第四部 東大反百年祭闘争を闘う 第3章 今道弾圧執行部の「失火」・「暴行」事件のデッチ上げによる反百年祭運動圧殺攻撃との闘い 

見出し

政府・文部省、サンケイ新聞、今道・文執行部による「失火キャンペーン」と文学部闘争への圧殺攻撃
(『冒陳』第2章)第4節 今道学部長の処分策動とそれへの反撃
「真理探究」に名を借りた弾圧と排除をこととする今道
9.22火災についての消防署の「最終判定」
反撃の闘い―文有志の「 今道一派打倒! 闘争キャンプ 」、学友会の「 今道退陣要求 」 300署名、学大で長期スト決議
今道による刑事事件デッチ上げによる闘争弾圧策動
78年末から年明けにかけて、処分反対運動の高まり
東京地裁からの「証人召喚」攻撃
文教授会が処分案上申、3名がハンストに突入、2.14弾圧 
3・27 「 総長声明 」、我々の「 中間総括 」
卒業、就職、進学等の問題

政府・文部省、サンケイ新聞、今道・文執行部による「失火キャンペーン」と文学部闘争への圧殺攻撃

9.22火災の発生後、文学部学友会では、9月27日学友会委員会決議に基づき文学部学友会調査特別委員会を設置し、事態の糾明に乗り出した。

そして、9.27、10.18の二度にわたる学友会委員会で明らかにされた調査特別委員会の報告資料をもとに、学友会常任委員会は10月26日、『 9.22学部長室火災をめぐる第一次調査報告 』を発表した。(別添「資料Aー5」参照。

以下では9.22以後の過程を『冒陳』( 「資料Bー1・『冒頭陳述書』」 ) 第二章「9.22火災以降の諸弾圧と処分策動」から引用するが、『冒陳』に記載された内容も10月26日以降に明らかになったことを除き、多くをこの学友会常任委員会による『 9.22学部長室火災をめぐる第一次調査報告 』に基づいている。 以下は『冒陳』第二章第1節~第4節1.の引用である。

「 第1節(冒陳第二章) 今道による火災直後の諸弾圧
1、 全面ロックアウト・学生側の現場検証立会い阻止
火災直後、教授会メンバーの多くは、火災が座り込み闘争を継続していた学生による失火であると臆断していた。9月25日から一週間の法文Ⅰ、Ⅱ号館全面ロックアウトは、学生の自治活動を保証する場である文学部学生ホール、さらに学生の日常的な様々な自主的活動の空間として活用されていた諸学科研究室等からの 学生の排除としてあった。それに込められた意図が学生の自治活動、とりわけ反百年運動の妨害にあったことは、9月22日当日は文学生ホールが使用できた 事実から、またその後の経緯から十分推察しうる。

22日当日、警察の現場検証に学友会副委員長、同書記長は従来の慣例にのっとり、立会を要請した。ところが教授会メンバーは学生を突きのけるといった形で現場検証への立会いをほとんど暴力的に拒否した。この現場検証立会い拒否は、教授会メンバーの 「学生の失火」 なる臆断に基づく 「学生への不信感」 と、学生自治活動の妨害の意図からなされている。これは、従来の慣例を無視した点でも 、また、教授会が学生側の責任追及を当初から口にしつつも、この立会い拒否をはじめとして、火災についての情報を独占し、公表しなかった経緯から見ても、不当なものと言わざるを得ない。また、現場検証以前にパトカー2台分の書類が持ち出されていることが挙げられるが、このような不当な措置をチェックする可能性を学生側から奪ったこと一事でも、この立会拒否を不当なものと断じざるを得ないのである。p35

1週間ロックアウト、現場検証への学友会の立会いの阻止の措置において、当時文学部長の座にあった今道友信が主導的な役割を果たしていたことは明瞭である。それは今道友信名のいくつかの文書等に表れている見解によっても確認できるし、火災直後発足した対策委員会(小委員会として中期対策委、長期対策委。委員長はそれぞれ、梅丘、辻村評議員)の委員長として今道学部長がいたことからも断定できる。

2、 立て看破壊・ 撤去、9・25集会に対する教授会の妨害
教授会は9月23日から9月24日にかけて、法文Ⅱ号館周辺の立て看(立て看板)を全面的に撤去し、破壊した。立て看はビラ等とともに、学生側の表現媒体の中心的な存在であり、 破壊された立て看の多くは 反百年運動の意志、思想、要求を現に表していた。この立て看破壊は、その後、10月18日に至るまで教授会メンバーが夜こっそりと立て看を撤去するという事態として継続される。それは学生側の表現媒体、あるいは表現自体を破壊し、討論、活動を保障する最低限の空間を奪い、学生の自主、自治活動、とりわけ反百年運動に対する全面的妨害の一環としてあったのである。

この立て看破壊・撤去の理由として、教授会メンバーは、「立て看は可燃物であって危険であるから撤去する」といったことを提示しているが、大学には背広を着た可燃物が我が物顔で右往左往し、活字を刻印された可燃物がうず高く蓄蔵されており 、この可燃物に満ちた空間の中で立て看の移動―隔離などは可燃物撤去に何の有効性ももたない。立て看の破壊もまたそのような理由では正当化できないことはいうまでもない。 それは、まさに反百年運動に対する弾圧としてあったし、 4・20文部次官通達の指示に沿うものだった。

9月25日、学生側は、一週間のロックアウト、現場検証立会い阻止 、立て看の破壊等に抗議し、 また9・22火災を口実とした運動に対する弾圧を抑止することを目的として集会を開催した。それに対して、当時の文学部長今道友信をはじめとする文教授会メンバーは、学生側を火つけ呼ばわりし 「(大学から)出て行け 」 と叫び、あげくの果てには、学生を押し出さんと 、小突く、蹴る等、集会を暴力的に妨害した。学生側はあくまで集会を貫徹しようとし、もみ合いの中で、学生側に時計の損壊等の 被害が出た。この時、今道学部長は教授会メンバーの最先頭に立っていたことから、今道学部長のこの集会妨害における積極的、主導的役割がうかがえる。

この集会は、大学当局が火災の事後措置と称してなしていた不当な弾圧に抗議し、今後それを抑止せんとして行われたものであり、学生側の当然の権利としての集会を侵害することはまったく不当なものと言わざるを得ない。

3、文ホール夜間ロックアウト
火災の事後措置と称する大学当局による学生自治・自主活動に対する妨害は、法文二号館の一週間の全面的なロックアウトに継続して、文学部学生ホールの夜間ロックアウトとしても現出した。

10年にわたって、学生が24時間、自治・自主活動の場として使用してきた空間を、それが火災現場とは何ら関わりを持たないにもかかわらず、1週間ロックアウトし、さらにそれ以後午後5時以降ロックアウトし、学友会の闘いによってそれを維持することが困難となるや、7時に消灯し、学生を追い出すといったことは正当化されえない。今道学部長は文学部長名による掲示の中で、「学生が反省せずに出入りしているため」との理由を提示しているが、火災が学生による失火であるということが明瞭になった段階でならばともかく、原因不明の段階でそのような措置を取り、学生に反省を強要することは臆断に基づいた一方的な断罪でしかない。

また、その理由をもって、学友会全般の活動に対する妨害を為すことは論理的飛躍であり、学友会の反省を求めるならば、 原因不明の段階で何についての反省を求めるのかを明示し、その当否について学友会側との討論をする必要があろう。当時、今道学部長をはじめとする文・教授会は、団交をはじめとするあらゆる討論を避けており、そのような状態で文・学生ホールを5時以降(後、7時以降)ロックアウトすることは、学生の自治・自主活動に対する不当な侵害でしかない。 p37

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第2節(『冒陳』第二章)  9・22火災、及びその原因
このような論理的飛躍と臆断に満ちた姿勢によって、反百年運動を鎮圧せんとするものであると断ぜざるを得ない諸「措置」をなしていく文・教授会 、とりわけ今道執行部は、このような中で学生処分策動を進めていくのである。その処分策動の契機となり、最後までそれに連関させて、学生処分を講じようとした9・22火災とはどういうものであったろうか。

1.9・22火災
火災前後の状況を簡単にまとめてみよう。
22日午前5時頃東大病院北病棟で、6時頃農学部で、6時6分頃文学部で火災ベルが鳴った。またこの頃「農学部が火事だ」と若い男の声で安田講堂内警備本部に怪電話。
6時12分頃各消防署から出動。15分頃消防車10台前後農学部に入る。18分頃消防車が農学部から移動、正門から入り、25分頃消防士が室内放水を学生と交替。 30分頃消防車が外から放水開始。
7時~7時半、付近にいた学生を本富士署が強制連行。7時35分頃鎮火、40分頃パトカー2台で書類を運び去る。 同日午後1時から現場検証。10月4日再現場検証。

いくつかの不審な点が浮かび上がってくる。それらを列挙してみよう。

(1)ほぼ同時に学内三ケ所で火災ベルが鳴っている。
(2)「農学部が火事」と通報したのが誰なのかは全く不明であり、消防車が初め農学部に入ったため消火活動が遅れている。
(3)現場検証の一回性の原則を破って、2度も検証している。(書証第3号) p38

2.火災の原因は不明である。 p38
火災直後から、文・教授会、マスコミ等が「学生の失火」 とする予断をもっていたことは、文・教授会の対応、マスコミの記事によってはっきりしていた。そして、政府-文部省もまた、そのような臆断のもとに、学生の厳重な処分、損害賠償請求等を指示していた。 そのような中で、消防署からの情報等、火災についての情報は大学当局により独占され、学内にはほとんど公表されなかった。

