聞き手が額面どうりに受け取ってしまい往生するのもしんどい事で、そこはそこ、”大人”同士の会話で、円滑な関係を結ぶ一つの方法がルイ子さんのメガネをかけてみる事かも知れない。 でも、露骨に相手を一皮めくって写し出すこのメガネは、ちいとばかし強すぎて対人恐怖、人間不信に陥りそうだ。 しかし、お互い気に入らない者同士がメガネをかけて対論した時には、血を見るか、双方が理解しあい肩を叩き乾杯し合う関係になるかのどちらかだろう。 メガネ抜きで双方大人同士の話の場合、相手は「多分〇●◎◇☆と言っているのだろう」と想像してのものだけれど、メガネが有った方がよりはっきり分かって良い事もあると思う。 例えば調子の良い政治家の話を聞く時。 例えば企業のえらいさんが謝罪している時等々。 さらっと読むと『ルイ子さんのメガネ』はこんな事を描いているとは思えないけれど、鈍視用メガネをかけて読んで見ると樹村みのりさんはそこまで実は描きたかったと・・・そんな事はないか。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 『無花果の木』 (1982年 デラックス・ボニーター 3・4号 掲載) 長女は見そめられて大きな家に嫁ぎ、三女の可南子は教員になりたいと言い、次女のヤスエは東京のお屋敷で女中奉公しながら親に送金している。 そんなヤスエが母の薦める縁談で結婚した。 二人の新居生活を訪れた母は、借家の庭には真面目で優しい旦那(義一)の夢だった実のなる木が植えられ、ヤスエと義一の他愛ない話を見て幸せな家庭だと思った。 戦争が始まり、義一は南方の戦地に送られていった。 ヤスエは借家を引き払い、実のなる木と共に実家に引っ越した。 数ヵ月後、ヤスエが懐妊していたと判り近所の小母さん連中が「誰の子だか」と中傷した。 空襲警報が鳴る中、女の子を出産した。 配給物資では満足な栄養を摂取出来ず、母乳の出は悪かった。 夏の暑い盛り、初老の父母まで勤労奉仕に狩り出される中、家にいたヤスエは火のついたように泣く子をあやしていたものの、疲れてしまい眠ってしまった。 二階で寝かされていた赤ん坊は熱射病に罹り亡くなった。 中傷小母さん連中が「悪口を言っている」のが聴こえると思うヤスエ。 空襲が烈しくなりヤスエの父の郷里に疎開した。 ヤスエは落ち着きを取り戻した。 ここで玉音放送を聴き、敗戦を知った。 家は跡形もなく、一面の焼け野原。 一年程経った頃、痩せきった義一が還って来た。 一年後、和子が生まれ、さらに翌年、友子が生まれた。 都下の借家でヤスエ一家は生活を始め、父と娘達が庭になる無花果の実をもぎ取る嬌声が聞こえる幸せな家庭だった。 母が近くまで来たので、孫の顔を見に寄った。 孫達は焼き芋屋さんごっこをして遊んでいた。 ちゃぶ台で母の手土産を四人で食べようとしている時、友子がお茶をこぼした。 ヤスエは言葉強く叱った。 母をバス亭まで送って行く途中の焼き芋屋さんで九里よりうまい十三里半を買ってもらった和子と友子。 父親は当初反対していたが、父自ら聞き取りまでした結果、反対する理由がなくなった可南子の結婚式が終わった。 落ち込む父親。 小学二年の友子が、急にお祖母さんに会いたくなり、お祖母さんの好きな白餡饅頭をお小遣いで買って、七つ離れた駅の祖母宅に突然やって来た。 聞けば、家には誰もいなかったので言ってこなかったと言う。 二年後 亭主が亡くなった。 母はヤスエ家族と同居する事に決めた。 和子六年生。友子四年生。 あわて者で粗忽者でお転婆な友子は、ヤスエが自分を好いていないと思っていた。 ある日、母はヤスエに「友子に厳しすぎないかい。扱いが違いやしないかい」と聞いた。 「上の子は手が掛からず何も心配していないけれど、あの子は乱暴者で女の子らしくなく、何を考えているの判らない。言う事を聞かなかった時、”友子でなくて上の子が生きていればよかったのに”と言ってしまった事がある。それから友子は私から遠ざかるようになった」 母は、過失で子を亡くした自分を責めているヤスエを思った。 庭の無花果の実をもいでお祖母さんにあげる友子。 