そして12月末の消防署による最終的な原因判定書において、9・22火災の原因が不明であるとされたことも、なぜか首都圏の新聞では報道されず、わずかに信濃毎日新聞、南日本新聞において、遠隔地域において報道されたものであった。

しかし、ともあれ消防署は火災の原因は不明と判定した。

〔中略---火災原因について後でふれる〕

第3節(冒陳第二章) 政府・文部省の動き
ここで、火災直後から学生処分・損害賠償を指令し、後には刑事事件による弾圧を鼓舞した政府・文部省の動きを見ておかねばならない。

1. 9・22火災に至るまでの動向
文学部長室座り込み闘争が開始されたその前日の1月26日、サンケイ新聞が東大病院精神科病棟(赤レンガ)の自主管理を中傷するキャンペーンを繰り広げ始めた。自民党、新自由クラブなどが直ちに国会で取り上げ、さらに文学部問題を含め様々に「東大正常化」を政府に迫った。p40

3・26三里塚闘争以後、政府・文部省は過激派狩りキャンペーンを行いつつ、4・20文部次官通達をはじめとして全国大学に対する管理の徹底強化を指示した。とりわけ東大に対しては、自民党議員津島によるスパイまがいの「調査」(4月18日)、文部省会計課長による「会計検査」(5月2日)、超党派国会議員団による「調査」など、不当介入が続いた。また向坊総長の国会喚問がこの時期に行われ、 管理強化が要請されている。

これら政府・文部省 、自民党などによる攻撃は、有事立法攻撃をはじめとする全社会的治安再編に並行して、全国大学の管理強化と数年来続けられている移転再編の更なる推進の一環としてかけられたものであった。東大に対しては、百年記念事業‐百億円募金をテコとする東大再編を支援・推進するとともに、管理強化を目指すものとしてあった。しかしそれらは文学部における反百年・反募金闘争の高揚などに直面し、その意図を貫徹できなくなっていた。

2. 9・22火災以降の直接指令
9・22火災が発生するや、連続して閣議が開かれ、多くの予断と偏見により 「占拠学生の失火」等々の決めつけがなされた。9月26日には、砂田文部大臣が「失火学生の厳正処分、損害賠償請求」を東大に指示している。すでに22、23日の閣議でも環境庁長官や法相などが「 東大はビラや立て看で汚い」、「東大は無秩序状態だ」 等の発言をしており、政府・文部省が火災原因の究明を飛び越して、いわば“火事場騒ぎ”を利用し学内の闘争に対し強権的に介入しようとしたことは明らかである。それは、1月より続いてきた東大への管理強化攻撃をさらに飛躍させようとするものであった。

この政府・文部省の指示に呼応して、今道学部長は、その時期およびそれ以降学生処分をはじめとする攻撃を推進していくのである。

さらに10月24日文部省は「学生が長期に渡って文学部長室を占拠するという不法状態が続いていたことや、火災当日学生が泊まり込んでいた事実---から 火災原因が占拠学生によるものであることは疑いがない。」(佐野大学局長)、「東京大学が今回の事件に適切に対処するとともに、これを契機として----毅然とした態度で大学の使命を果たすことを強く期待する」(砂田文相、いずれも10月25日付サンケイによる)として、向坊総長、今道文学部長他9名の処分を発表した。

これは処分対象者の異議申し立ての手続きを端折ってなされた「異例な」かつ「前代未聞の」大量処分であった。また火災原因は不明のまま一般的に「建物管理の不行き届き」の責任を追及する内容のものである。(火災原因が不明の時に管理責任を問うことは、当局が管理していればいかなる火災もありえないとすることであり、不合理である。) これらのことから見て取れることは、まずこの当局者への処分が、処分がなされた翌日のサンケイが「残る課題は学生処分」 とキャンペーンしたことからもわかるように、学生処分を推進するための布石であった。学生処分を早く行わせるために、それは急いで出され、学生処分を有無を言わせず(処分となる特定の行為は何か等々全く不明瞭である)行わせるために、正規の手続きを無視し(例えば東大の会計課長等が文学部坐り込み問題に何らか関与し一定の態度を取る立場にあったとは到底思えないが)なされたのだ。

さらにその当局者処分は一般的に建物管理の責任を問うものであり、従って火災と直接の関係なしにとにかく大学の管理強化を大学当局に命令するものであった。ここに、総長の従来取ってきた一定の「対話の姿勢」はおさえつけられ、今道学部長の むき出しの弾圧路線、すなわち学生との間で問題となった事柄を真摯な討論を通じて解決していくのではなく、自らの考えを一方的に力ずくで押し通しそれを阻止しようとする者には弾圧を加えるというやり方が幅を利かす状況が作られることになったのである。p42

だが、 これらの政府・文部省の号令を受けて進められた処分決定は、12月末にいたっても出されなかった。文学部での処分粉砕に向けた学友会の闘いの高揚、全学の反対の声、教官内にも反対の声が上がり、当局者内部においても医学部長の反対の確認書など亀裂が広がり、12月末の消防署の原因判定書も火災原因は不明とする中で、処分は出せなくなったのである。そのような状況の中で、年が明けた1月末から2月初めにかけて、政府・文部省は再々度東大への介入・圧力を強化してきたのである。

1月31日内藤文相は、あらためて東大に対し学生処分の指示を行った。また2月3日には赤レンガに対する「正常化」指令が、2月5日には東大三鷹寮に「ゲバ棒が集められている」という全く事実無根の発言が、国会で相次いでなされている。こうした政府・文部省、また国会をも通した東大への攻撃は、文学部における学生処分のみならず、刑事、民事責任を問うなどあらゆる形で東大を「正常化」していくことを求めるものであった。

9・22火災以降、 政府・文部省は何度も東大当局に叱咤号令をかけ、学生処分、刑事、民事責任の追及を執拗に繰り返した。これらは全て、赤レンガ自主管理闘争への弾圧キャンペーンから始まる一連の「東大正常化」攻撃の延長線上にある 。数年にわたって続けられてきた全国大学の移転等による再編、4・20文部次官通達に端的に表れている大学管理強化攻撃の東大版がこの政府・文部省の攻撃に他ならない。東大においては、百年記念事業‐百億円募金をテコとした再編合理化がもくろまれている。その再編を支持し、かつ管理をより強化して行こうとするのが、これら政府・文部省の弾圧号令の意味である。

この政府・文部省の路線に応え、また積極的に推進して行こうとしたのが、東大においては今道学部長であった。その論文で「勇気を出して不正の告訴と処分に励むのでなければならない」とする今道学部長は、今回の事態の中で全く孤立しているにもかかわらず、処分を強行しようとし、また被害届を提出し警察力導入による逮捕まで行なってきた。その今道学部長の孤立をカバーし、彼を鼓舞したものこそ、政府・文部省の相次ぐ弾圧指令だったのである。p43

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第4節(『冒陳』2章) 今道学部長の処分策動とそれへの反撃

1. 今道学部長の処分策動
a、 「失火」処分から不法占拠処分へ
9・22火災当日、今道学部長は文学部長名告示の中で 「----- 文学部は出火の原因が明らかにされるのを待って、その責任を徹底的に糾明する所存である」 ことを表明した。この時期、教授会メンバーが学生に対して「お前たち、火を出したな。」と発言し、各新聞が「学生の失火か」と報道するなど、学生による失火という雰囲気が支配していたことを考えると、学生の失火という憶測のもとに責任糾明が考えられていたことは疑いない。

この火災当日、文学部臨時教授会が開かれ、今道学部長を長とする「火災事故に伴う事後措置に関する対策委員会」が発足した。これは、休校措置や事務員の配置等緊急対策を検討する第一委員会と、10月以降の授業計画・学生問題等中期的対策を扱う第2委員会とに分かれていて、それぞれ梅岡、辻村両評議員を 委員長としていた。また、「責任問題検討委員会」も発足し、10月初めには「学部長と占拠を続けている一部学生に責任がある」との答申を出している。これらは総じて今道学部長のリーダーシップのもとで学生の「責任糾明」を行おうとする体制が即座に準備されたことを示している。

他方、9月26日の砂田文相の「指示」が失火学生の処分、賠償請求を打ち出した。しかし、火災原因の発表は一週間を経てもなされなかった。そのような中、9月29日に今道友信名「再び文学部学生諸君へ」が出され、そこにおいて今道学部長は、
------出火の直接的原因が何であれ----その占拠に加わったものはすべて何らかの意味で火災の責任から逃れることはできない----(証書第2号)
と述べている。9月22日付け告示から10日も経ぬうちに出されたこの言葉は、当初臆断した失火の可能性が薄れる中で、占拠それ自体を理由とした責任糾明を行おうとするものであった。

しかしながら、その「占拠」していたとすることもこじつけにほかならなかった.。文学部長室坐り込み闘争が行われていた間、当局者はそれを坐り込みと呼び、占拠と呼んだことは一度もない。3月3日の機動隊導入の際の学内広報は、坐り込みを「座り込み」と表現し、この年6月に国会喚問された向坊総長は「座り込みは民主主義の突きつけである」、「異常事態とは考えていない」などと答えている。

今道学部長自身、4月3日付「文学部における昨今の一連の事態について」では一貫して「座り込み」と呼び(書証第5号)、また数回出された学部長室からの退去命令でも「座り込み」をやめろとしていた。それが9月22日付文書で「『座り込み』占拠」という言葉に突然変わり(書証第6号)、 9月29日には占拠となっているのである。

これらのことを見るとき、わざわざ占拠と表現し始めたことは、坐り込み闘争そのものを不法とし、刑事事件の対象、あるいは学内における処罰の対象とするためのこじつけと言うべき措置であることは歴然としている。そして、失火による責任糾明が無理と見るや、坐り込み闘争を不法占拠とこじつけて何とか責任糾明できる口実にしようとしたのである。

その責任糾明とは何だったのか。9月26日の文相指示が学生処分を要求する中で、10月7日、今道学部長は東大新聞のインタビューに答えて、「ルール不在で処分ができないのならば、世界中の悪者はみんな東大に入ればよいことになる」という趣旨の発言をして処分を行うことを公言し(書証第7号)、また10月17日には一学生に向かって「退学の覚悟はできているだろうな」と発言している。

今道学部長が学生処分によって責任糾明を果たそうとしていたことは、これから明らかであろう。 さらにその処分の理由とは、原因究明を行おうともせずに臆断した「失火」であったし、その「失火」が無理と見てからはこじつけによる不法占拠であった。p45

だが、不法占拠と言うならば、その座り込み闘争の行われたそもそもの理由である文学部教授会の募金非協力確認空洞化に対して、自らに突きつけられた問いに答えることが必要であろう。それもせずにただ処分するというのでは、「占拠」を処分するための口実としたと言うしかなく、9・22火災を利用して学生処分をとにかく行うことを狙ったものと言うべきである。すなわち学生の異議申し立てを封じ込めるための処分策動であり、また政府・文部省の指示に応えるための処分策動に他ならなかった。

b、 失火デッチ上げキャンペーンと実名掲載
こうして今道は失火処分を断念し、かわって不法占拠処分を画策したのであるが、しかし、火災が失火であるとの臆断は捨てず、かつ学生らの反撃により、処分が困難となり追い詰められていく中で、処分のための、あるいは学生分断のための学内世論形成に向けた失火デッチ上げキャンペーンを展開するのである 。

それは例えば、11月6日付「三たび文学部学生諸君へ」に顕著である。当時学生側は、9・22火災が多くの不審な点をはらんでいること、及び原因が不明であることをもって不審火と称していたが、それに対して同文書においては、「『不審火』と呼んで恥じないのは----(中略)----具体的根拠を示すことなく一般の人々を心理的に誘導して火災の原因を曖昧に糊塗することを狙っており、その点極めて悪質なデマゴギーであるとともに、これらの者の知的・倫理的な退廃を余すところなく露呈するものである」とまで決めつけている。

その上で、「火災原因の究明は東京消防庁・警視庁などの専門機関により今なお続けられている。これまで判明したところでは『文有志』集団の占拠宿泊していた出火現場には長時間にわたる緩慢な燃焼を示す焦げ跡が床面に残っており、かつ電気、ガス系統に起因する出火ではないということである。かかる状況から察するに、当夜そこに居合わせた者による失火の可能性が極めて強いことは否定できない」と、「失火」を強調するのである。

ところが、この今道の主張にしても、「失火」の根拠として、長時間にわたる緩慢な燃焼であること、及びガス・電気によるものではないということがあげられているだけであり、 むしろ今道自身が「具体的根拠を示すことなく一般の人々を心理的に誘導して火災の原因」を 失火と「することを狙っている」のである。また現場検証への学友会の立会いを暴力的に拒否するなどしてその情報を独占しておきながら、学生に「具体的根拠を示」せというのは全くの転倒に他ならない。(書証第8号)

この文書に代表されるように、今道は一貫して9・22日火災が失火であったかの発言をし続け、学内世論の形成をはかったのであり、文学部処分上申書添付資料「出火事件経過関係資料」は その集大成であった。

こうして一方では「失火」キャンペーンのばらまきにより文有志・学友会団交実メンバーらと一般学生の分断をはかり、また、他方文有志・学友会団交実メンバーに対しては 「学内広報」や掲示を使って実名を挙げるという個人恫喝を行なっていった。

11月6日の「三たび文学部学生諸君へ」では、大略以下のことが書かれている。
① 出火当夜、「常にリーダー格であった鈴木、『文有志』集団と『団交実』の有力メンバーである三好、森田 の本学部学生が----宿泊していたのである。(この)3名は----「不審火」、「失火デッチ上げ」など卑怯な表現のかげに隠れようと奔走している」
② 「昨年4月の須藤ら『文有志』集団による山本前学部長に対する騙し打ち的な『話し合い』の強要」
③ 「本年7月7日から8日にかけての----鈴木ら『団交実』による徹夜の個人『追及』」

これはいずれも事実に基づかぬ一方的な決めつけであり、文学部長名を付した公文書での特定の個人に対する誹謗中傷を行っているのである。

また12月11日付学内広報においては、12月6日から8日まで「学生ストライキ」を行い授業妨害を行った、との文脈の中で11名の文学部学生の名前を挙げ個人攻撃を行っている。総計すればこの間のべ80余名にも及ぶ学生の名前を「学内広報」に掲載し個人攻撃・恫喝を加えているのである。

これらはいずれも、この間の今道自身の弾圧路線・処分強行策動などに対して学生の間で高まってきていた批判と、とりわけ「今道執行部退陣要求署名」によって完全に窮地に追い込まれていた今道の、切羽詰まった「反撃」ではあったのだが、学生はこの今道の常軌を逸した誹謗中傷により、むしろ今道を完全に見放すに至るのである。

c、学生分断策動
今道が、学生の要求である募金非協力を強硬手段で弾圧して行く上で、必須の要件としてあったのが学生を分断し、学生の団結を阻止することであった。今道は学部長に就任当初から、さまざまにこの学生分断策動を繰り返してきたのであるが、9・22以後の諸弾圧に対して学生の反撃が開始される10月以降、この学生分断策動は繰り返しかけられてくるのである。

「今道退陣要求署名」に対しては、やはり11・6の「三たび文学部学生諸君へ」において
「(学友会常任委・団交実の)意図するところは、署名をいくらかでも集めることにより、 出火を含め自らの現在までの無責任な言動に免罪符を得んとすることであり、さらには今後ますます常軌を逸した行動を学内外で放埒に取り続けるための口実を獲得せんとすることである。もしそうした意図を看過し、これらの者の呼びかけに誘われて軽々しく署名に応じるならば、欲せずして彼らの無責任かつ無自覚な行動の過誤を過去にまで遡って共に分かち担うことになるであろう」
と署名の意図を故意に歪曲した上で、その署名に応じることへの<警告>を発し、その署名に対しあからさまな敵意を表している。

11月8日には暴行キャンペーンが行われた。これら一連のキャンペーンを見ても、自ら追い詰められた末の失地回復を狙うものとして、また学生の分断を目論むものであることは明らかであろう。

こうした学生分断のための 宣伝は、11・22学生大会に向け、学生に対する恫喝にまで至るのである。11月20日には「来年1月末までの期間に学生大会決議などに基づき、授業の放棄・妨害などの行われた場合には、必要な日数を満たすための補講措置を講ずる余地のないことをあらかじめ学生諸君に警告しておく」という内容の文書を郵送し、学生を恫喝して、当時議論されていた今道退陣要求ストライキの決議を学生大会であげさせまいとしているのである。

かかる分断策動が失敗に終わり、学生大会が成功し、今道退陣要求決議があげられ、ストライキに突入するや、今度は12月2日に「憂慮すべき『学生ストライキ』の影響について」と題し、
「文学部学友会委員会は----11月22日の学生大会に、断続的ないしは連続的 『ストライキ』を含む決議案を提出し、これが可決されたとして、まず11月29にち、30日に授業を妨害する挙に出た。これによって来春3月に予定された卒業・進学が憂慮されるの事態に至っている。それにもかかわらず、文学部学友会委員会はさらに今後も同じ行為に出る態度を示している。もしこうしたことが無思慮にもなお実際行われ続けるならば、やがては重大な事態を招くことが予想される」
として、学生大会決議という文学部学生の総意のもとにとり行われたストライキにまで、最終的管理権をたてにしての恫喝を加えたのであった。」 p49

ここまで『冒陳』第2章第1節~第4節1.を引用した。

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「真理探究」に名を借りた弾圧と排除をこととする今道 


闘争弾圧者今道と「世界平和教授アカデミー」を通じた大石、勝共-原理研の関係

さて、「団交実」パンフで書かれていたように、今道は、学大の成立とストライキで追い詰められ、団交の回避/拒否が困難になるや、何か言いがかりをつけることにより団交を直接破壊することに方針を転換した。
7月7日の浜川の暴言は、同席した教授会メンバーも石井学生係・第二委員長も浜川の「不適切」によって事態が紛糾したこと認めており、団交のやり直しをすることになった。
ところが、先に健康診断を理由に退席したまま帰ってこなかった今道は、残った代表団による事態紛糾の原因に関する「確認」文を全く無視し、逆に異常事態をすべて学生のせいだと決めつけ「陳謝」要求をおこなって、この団交をつぶすのである。
団交実パンフでは、今道のやり方を「個性」によるものとし今道と教授会との「乖離」を指摘していた。

(すぐ説明するが)確固とした保守反動の攻撃的な思想に立つ今道は、無責任で事勿れ主義の、彼から見てやる気のない弱腰の教授会メンバーに頼らず、独断で団交破壊に乗り出したのだ。団交実に謝罪しろというだけでなく、謝罪文を用意し署名・捺印を求めるなど、細かい芸の工夫がみられるが、こうした細部も彼が(辻村などを別として)誰にも諮らずに考えたと思われる。
しかし、学友会・団交実は「秋期長期スト」方針を提起し、文学部長室座り込み闘争は夏休み中も貫徹されていて、今道の闘争圧殺路線はいきづまっており、彼は9月に向かって焦っていたはずだ。