「お父さんは、あんた達が大きくなったら食べれるようにと、木を植えたのよ。あんた達が大好きなんだね」 「お母さんもそうかなぁ?お母さんは私の事、好きじゃないと思う」 「『無花果は夏のはじめに実の中に小さい白い花をいっぱい咲かせるの 今 食べているのはその花が育ったものなのよ』お母さんも友子ちゃんを可愛いと思っているけれど、心の中で思っているから友子ちゃんには分からないかも知れない。でもいつか分かるようになるわ」 ”無花果”の実を割ってみると粒々が有るけれど、これが花だと言う点を、ヤスエの自責の念と乱暴者で言う事を聞かない友子への思いを重ねて描くのは上手いと思うけれど、だらだらと余分な物語を入れているようで過失で亡くした子への自責抜きでも別に描けるし、戦前戦中を舞台にする必要もなければ、三姉妹の可南子も要らないし・・・。 ただ、戦争をはさんだ何の変哲もない平凡な市民の暮らしを描くと言う事では、これらを入れる事によって成り立ってはいる。 可南子の結婚式の写真を母が見ている傍で、日差しのさす縁側に座り、足の爪を切っている父の1コマは小津安二郎さんぽく、『夏の一日』(1981年)の風鈴の音が鳴る1コマ同様、琴線にふれる味のある絵だ。 余談だけれど、知り合いの者に見合いを頼まれて聞き取り調査に来た小父さんが、真面目な良い男が旦那候補だと知って「うちの娘にどうかね」って小母さん言われて「決めてきたわけじゃない」からと言って、向かいの娘さんを止めにして小母さんの娘に変えたってのは、そんなの有り? 向かいの娘さんが知ったら、大都会の「隣は何をする人ぞ」は今日の話で、戦前ぐらいならいくら都会でも(舞台は地方都市みたいだけれど)ばれそうだ。 この調子の良い小母さんが娘のヤスエが可愛くて、孫が可愛くて”無花果”の話をしているってのは「まぁ〜た、調子の良い事で・・・」って思ってしまう私って「樹村みのりさんの作品は本当に良いなぁ〜」と思う読者からすれば「カ エ レ 帰れ!」の罵声をあびそうだ。 余談の余談だけれど、エデンの園でのアダムとイヴは禁断の実を喰ったら急に恥ずかしくなって、無花果の大きくて、臍下三寸(”へこ”の事)や瑠璃光如来(”へき”の事)を隠すには良い形の葉っぱで覆ったらしいけれど、禁断の実は”林檎”って言われている。 (隠語の参照本は『わん声犬語』の一番下に書き込んでいます) でも、喰ったとたんに「あれぇ〜恥ずかしいぃ〜」となり慌てて隠したんだから、林檎じゃなくてこれは確か世界で一番最初の栽培果樹らしい無花果を喰ってたんだと思う。 だって、裸でいてられる気候の中、林檎の木に実が生るの? 生ったとしてもそうそう都合よく、林檎の木に並んで無花果の木が生えてるか? そこで阿呆な私がそう疑問に思うのだから、ひょっとすると誰か論考していないかと思い、十坪ばかしの個人図書館(早い話が、今店番しているこのお店に並んでいる本)で探して見たら、少し黄ばんで売り物になりそうにない『旧約聖書がわかる』(AERA・ムック 1998年 朝日新聞発行)に「樹木・・禁断の実は本当にリンゴだったのか」とそのものずばりの小論が載っていた。 著者は多田智満子さん。(慶応大文学部卒・英知大教授) これによると、ローマ・カトリック圏内の国々ではラテン語訳聖書が用いられ、ラテン語でリンゴを意味するコトバは果物一般をさす言葉であり、欧州ではリンゴは果物の代名詞。 無花果は旧約聖書の中で名指された最初の植物であり、楽園の章では他の果樹は記されていないと言う事は、楽園に生えていた唯一の果樹は無花果である。 その上、地中海周辺諸国では無花果は最古の果樹であり、生命樹として神聖視される事が多かった。 無花果以外に旧約聖書に載せられているものは、ザクロ・ナツメヤシ・オリーブ・ピスタチオ・アーモンド等。 ヨタム寓話によると、木々が王を選び、オリーブが一番。二番が無花果、三番がブドウ。 でも、重要な果樹であるオリーブはそのままでは喰えるもんじゃない。 ブドウはワインの原料だから重要だけれど、これまた酸っぱくて喰えたもんじゃない。 木々の王の候補から外されているけれど、ナツメヤシは”フェニックス”と言われるほどの見事な樹木で、果実は甘くて栄養に富、保存も利き、発酵酒にもなる。 