10年前の東大闘争中おける「文学部団交8日間の記録」によって今道が示していた彼の学生の闘争に対する敵対姿勢、思想的立場を振り返ってみよう。

学生 「今道先生---あんたはぼくらの闘争に対して〔ストをやり〕授業を受けなきゃ学校を出るべきだとおどしを掛けてるじゃないですか。」
今道 「僕はね、-----三度続けて無届欠席をするようになれば、演習から外すと、---ストライキでもそれは同じだ、と言ったんです。ぼくらの考えがいいか悪いかは他の先生からずいぶん反対されたこともあるから考えてもいるけど、---今も変わりません。」
学生 「じゃですよ。自らそういう風に発言し、また物質的拘束力をもって強制してゆくという行為があったことについて、現在的にどう考えるのか。」
今道 「(笑いながら)若干なりとも、マズイとは思っていないんです。---」
------〔中略〕
林学部長 「教授会として授業をやりたい人〔=教官〕があればやるという申し合わせがあったんです。」
学生 「何言ってるんだ。主体的にどう判断して行動したのかを聞きたいんだよ。」
今道 「じゃ、一ペんだけ言います。僕の考えでは大学はできるだけ研究は続けるべきだと思います。---一緒に学生諸君と真理を研究する。それを一日も休みたくない、ということです」
『砦の上に我らの世界を』p285~287

学生たちが文当局による不当処分の撤回要求を行い、そしてそのためのストをおこなっているのに、今道は、「真理の探究」と称して、授業を強行しストやぶりを奨励していることについて、(ほかの教官からの批判もありながら)「若干なりともまずいとは思ってない」のである。東大文学部教授会が下した学生の人権をはく奪する処分が正しかったかどうかを検討することは、なぜ「真理探究」の中に入らないのか、かれはもちろん問題点を知りつつ、闘争圧殺の言動に居直っているのである。

さらに、彼の自称哲学論文『解釈の位置と方位』(東大文学部研究報告・哲学論文集第二)によると、学生の闘争への敵対は、処分を行うことによって真理探究の場である大学から闘う学生を排除・追放するために行う。

そして、「応報主義の考え方による処分の最大の難点は----不正の念そのものを 直してはゐない、ということである。そこでどうしても罪刑法定主義に止まらず----内面の不正が自らによって矯正せしめられて謝罪し更生することを目的にする教育的処分の理念が必要になってくる。これは例えば大学のように構成員が真理という共通の目的を持ってゐるような共同体では最も適した考え方であって、大学では教育的処分がなければならない。」(p35)

これは被処分者の「反省」を求め、改悛が認められれば復学させる「停学処分」にはあてはまるかのように見える。しかし、教育的処分には、より重い「退学」もある。おそらく反省しない学生は退学により大学から追放される。実際、今道は「研究の妨げになるものは大学から追放しなければならぬ」(前出)、「告訴に励まねばならぬ」(p41)という。(三好君11・7デッチあげ裁判一審「冒陳」第1章第5節、P22参照)

彼の言う「教育的処分」は、「停学」や「退学」の区別なく、「告訴」その他何でもよい、異議申し立てをし、彼等に歯向かい闘うものを大学から排除し、「追放」するための様々な手段の総体に他ならない。

9.22火災後の今道による、座り込み闘争と文学部学友会への弾圧に対する反撃として、10.26に学生集会が行われ今道執行部退陣要求署名が始まると、今道は11月6日付で「三たび文学部学生諸君へ」なる文書を文学部学生全てに郵送し署名をしないようもとめる。そして、今道自身の必修ゼミにおいて「団交実を指示する学生は私のゼミから出て行け」と単位認定権まで持ち出して学生に恫喝をかけた。

今道の、こうした、「真理探究」の名を借りた学生の闘いへの弾圧、敵対姿勢は、最近になって突然あらわれたものではなく、10年前から一貫したものである。今道は、明確な政治的・思想的立場に立って学生運動への弾圧を志向している。

他方、今道は統一協会(1994年に世界平和家庭連合と改称)の「世界平和教授アカデミー」会員であり、反共思想の持ち主であった。〔当時、反百年祭闘争の活動家のなかにも、経済学部のM1君の様に、募金委員長の大石が原理研の顧問であり勝共連合と関係のある人物であることを知っており、彼らの動きについて注意していた者もあったのだが、私をはじめ多くは原理研についても勝共連合についてもほとんど認識がなかった。ここではその後あきらかになったことも含めて書いている。〕

「世界平和教授アカデミー」は勝共連合、原理研などと同様、統一協会と人的・資金的につながりのある学者・文化人組織 で、74年に創設された。134名の教授らが参加。初代会長に松下正寿・元立教大学総長を選出。原案はKCIAが作成したことが知られている。

松下によれば、アカデミー創設の趣旨として「ニセ学者」への対抗を明らかにしている。ニセ学者とは左翼系の学者のことであり、防衛問題を巡る議論の障害になると批判していた。
1976年 「10年後のナショナル・ゴール研究」と題する政策研究を3年間行なう。約二千人の学者が参加。基本的には反共主義に則った安全保障・国防拡張政策の実現計画・提言だった。

東大募金委員長大石泰彦は「アカデミー」の常任理事、三輪知雄元筑波大学学長は参与。 三輪の下で副学長だった福田信之 も会員。1980~84年の福田学長時代は大学の主要ポストが統一教会系の人脈で占められていたとも言われた。同時期、筑波大学では「原理研究会」など統一教会系のサークルのみが公認され活発に活動していた。 Wikipedia「世界平和家庭連合」、「世界平和教授アカデミー」、「福田信之」

募金委員長の大石は東大原理研の顧問でもあった。
原理研は駒場の地では、公的寮を装った「東大成進学寮」(大石が理事)をデッチあげ、教養部学生の抱え込みを図った。77年、大衆的糾弾を受けて放逐されたが、翌年春からは「正道術」、「射撃同好会」などのサークルとして、公然と武装登場した。さらに闘う学友を目黒署との連携の下にデッチ上げ告訴し、権力のスパイたる本質をあらわにした。

彼らは、77年の春、文学部生有志と百年問題で団交を行っていた山本学部長に対して、弾圧要請の親書を送っていた。

「われわれが78年1月末に文学部長室座り込みを開始したときに、部屋の書棚に、原理研が山本学部長にあてた「弾圧要請文」とともに、一冊の文書が見つかったが、それは、「日本の左翼の分裂系統図」などが描いてあり、悪魔の思想云々が解説してある、きちんと印刷された活字資料でした。内容は、幼稚で稚拙なものであり、山本学部長が影響されたとは思えませんが、組織的、系統的に彼等が策動していた証拠ではあります」と、鈴木君が私あてのメールの中で書いている。

78年今道が新学部長として登場してきたとき、かれらがすぐに今道と接触したかどうかはわからない。だが、今道は勝共連合の主催する「市民大学講座」の講師として名を連ねており、かれら原理研にとっては勝共/反共の同志である。学友会の団交要求、文有志の学部長室座り込み闘争に手を焼いていた今道に、何であれ支援の手を差しのべようとしなかったとしたら、むしろ不思議である。

彼等は、12月には、公然と登場し、出所不明の火災現場写真と、今道の作成した「資料」(広報440号)と同様の現場の図の入った文書をばらまき、再度、失火キャンペーンをおこなった。(大衆的に糾弾されたが。)

また、今道が、翌79年1月、文学部で処分を巡って議論が沸騰していた最中に、原理研のメンバーと会って彼らに診断書(後述する11.7事件参照)を見せたことがわかっている。そして原理研メンバーは1月の学生大会向けに「暴力糾弾」なる ビラまきを行った。

また、今道が、学内で、また彼が「アカデミー」に出席した折に、“学問的な” 話をするだけでなく、評議員として募金問題について、募金委員長である大石と話しをしても、何の不思議もないし、また「坐り込み闘争」や学友会「団交実」の反対運動など文学部における学生の闘争/運動が「募金推進」に与えている影響にふれることがあっても不思議ではない。

その際、彼が闘争の先端をなす坐り込み闘争をつぶすうまい手がないか、というようなことを言ったことはないかどうか。「坐り込み」を急に「占拠」と言い換え「9月1日からは不法占拠」といいだしたのは、機動隊の導入(の総長室への要請)などを考えての布石だったのかもしれない。しかし、従来「対話の姿勢」をとってきた向坊総長が応諾する見込みは小さかった。何がなんでも反百年祭闘争を圧殺したい、と考えていた今道が、そのために学部長坐り込み闘争を弾圧するうまい手をひねり出せないか、文教授会メンバーに一切知らせずに考えていたとしても、不思議はないと思う。

演習林で臨職闘争が闘われていた農学部で、何者かによってガラスが数十枚割られた事件があった。臨職闘争妨害のための破壊活動と考えられる。
9.22火災の当日、早朝に、農・文、病院の三つの部局で火災報知機が鳴り、「農学部が火事だ」という若い男の声で通報があった。だが、これら不審人物を警察が確かめようと動いた形跡は全くない。

今道学部長下の文学部教授会、そして政府文部省は一体となって、「学生の失火」という臆断の下で責任追及や処分を行なおうと考えていたのであり、消防署が「原因不明」という結論下し、「学生の失火」ではなく外部の者による放火の可能性が強まったにせよ、それは彼らにとってはどうでもよいことであり、警察に放火の線での捜査を行なう要請をしなかったのは全く当然であったし、また警察が独自に、政府・文部省の意向に逆らって、放火の疑いの捜査を行う、ということもなかった。

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9.22火災についての消防署の「最終判定」


9月22日に火災が発生すると、数々の謎をはらんだ「不審火」であったにもかかわらず、政府・文部省、サンケイ新聞、今道・文執行部による「失火キャンペーン」と文学部反百年祭闘争へのあらゆる攻撃が行われた。
だが、12月の末になって発表された消防署の最終的原因判定書では、文学部長室の火災の原因は、不明とされた。

一般に、火災の原因としては、失火、放火、自然発火の三つが考えられるが、漏電等、 自然発火の形跡は無かったという。また失火であるとすれば、火源から直接的に燃え広がったか、着火物(例えば布団)を媒介にして燃え広がったのかのどちらかである。

消防署の調査では、当初、宿泊者の火の不始末による失火の可能性もあるとして、たばこ、蚊取り線香などで実験してみたが火災には至らなかった。

松田雅雄 本郷消防署予防課長によれば、「出火場所は文学部長室の窓際と確定できたが、火種はあらゆる可能性を考えても否定材料ばかり、タバコか蚊取り線香の可能性を推定できるが、実験でもタバコとか線香では床に火がつかなかった。」と、床に落ちた、たばこや蚊取り線香の火がなどから燃え広がった可能性は否定されている。

他方、文学部教授会の上申した処分案と資料によれば、文・教授会は布団が着火物となったと推定している。つまり、たばこ等が布団に着火しその布団から燃え移った、というのである。

だが、布団のあった場所と出火した窓際とは少なくとも4~5 メートルは離れていて、延焼は考えられず、タバコの火が布団に燃え移り、この布団が火元となって窓際で火災が発生した、というのは無理な推定であることがわかる。

こうして、消防署の判定では、宿泊者による失火でないことは明らかになっている。ではどうして窓際でどのような着火物が原因で火災になったのか。それは明らかにならなかった。そこで消防署は「原因不明」と断定したのである。

われわれは何者かによる放火の可能性を疑ったが、われわれの力でそれを確かめることは不可能だった。それゆえわれわれは「不審火」と呼んだのである。

他方、文・教授会は放火の可能性については、次の論理で否定している。放火には多くの場合、油を使う。今回の火災において油を使った形跡はない。故に放火ではない、と。この論理が飛躍であることは、明白であろう。

油を使っての放火の可能性が否定されようと、放火一般の可能性が全面的に否定されたわけではないのである。例えば、窓の外からキャンプなどで使う固形燃料など、強力な着火剤が投げ込まれたということも考えられるだろう。

当時、他大学のサークル室などで、連続して不審火が発生し、その火災を理由にして、サークル棟のとり潰しなど学生の自治活動の弾圧が行われた例がいくつもある。勝共-原理研など、募金に反対する文有志の座り込み闘争に反感を持っている個人または団体が存在し、この座り込み闘争つぶしをもくろんで、何か着火力の強いものを外から投げ込むなどして放火した可能性がないとは言えない。(しかし、泊まり込みに際し、暑さのゆえに窓を開けたままにしておいたことなど、外部からの闘争破壊行為に対する警戒心が不十分だったことは認めざるを得ないが。)

そして、火災発生と同じ時刻ころ、学内3か所の火災ベルを鳴らして消防活動を攪乱した人物、「農学部が火事だ」という怪電話を掛けた人物など、不審な人物があった。だが、こうした諸事実については警察による捜査は行われなかった。 こうして、本富士警察署、科学捜査研究所、東京消防庁が合同で行った「現場検証」にもとづいてだされた「原因判定書」によれば、9.22火災は最終的に「原因は不明」と判定されたのである。

しかし、9.22直後には、連続して閣議が開かれ、政府は予断と偏見により 「占拠学生の失火」等々の決めつけ行った上、文相が「失火学生の厳正処分、損害賠償請求」を東大に指示していた。サンケイ等のマスコミはこの事態に関して「学生処分」推進キャンペーンまがいの報道を行なった。座り込みを行なった我々を悪者扱いする報道が全国に流されたたわけである。

ところがこの火災が、消防署によって最終的に原因不明と判定されたことについての新聞報道は「信濃毎日」など一部地方紙によってしかなされず、全国向けのマスコミは知らんふりを決めこみ報じなかったのである。

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反撃の闘い―文有志の「 今道一派打倒! 闘争キャンプ 」、学友会の「 今道退陣要求 」 300署名、学大で長期スト決議

9.22火災直後には、今道は文教授会メンバー、文の事務職員を動員しただけでは足りず、本部から「ゲバ職」をも文学部に導入し、立て看の破壊・撤去を行い、さらにわれわれ文有志メンバー、あるいは学友会の学生たちに暴行を加えるなど、やりたい放題をやった。学部長室付近はもちろん文・学生ホールも立ち入り禁止にし、学友会活動を弾圧した。

しかし、われわれは、文闘争に連帯する全学の労学の支援も受けつつ、こうした今道執行部の攻撃に耐え、また反撃した。今道執行部の、教授会メンバーや事務職員、本部ゲバ職員を動員しての直接攻撃は長続きせず、学生ホール立ち入り禁止処分は10月18日には中止された。

われわれ文有志は10月16日、法文2号館アーケード近くの銀杏並木にテントを張り、「 闘争キャンプ 」を開始した。今道執行部/今道が登場するのを監視し、追及するためであり、また文学部長室は火災後水浸しになり「坐り込み闘争」は不可能だったからでもある。

資料A―6、「闘争キャンプ 闘争宣言」・パンフレット「反百年闘争勝利のために―勝共今道一派打倒」を参照

闘争キャンプ開始の10日後、山本前学部長による募金非協力声明が出されて1年が経った10月26日、文学部で学生集会が開かれ、その場から、今道学部長、梅岡、辻村両評議員、教授会執行部の退陣を要求する署名が開始された。

これに対して、今道は11月6日付の「三たび文学部学生諸君へ」を文学部学生全てに郵送し、 退陣要求署名に応じることへの警告を発し、学生の分断をはかった。
この文書では、当夜宿泊していた学生として(東大闘争の発端となった医学部処分と同様、いなかった者も含め!)3名の学生の実名を上げ、さらに、山本前学部長に対する「騙しうち的な話し合いを強要をした」として私の名をあげ(哲学教授の山本氏が10回もだまし討ちにあったというのだ!)、また七夕団交に関連して、「団交実が徹夜の個人追及を行なった」という事実に反する嫌疑で、そのリーダーの実名を挙げて、攻撃している。

しかし、今道文書による「警告」などにもかかわらず、学部長ら執行部に対する文学部生の怒りは激しく、学生が学部長の退陣を要求するという、おそらくは前代未聞のこの署名は、11月10日までという短期間に300名に達した。

学生大会の一週間前に当たる11月15日、学友会委員会・団交実の主催により、 処分「復活」攻撃粉砕全学総決起集会が、250名の結集をもって開かれた。農学部自治会、医学部自治会、また全学の職員・労働者の参加の他、京都大学同学会よりの参加もあり、この処分問題が決して文学部だけの問題ではなく、4・20文部次官通達・新大管法の先取り実質化としての処分「復活」策動であり、全学、全国の学生・労働者にかけられた問題であることが確認された。

そして、11月22日、300名を超えるの学生の参加で行われた学生大会では、今道学部長らによる学生処分策動を阻止することと、今道の退陣要求を掲げてストライキを行なうことが決議された。

その決議は、「学友会は今道執行部の退陣を要求する」というもので、「そのための団交を文教授会に求め、受諾ない場合、11月29、30日、12月6、7、8日、同月20、21、22、23日、1月18、19日の4波、11日間に渡ってストライキを行う。他方、処分がなされた場合には、処分撤回を求めてその処分が出された翌日から1月26日まで連続ストライキ体制に突入する」という内容であった。

12月11日の「学内広報」には、「12月6日から8日まで学生ストライキを行なって授業を妨害した」として学友会委員長をはじめとする11名の名前を掲載して、恫喝を行なっている。

しかし、12月6日には、全学の教官有志60余名の呼びかけにより、「学生処分復活反対全東大集会」 が開かれた。この集会で、折原浩助教授・高橋晄正講師らにより、10年前の東大闘争の経緯に基づいて「教育的処分」の不当性が明らかにされ、全学の世論に大きな影響を与えた。

また同日、医学部の山村学部長が「百年祭糾弾全医学部実行委員会」との団交の場で、9月22日火災を口実にした学生処分には評議員として反対であり、医学部教授会でも、評議会でも、「教育的処分」を含めた一切の学生処分について現在凍結中である、文教授会が慎重に対応すべきであると考える、という確認を行っている。

さらに、農学部評議員、応用微生物研究所所長、工学部評議員、教養学部評議員がそれぞれ処分に反対、ないしは問題点があることを指摘するなど、全学の評議員の間にも今道学部長の「教育的処分」に対する意見の対立が表面化してきた。そして、文教授会内部でも、意見の立が生じ、総長に対する処分案の上申に際しては、その旨の但し書きが添えられた。

政府文部省から出されていた号令にもかかわらず、向坊総長は、こうした評議会内部の意見対立、および文学部からの上申に添えられた「但し書き」を踏まえ、処分に対して慎重な姿勢をとっていた。

他方、12月下旬ごろ勝共-原理研が表に登場してきて、再度、失火キャンペーンをおこない、今道の処分策動を擁護するビラを撒いたことは上で触れたが、このような勝共-原理研の動きを別とし、今道の処分方針は学内ではすでに孤立しているにもかかわらず、彼は、あくまで処分を強行しようとした。さらに、彼は、処分方針がうまくいかない場合に備え、学生からの追及を「暴力事件」としてでっち上げ、警察に被害届を提出し、警察権力の力を借りて、学生の闘争を抑え込もうともしていた。