そして『垂れさがった実の房をいっぱい盛りあがらせたこの木は、いかにもおびただしい乳房をもつ原女神といった趣がある。』と豊饒と繁栄を想わせる木で、正義と信仰の象徴でもあり、パレスチナを代表する植物。 と言う事で、多田智満子さんはリンゴに疑問を持っても、無花果ですとは言い切る事も出来ず、何故かナツメヤシを褒めまくっている。 学者さんの論考って、ほんま、・・・・。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 『冬の旅』 (1983年 デラックス・ボニーター 5号 掲載) 中原が勤める出版社にサークルの後輩近藤が入社した。 近藤が、中原は羽沢と結婚したものだと思っていたので聞くと「勝手にのぼせていただけで、卒業したらそれっきり」 そう聞いた近藤は嬉しそうに「六年も前の話・・・だね」 羽沢を忘れ切っていない中原は、そうあっさりと言われるとこたえた。 学生の頃から憧れていた近藤は中原にそれとなく想いを伝えるが、気付かない中原。 思い切って伝えたその夜、中原は近藤を部屋に誘った。 秘事が終わった寝床の中で近藤が「君を大切にする。辛い目にあわせない」の言葉に中原は動揺した。 翌日、旅に出た。 一週間ほどして戻ってみると、部屋の前に近藤がいた。 「今でも、羽沢が好きなの?」 「彼とは関係ない。 昔の私も、肌を合わせるその事に込めた思いは相手も思っていると勘違いしていた。 学生時代の我がままで甘えた自分を卒業と共に卒業しようと決めたのに、後戻りする所だった。 あの時、仕方がないと同情的に受け入れられていたのか判ったはずで『大好きな人に受け入れてもらえなかった時、自分がどんなに相手にとってやっかいな人間か知ったはずなの。 なのに、さみしいものだから そんあ自分でも好きになってくれそうな人を探して甘えようとしていたんだわ』」 「自分の事を言われているみたい。羽沢をまだ好きなんだ」と言う近藤に「そうかも知れないけれど、これと受け入れられない事とは別の事」と沈んで答える中原。 泣き面に蜂のような気分(?)の近藤は部屋を出て行く。 珈琲を点て、大都会の夜景が広がる窓辺。 そこに映る自分の姿を視る中原。 まさか、中原は身をもって近藤に獅子の子落としをしたわけではないのだろうけれど、結果的にはそうなってしまった? 反対給与を期待している思い入れ、思い込みほど始末の悪いものはなく、これを学んでいたはずの中原が、近藤を例え一夜と言えども受け入れた事はよろしくない・・・と思う。 学んでいたと思っていただけで、なぁ〜んも身についていなかった。 我がままではなかったにせよ、甘えた自分がそこにはまだ残っていた。 おかげで、近藤は怒りも忘れ、泣く事も出来ず、呆然自失。 近藤君、まぁ、寝床で女の背骨の数を数えた想い出は金庫の奥深くに仕舞っておいて、次に行ってくれ。 だからと言って、蛙の面に水、とまでなれとは言わんが。 もてる男だから、寄って来る女に不自由しないだろう。 でも、ただ淋しいだけでその気もないのに(愚息の事ではないよ)中原の如く閨を共にするのはやめようね。 すれば、相手を代えての異性への復讐だ。 ちょうど、意図しなかったとは言え、中原のように。 揺れる中原は窓辺に映る自分を視て後悔するな。反省してくれ。 にしても、中原が暮らす十一階建てマンションは立派だ。 さすがに、高級取りが多いと言われる出版業界に身を置くだけある。 (1973年、秋田書店は当たった”ドカベン””がきデカ”で本社ビル・・・(通称”ドカベン・ビル””がきデカ・ビル)・・・を現在地(東京都飯田橋)に建てた!!) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 『ジョニ・ミッチェルに会った夜の私的な夢・・・』 (1983年 ボニーター・イヴ 7月号 掲載) ジョニ・ミッチェルさんが来日公演すると友人から連絡が入ったものの、黄村うねりコト樹村みのりさんは今でもレコードが発売されれば買う熱狂的陶酔者なのに、今さら”ジョニー〜”って騒ぐ歳でもないしって事で行くのを渋っていた。 