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今道による刑事事件デッチ上げによる闘争弾圧策動

今道が「失火」や「占拠」を口実とした処分が不可能となったときに備え、異議申し立てを行なう学生を追放するためにとった最後の方法は、学生の話合い要求行動を彼に対する「暴行」や「傷害」事件としてでっち上げ、官憲の手に売り渡すことであった。

まず、12・26事件というものがある。文学部学友会はこの日予定されていた学部長会議に対して、処分反対の集会とデモンストレーションを準備していたのであるが、そこに通りかかった今道学部長に対して、処分の根拠を問いただし、話し合いに応じるように求めた。

10数人の学生たちは今道を取り囲んで、なんで団交に応じないんだとか、話し合いに応じなさいよとか叫んでいた。今道は例によって、「馬鹿者め」とか「話す必要なんかない」とか繰り返すのみで、止まろうとはせず、今道のコートをつかんで立ち止まらせようとする者がいた程度で、ワイワイガヤガヤとにぎやかではあったが、そこにはなんら「暴力的事態」と呼べるようなものは存在していなかった。「暴力的」というなら、大柄でがっしりした体格の今道が女子交じりの文学部の学生たちを、グイグイ押しまくっていることの方がよほど暴力的に見えた。

というのは私は、たまたま、この現場に通りかかって、30秒か1分ほど、ただ見ていたのである。私は昼から、今道監視・追及「闘争キャンプ」の「当番」になっていて、法文2号館へ行く途中であった。私は文学部学生・院生有志の一員として反百年ー新大管法攻撃に対する闘争を担っているのであり、文・学友会の学生たちと同じく文学部当局と闘っているにせよ、運動体は別であり、なんでも一緒くたにやっていたのではないから、もし、ここでこの今道に対する団交要求行動にかかわっても、私が学生たちよりも前に出て今道追及をやるというわけにもいかなかった。

もちろん、文有志のメンバーでも学部学生なら、学友会の一員として、この場の今道追及の先頭に立つことは構わない。ところが、鈴木や三好は他の所で活動を行っており、その時はこの場にはいなかった。

それで私は今道を取り囲んだ文・学友会の学生たちの輪の外に立ったまま、今道に「話し合いに応じたらどうなんだ」と一声か二声、声をかけただけでそこを立ち去ったのである。

そのあと本部職員と警察官がやってきて今道を「助けだし」た。救急車もやってきたが、今道はすぐに乗ろうとせず、わきに立って本部職員や警察官としばらく立ち話を続けていたという。

これがのちに、今道に話し合い要求を行なっていた学友会委員らとともに、不在の三好、鈴木、そして現場を通りかかって、一声か二声、声を発しただけの私を含む、多数の学生を告訴した「12・26事件」の一部始終である。

ところがもう一つ11・7事件というものがある。これは最終的に三好君の起訴につながったもので、次のようなものだ。

当日、10時頃今道は運転手付きの公用車に乗ってきて学部長室のある法文二号館の玄関前で降りた。この時、少し離れた場所にあった「闘争キャンプ」にいた文有志のメンバー三好、森田、S2〔現在、連絡がとれず、実名掲載の了解を得てないので、仮名にしておく〕の3人が今道のもとに駆けよった。今道は鈴木もいたと証言しているが、複数の文学部事務室職員が証言している通り鈴木はいなかった。

三好及び森田が今道文学部長の前に立ちふさがったところ、同人はいつものように相手を挑発するように、肩や腕で学生らを強く押して前進し、ついには学生3名と今道文学部長はもみ合い状態となった。学生らは学部祭の中止、あるいは学生処分等の問題について今道文学部長に問い質していた。

しかし事務職員数名が学部長を迎えに玄関前まで出てきており、学生たち3名に手をかけ、学生らを押したり引いたりして今道文学部長から強引に引き離した。

それゆえ、今道文学部長は容易に玄関から中のホールに入ってしまったのである。これに続いて学生3名と事務職員らもホールに入って若干入り乱れ、あるいは団子状になり、三好君のからだが今道のからだに接触したか接触しそうになった瞬間、今道が「貴様殴ったな」と言った。

三好君が今道を殴った事実はなく、その場に居合わせた職員らも、一人として、彼が暴行したのを目撃していない。学生らは口々に「デッチ上げするな」、「ウソをつくな」と抗議した。

結局、事務員が今道文学部長と学生たちの両者を引き離し、今道は奥の方へ進み、二階へと向かった。同人はいつものように「馬鹿者」、「愚か者」と大声で学生らに罵声を浴びせながら階段を上り、学生らを見下すようにして去っていった。
これは、のちの公判で明らかになった「11・7事件」の現場の状況である。

今道は以前から心臓の持病で、東大の保健センターに通っていた。彼は11・7事件を暴行・傷害事件としてでっち上げようと考えたのであろう。翌11月8日に保健センターに行き、被害についての診断書を手に入れようとした。

同人は、学生に殴られたせいで、「胸が痛む」「気分が悪い」「吐き気がする」と医者に訴えたが、その症状が、暴行を受けたことによるものなのか、持病の不整脈に伴って生じる胸の圧迫感によるものなのか、あるいはまた心労に伴う食欲不振によるものか分からず、医師は心臓病の薬(インデラール)、消化剤(フェストール)、貼ると気分のすっきりする湿布薬(パテックス、ヘルペックス)を次々に出すこととなった。

また痛みは常に胸全体に関するものであり、傷害の部位がどこであるかを特定できなかったが、今道の診断書への執着は強く、担当の医師は、今道の「求めに応じて」11月30日になって改めて診察し、診断書を作成した。「暴行による傷害」という診断書の記載も、この日に、本人の訴えだけで記載されたものであり、客観的根拠に基づくものでは全くなかった。

後に医者の証言として前鋸筋にできていたミオジローシスというしこりは外傷によっておこるのでなく不整脈によって生じるものだということもわかった。

この今道によるデッチ上げ傷害事件の裁判に関しては裁判所の不当判決に対する批判もふくめて次の第4章で詳しく述べる。

今道は、最終的に、この「11.7事件」で三好君を告訴した。しかし、それだけでなく、「12.26事件」でも、私を含む多くの学生の名前をあげて、「暴行」の被害届を警察に行ったのである。今道は、あらゆる手を使って、反百年の運動をつぶそうとし、活動家をパージしようと策動を続けていた。

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78年末から年明けにかけて、処分反対運動の高まり

だが、すでに述べたように、12月6日には、全学の教官有志の呼びかけによる「学生処分復活反対全東大集会」 が開かれ、また医学部の山村学部長をはじめとして学内の部局長や評議員の間にも、今道学部長の「教育的処分」に反対するかあるいは疑問視する声が広がっていった。

12月末、本郷消防署は、9月22日の文学部長室の火災ついての原因判定書を提出した。そこでは「火災原因は不明である」とされていた。これをもって、この火災事件に対する消防当局としての最終的決着がつけられたのである。

また、 年が明けた1979年1月18日には、文学部学友会・京都大学全学自治会同学会・同志社大学学友会中央常任委員会の呼びかけで「1.18東大闘争10年 新大管法ー処分攻撃粉砕 4.20通達実質化攻撃粉砕 全国学生集会」が、全国20数大学、500名の学生を集めて安田講堂前で開かれた。

この集会では、東大における処分復活が、全国大学に対する更なる管理強化の水路を切り拓くものであり、全国大学の再編をいよいよ推し進めるものであるととらえ、全国の大学生が共に処分に反対して闘うことの必要が確認された。

1月26日、文学部学生大会は「年内処分粉砕闘争の勝利を踏まえ、処分完全粉砕に向け闘おう!」という学友会委員会・団交実の提案が149対62で可決された。と同時に、この決議に基づいて銀杏並木に「処分粉砕監視追及ポイント」 を設置し、文教授会・学部長会議・評議会に対する連続抗議行動を継続した。

こうした、文学部生の処分反対の闘いの高まりとともに、他大学とも連帯した闘争、また学内教官有志による「処分反対」の運動が行われ、また、他部局の部局長や評議員等の反対意見の表明がなされるなど、今道の処分策動は、ほぼ完全に粉砕できたと思われた。

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東京地裁からの「証人召喚」攻撃 

ところが、きわめて奇異なことに、1979年1月中旬、東京地方裁判所刑事14部から、火災発生当時文学部長室にいた鈴木君、三好君らに対し、「 被疑者不詳の文学部長室失火事件」について刑事訴訟法226条に基づき、証人として喚問したいとの召喚状が送付されてきた。

刑事訴訟法226条は
「犯罪の捜査に欠くことができない知識を有すると明らかに認められるものが、第223条第一項の規定による取り調べに対して、出頭または供述を拒んだ場合には、第一回の公判期日前に限り、検察官は、裁判官にそのものの証人尋問を請求することができる。」というもので、
第223条の第一項とは
「検察官・検察事務官、または司法警察職員は、犯罪の捜査をするにについて必要があるときは、被疑者以外の者の出頭を求め、これを取り調べ---ることができる。」というものである。
そして、第228条には、226条による尋問に関し、「裁判官が、捜査の支障のおそれがないときは、----弁護人を立ち会わせることができる」とあって弁護人の立ち合いは必要とはされていない。つまりの弁護人抜きで行うことができる、ことになっている。そして、第152条では、「裁判所は、証人が、正当な理由がなく、召喚に応じないとき、又は応じないおそれがあるときは、その証人を勾引することができる」とある。
(弁護人抜きで裁判官と検察官だけで取り調べを行える刑訴法第226条から228条の条項は、戦前の予審制度と実質同じで、終戦直後GHQによる司法改革のための日米協議においても問題となった条項だという。)

しかし、この「召喚」には重大な問題があった。

第一に、そもそも、消防署当局が原因不明とした文学部長室の出火事件について、「失火」と規定して「証人喚問」することが不当であった。また、この現場に居合わせた三好君らは、9月22日当日、現場から半ば強制的に本富士署に連行され、 その場で事情聴取に応じており、その後の任意の取り調べにも応じている。

そしてその後は検察から呼び出しはなく、したがって、第223条第一項に規定する検察・警察などによる取り調べに対して「出頭または供述を拒んだ」こともない。したがって、また、検察が、裁判所による喚問を請求することはできないはずである。

改めて「文学部長室失火事件」についての証言を求める必要があるのか、何故、誰によって、「文学部長室失火事件」が「事件」化されているのか、ということが問題であった。

第二に、文学部長室火災直後からの新聞報道などではいずれも「学生の失火」を強く示唆する報道がなされ、閣議においても「失火学生」という発言がなされるなど、火災現場に居合わせた学生らに対しては事実上被疑者扱いがなされた。しかも、消防署による出火原因の判定書では正式に「原因不明」とされたにも関わらずこの結果はほとんど報道されなかった。したがって、一部には、当夜泊まり込んでいた者を依然として「被疑者扱い」をしている可能性があった。

裁判所が単に「参考人」として喚問しているのなら、出頭せずにいることはそれ自体罪となるので、それを拒むのは難しい。だが、「応じないか応じないおそれがある」場合には「勾引」するという。そして、いずれにしても、弁護人抜きの密室裁判を行おうというのだ。

まさしく、裁判所が検察と一体となって、「失火」罪をでっち上げようというのだ。そしてこの裏には、政府文部省の東大への強い介入姿勢がある。
1月31日内藤文相は、あらためて東大に対し学生処分の指示を行った。また2月3日には精神科赤レンガ病棟に対する「正常化」指令がなされ、2月5日には東大三鷹寮に「ゲバ棒が集められている」という全く事実無根の発言が、国会で相次いでなされている。こうした政府ー文部省の圧力下で、密室裁判によって我々を裁こうというのだ。

我々はこれに対し、この刑訴法226による証人喚問そのものの不当性・違法性を問題にして、法律家の「喚問中止を求める署名」を集めて裁判所に提出し、「証人喚問」をやめさせようという方針になった。私が署名集めの役を務めることになり、銀座や新橋など法律事務所が多く集まっている場所を回り、弁護士一人一人に説明し、署名を集めた。

この署名は裁判所が定めた短い出頭期限内に提出することはむりであったが、2月17日までに40数名の弁護士から集めることができた。そして2月17日には、農・文・ 医3学部自治会 、東大教官有志、および署名に賛同してもらった弁護士の呼びかけで、「司法のファッショ化を許すな―労学市民集会」が開かれ、法学者、弁護士、救援団体などからの意見表明がなされて、200名を超える参加者が、この裁判所による「証人召喚」に対する抗議を表明した。

「証人召喚」に応じようとしない我々に対し、裁判所あるいは検察による「勾引」その他何らかの弾圧が迫っていることを感じた我々は、われわれの闘争を支援していた、東大闘争や臨職闘争の中で逮捕された経験のある人々にも加わってもらい、万一の場合に備えて救対会議を開き、
まず、第一に、逮捕されたら救援連絡センターに連絡すること、電話は(東京03)591ー1301=「獄入り意味多い」だと覚えた。

『東大闘争裁判ニュース』No.23、’71.5.25の「救援会運動の方向性」という記事によると、救援連絡センターは、’69.1.18~19東大闘争と4・28沖縄闘争を契機に、各地域、職場、学園で救援運動が起こり、多数の救援組織、会が生まれたが、救援連絡センターはそれら救援運動の「情報集中と情宣のセンター」だという。

われわれは警察に逮捕されたら、まずここに連絡して自分が無事かどうか、逮捕され、どこに勾留されているかを知らせ、仲間の救援をまつべきであり、何か聞かれたら黙秘する、「仲間の名前を言えばすぐ出してやる」などという警察の甘言・おどしににだまされたり・屈したりしないようにする、ということを確認し合った。

〔追加〕 戦前、戦中の「予審制度」では、裁判官と検察のみの密室審理で多くの思想犯の処罰が行われた。法律学者や弁護士の中には、この刑訴法226条(そして、227条、228条)は、現行憲法に違反する条項だと指摘する人もある。

神戸学院法学第43巻第 4 号 (2014年3月) 、「刑事訴訟法第227条について」 大場史朗 は、戦後GHQ統治下での米国との協議過程を通じて226~228条が現行規定になった経緯を明らかにしつつ、これら条項の問題点を指摘している。大場によれば、

本来、「予審は検事の起訴をチェックする機能を有していたはずである が,日本においては,予審判事と検事が癒着し,「予審判事は検事の書 記」「予審判事は検事の馬なり」「予審判事ハ実際上殆ンド検事ノ手足」 という情況も生まれた。注 (9) 家永三郎『司法権独立の歴史的考察』(1962)26頁以下 」p217
「227条は,現行法の規定とは整合しない「旧法の遺物」 といえる。226条についてもほぼ同様の問題性が看取できる。 やはり, 226条及び227条は違憲とするのが素直な解釈であろう。 」p247
「226条による公判前証人尋問も,参考人に対し強制的に証言義務を課 し,被疑者,被告人又は弁護人の立会いも保障されないことから違憲の疑 いが強い。 」p248
「226条及び227条の立法趣旨には, なんら憲法的な根拠は存在しない。また,なんら法理論的な根拠も存在 しない。あるのは,戦後混乱期の治安維持という「裸の政策」であり, それも特殊時代的なそれであった。」p249
東大闘争前から強まっていた司法の反動化は依然として続いており、三好君の「召喚」は、この「戦後混乱期の治安維持」という政策と同様の政策の下、「判事と検事の癒着」によっておこなわれたのだ。

日弁連も2014年5月8日の「捜査段階で裁判所が関与する手続の記録の整備に関する意見書」で
令状を発布する権限を有する「裁判所に、令状関係の記録がのこされていないこと」及び、「裁判所に保存されるのは逮捕状請求書謄本のみであり,裁判所が自らの主体性と責任において令状事務の適正さを検証できるシステムになっていない」ことを指摘し、「これでは,裁判所が捜査機関と被疑者・弁護人の双方の主張の上に立って,憲法上要請されている審査機能を果たすことは不可能であるという外はない」としている。 また、「刑事訴訟法第226条及び第227条による尋問請求に関して
「現状は裁判所には、証人尋問請求書と尋問調書が残されておらず,記録の全てが検察官に送付されるものとしており,ここでも裁判官は捜査機関の下請け的な地位に甘んじていると言わなければならない」と批判している。

  〔家永三郎がいう通り、「判事は検事の書記」「判事ハ実際上殆ンド検事ノ手足」になってしまっているのだ。〕

しかし、この「意見書」では令状事務に関する問題点の指摘とにとどまり、刑事訴訟規則の改正を求めているだけで、刑訴法226条等、刑訴法自体の問題点には触れていない。

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文教授会が処分案上申、3名がハンストに突入、2.14弾圧 

「こうして証人召喚ができなくなる中で、第2章第3節で述べたように政府-文部省の国会答弁を通じての学生処分要請が行われたのが1月末から2月初頭にかけてであった。
これを承ける形で、2月7日文学部教授会の定例教授会が開かれ、さらに3日後の2月10日には霞ヶ関ビル33階で臨時教授会が行われた。
いずれも学生の学年末試験の最中に開催されたもので、10日の臨時教授会では処分案が決定した。同時にこの時期、今道学部長より被害届が出されたことが第2回公判の証人今道の証言で明らかになっている。」(『冒陳』第3章「2・14弾圧―刑事事件化による攻撃 」 第2節「2.14弾圧」p61 から引用)

「 我々を取りまく状況は、まず春休みに入っており、しかも司法がらみの弾圧攻勢にさらされる中で、いつ何時〔召喚のための〕強制勾引を受けるかわからないといういう極めて困難なものであった。しかし、なおかつこの処分攻撃とあくまでも対決し抜き、当局に肉薄し、全学的な反撃の闘いの主軸となる、断乎とした闘いが要請されていた。
こうした状況の中で、今道によって処分対象と名指しされていた学生のうち3名が、2月13日より、ハンガーストライキ闘争に突入した。」
( 文有志「文・学生ホール解放と反百年=募金阻止の闘争の前進に向けて― 中間総括1977.4~79.5」、p5)

2月14日夜、学生ホールでは、今道による処分攻撃に対する抗議行動としてハンガーストライキが行なわれており、学友会のメンバーが数十名、支援と防衛のために集まっていた。

私はその数日前から、新橋周辺の弁護士事務所を回り、我々にかけられている刑訴法226条による「証人召喚」攻撃に反対する署名集めを行っていた。

夜になって、私が大学に戻ってくると、文学部学生ホールの周辺に人だかりがしている。そしてその向こう側に機動隊がならんでいて盾で細い通路を作り、その間を学生が隊列を作って文ホールから出てこようとしていた。

後で知ったったことだが、今道の要請に従って機動隊が導入され、文ホール内の学生に退去命令が出されたのである。この時、私服警官が学生の顔を一人一人チェックして、あらかじめ予定していた学生を逮捕したという。