『他人のことで気持ちを乱され』たくない、『わたしも 年をとって 昔より賢くなった』『誰かを好きになったり夢中になったりなんて もうこりごり そんなことより もっと自分を大切にする生き方をしなくては・・・ね』なんて無理して受話器の向こうの友人に答えたりしたものの・・・・。 結局(友人に誘われてではなく)友人を誘って、武道舘へ。 『ウッド・ストック世代』が多いと思っていたが、意外にも少なそうだった。 音が良く聴こえる席を友人が取ってくれていたのだが、一曲目が終わっると、もっとジョニさんが視える所にいてもたってもいられずに移動した。 1968年、ラジオで流れる”青春の光と影”を訳詩とともに聴いて以来ず〜と付き合っていたので演奏される曲のほとんどを口ずさむ事が出来た。 ジョニさんには他の歌い手さんには感じられない親しさのようなモノをずぅ〜と感じてきた。 『青春の光と影』 お月さまに6月 でも気がついてみれば,まるで違うその姿 私は両方から恋を見てきた どうせこの世は ただの夢
私は”ウッド・ストック世代”と言う言い方をあまり聞かなかった。 米国で1969年8月、四十万人の若者が集結した史上最大のロック・フェスティヴァル、”愛と平和の三日間”の祭典からつけられた言葉で、日本でも富士山麓でウッド・ストックもどきが行われたと記憶する。 この頃の青年は結局、次の書名を並べてみれば判るように、伝統と権力にしがみつく大人に対し、理想に燃える情熱的な青年ってなわけですね。 『不条理に育つ』 P・グッドマン著 平凡社 1971年11月25日発行 『生まれながらの敵?・・若者と世代の隔絶』 アレグザンダー・クライン編 早川書房 1972年5月31日発行 『緑色世代・・・ぼくらの眼で見たもの』 マイクル・ジェキャン編 早川書房 1973年3月15日発行 『緑色世代』 チャールズ・A・ライラ著 早川書房 1974年11月30日発行 『青年の異議申し立て』 ケニス・ケニントン著 東京創元社(現代社会科学叢書)1977年11月25日発行 ただ、ウッド・ストック世代と呼ばれた米国の青年は、あくまでも中流家庭で育った者達で、その意味では”全共闘世代”と言われた日本の青年達・・・(勿論、米国の中流家庭と日本のとではえらく中身が異なるが)・・・もほとんどが中流家庭。 茶化すわけではないが、燃える為には余裕が必要だった。 そしてその後を見ていると、米国は灰の中の燠火が再び、例えば先日の大統領選でケリー候補を押した都市部の政治的に穏健な革新を目指す、自由主義で規律・習慣・権威等にとらわれない層(リベラル)のかなりが燃えたのに比べ、日本は・・・・のように私には見える。 夢の解釈の中で『”愛”という名のもとの わがままや依存 ”尊敬”という名のもとの盲目的な服従 自己放棄・・・etc』と黄村うねりは書いています。 続いて、真っ黒に塗り潰したコマに、晴れ着の女の子を浮かび上がらせ、白抜き文字で『あなたを好きでうれしい』と二回書き込まれています。 『Kの世界』(1980年)から三年。 この間、”尊敬”と言う言葉を使わなかったように思う。 『犬・けん・ケン物語』(1978年)で「神はいない」と書いてから五年かかって、別な”尊敬”をとらえるようになった。 三十歳前後の樹村みのりさんは、感性から悟性そして、悟性的意識は自己意識へと進む内的変化を行ったように思う。 適当におちゃらかした”黄村うねり”と言う名を使ったのはその一つの表れ・・・かもね。 |
そろそろ、The Daily Drool のクリスマス・カード交換の下ごしらえ準備にかからないといけない時期になって来ました。 で、けっこうマメに『ほんなら・・・ほんでも・・・』を連載して来ましたが不定期になりそうです。 |
24回目も、 『樹村みのり』さん・・・]V です。 |
この車に乗って往き、 ”本”の事でも、 ”わんこ”の事でも、 何でも書いて(掲示板)おくんなはれ。 |
「お手紙は、この”HONDA1300クーペ9”で運びます」 |
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