私は人だかりに交じってぼんやりとみていたのだが、近くにいた本部職員らしい男が私の方を指さしたようだった。そして次の瞬間、両側からガシッとからだを捉まえられ、抵抗することができないまま、パトカーにひっぱり込まれ、本富士署に連行された。手錠を掛けられたかどうか覚えていない。

この日逮捕されたのは、学友会委員長の篠田君と、文有志メンバーの三好君と私の3人であった。逮捕容疑は、すでに上で述べた「12・26事件」の「集団暴行」である。

逮捕状は全部で10人ほどの学生に出ていたが、すべて今道の告訴によるものであった。しかし、上でも述べたように、三好君は12.26の団交要求行動の場にはいなかったのである。今道は、反百年・募金阻止運動/闘争を行っていた主要メンバーを狙い撃ちにして告訴したのである。

東大闘争の発端となった、医学部の処分、すなわち、不在であった粒良君を含む、活動家を狙い撃ちした大量処分とまったく同様の弾圧を、今道は処分の代わりに、警察権力を利用して行おうとしたのである。

警察・検察は、この3人を、団交要求行動=「集団暴行」の首謀者として逮捕し、23日間勾留したのだが、起訴できなかった。現場を目撃した人は沢山いたが「暴行」を見た人は誰一人いなかった(存在しないものを見ることは不可能である)からであろう。

しかし、検察は、同じく今道が届け出ていた他の事件で、三好君を告発する。11・7「暴行傷害」事件のデッチ上げである。検察は、政府・文部省の「東大正常化」、弾圧指令が出ているにもかかわらず、裁判所とのチームプレー・「証人召喚」でやろうとした「学部長室失火」事件のデッチ上げに失敗しており、なんとしてでも面目を回復したかったのである。

しかし、この11.7事件での起訴は逮捕状もなしに行われたもので「公訴権の濫用に他ならない」違法、不当な起訴であった。章を改めて、この裁判については詳しく述べる。

再び文有志「中間総括1977.4~79.5」によると
今道は「学生3名を、2月14日のこの警察力=機動隊により逮捕し去り、長期勾留を行い、さらにあと10数名の逮捕状発行という恫喝を行って、闘争を圧し潰そうとした-----。

しかし、13日のハンスト決行によって打ち出された闘いの強い決意と方向性は、2.15緊急集会の即反撃から、2.23文・学生大会、3.2抗議大集会へとひきつがれ、2.14弾圧に対する反撃と処分完全粉砕に向けての体制を確固たるものとした。

こうして我々は司法―警察権力からの攻撃をはねのけつつ、文学部をはじめとする全学の学友・労働者と連帯し、評議会、学部長会議への連続実力闘争を貫徹し抜くことによって、ついに処分を完全に粉砕したのである。」

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3・27 「 総長声明 」、我々の「 中間総括 」 

向坊‐総長室は、3月27日「総長声明」を発し(学内広報440号)。この声明は、一方で、大学当局者内においても反対の声が強かった処分を、結局断念することを公にしているが、他方で、今道文学部長の様々な弾圧を追認するものとしてあり、また2・14弾圧も追認している。そして新たな処分制度を目論むなど、管理強化へと進む方向性を打ち出したものである。

われわれ文学部学生・院生有志は 「 治安管理強化攻撃に抗し、文ホール解放と反百年・募金阻止闘争の前進に向けて 」中間総括、1977.4~79.5」(資料A-7)を発表し、この3・27総長声明に反論した。以下はその概略である。

3.27「声明」は、それまでの文学部における反百年・募金阻止闘争、すなわち、募金反対の文学部生400署名を尊重して出された山本前学部長の募金非協力声明を一方的に破棄した文教授会への抗議、話し合いを拒否して逃亡する文当局に対する話し合い要求行動としての坐り込み等々の行動を、「暴力」、「業務妨害」、などと捻じ曲げて決めつけ、機動隊導入によって ハンスト=抗議闘争を圧殺し、活動的メンバーを逮捕起訴した2.14弾圧の正当化を図っていると、糾弾している。

また、総長は処分制度の整備など管理強化方針を打ち出しているが、すでに前年の4.20文部次官通達を受け、文学部、農学部などで夜間ロックアウト行い、それを続けており、教養、工学部においては教室使用の制限を行っていること、さらに3.27声明の実質化の一歩として五月祭に対しても教室使用制限や「念書」提出攻撃を行っていることに、抗議を行っている。

このような管理強化攻撃に対して、文学部では、「文ホールロックアウト粉砕―3・27声明弾劾」を掲げて、4月の20日間ストが打ちぬかれた。五月祭に対する管理強化攻撃に対しては、文学部の多くの学科や当該企画から次々に糾弾アピールや決議があげられるなど、大衆的な運動の展開がなされたことを報告している。

「学内治安管理強化の背景」として、オイルショック以来の不況をなんとか打開しようと、日本帝国主義は、国内的には、省資源・知識集約型産業構造への転換を掲げ、大量首切りなどの合理化攻撃・倒産攻撃及びそれに伴う、そしてまた自民党単独支配政権の崩壊による政治的不安定状況を治安管理強化によってのりきることを不可欠の課題としている。同時に東南アジア等の利益防衛のための自衛隊の強化(それは治安部隊である)が進行している、と指摘した。

そして、こうした治安管理強化攻撃に呼応して、文部省による大学管理強化攻撃がおこなわれていて、4.20次官通達はその一環であると述べて、九州地区の大学は軒並み、自主管理権を奪われたり、強権的な使用制限を受けている。また、阪大、千葉大、北大等では昨年から今年にかけて次々と不審火が発生、それを契機に学館の使用制限やサークル名簿提出強制などの管理強化や攻撃がかけられており、文ホールロックアウトの場合と酷似している、と書いた。

また、東大の移転再編の動向として、立川の米軍基地跡の利用に関する国土庁の案で自衛隊基地化等が優先されており東大は立川移転を断念したこと、従来の総合大学院計画委と並んで、大学院総合計画委員会を設置し、再編計画の変更、手直しを行おうとしていること、国のレベルでの公務員に対する定員削減、合理化攻撃が強まっていることを背景に、学内での臨職定員化は止まってしまい、逆に臨職の首切りがおこなわれており、臨職問題での団交を逃亡する部局が続出していること、等を報告している。

末尾の「闘いの方向性」では、3.27総長声明は「文闘争への全面歪曲キャンペーンであるとともに、新大管法=4.20通達を背景としつつ学内管理強化を宣言したもの」で「その突出的あらわれが学生ホール・学友会室ロックアウトという自治会活動圧殺攻撃である。」と述べ、「われわれは坐り込み闘争、9.22以降の闘いによって獲得したすべてをかけて文学生ホール解放を闘い抜き、学生自主管理の思想と実践とを打ち鍛えつつ、反百年の拠点を奪還・創造してゆくことを決意表明する。
同時に、治安管理強化攻撃と闘う全学の諸戦線と連帯しつつ、新大管法がらみのこうした攻撃と全面的に闘ってゆきたい。またわれわれは、反百年・募金阻止闘争の深化・発展に向け全力で闘い抜く。」と述べた。

そして、実際、「文学部募金非協力声明」を空洞化・破棄した今道=文教授会に対する一年半に及ぶ反撃によって、「百億円募金を大頓挫させ、当局は、この4月には募金計画を60億円へと縮小変更せざるを得なくなった」ことを報告している。

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卒業、就職、進学等の問題 

79年春、4月、処分を粉砕したことで闘争は一段落し、反百年祭闘争に参加した学友会メンバーの多くは、一部の中心メンバーを残して、卒業した。私は大学院をドクターコースまで終了したあとで就職口探しに少々苦労した(10年ちょっとの浪人)程度だったが、反百年祭闘争に関わりをもったものは、学部生は大学院への進学が、修士課程にいた院生は博士課程への進学が難しくなった。

進学を予定していた学部学生の多くは、主任教授に楯突いたとして、東大大学院への進学ができなくなり、他大学の大学院に移った。4年で卒業を控えた学友会委員の指導的メンバーは闘争を続けるために、卒業を1年遅らせた。そして、大学院は他の大学に変えた。

今道はゼミを受けていた学部生に対して募金に反対しているものは出て行けと学生を授業からパージし必要な単位を与えないということすらやった。
学友会委員を務めた熱心な活動家で大学院に進学することにしていたある学生は、募金非協力声明空洞化問題で主任教授の追及に加わった後、闘争と大学院進学の間の板挟みに悩んで自ら命を絶ってしまった。

東京で “ちゃんとした” 職業に就いた者もいるが、卒業するにはしたが、アルバイト的に予備校の講師をしたり、仲間とともに塾を作って生活を立てたりし、こうやって何年間か東京で暮らした後、田舎に帰り(Uターン)あるいは初めての土地に行って(Jターン)農業を始めた者もいる。反百年祭闘争がなければ、こうしたコースはなかったのではないか。

--------------- 2年間闘った文学部学生たちのほとんどが、今道による処分攻撃と2.14弾圧を粉砕して(三好君の裁判は別として)卒業した後、新たに駒場から進学してきた学生たちが、数年間、新大管法攻撃・新たな処分ん制度制定を阻止すべく、闘いを継続した。 80年に学友会委員長になったK 君は心理学科生だったが、卒業後は大阪の大学の医学部に入り直した。結婚した相手の女性は看護婦であったが子供もいて彼も働く必要があったのだろう。昼は医学部学生として大学に通い、 夜は相当にきついアルバイトを続けていたようだ。91年に硬膜下出血で早死にしている。彼は「東大の百年」の "反人民性”を知り、心理学が一種の机上の学問にすぎず、病気で苦しむ人に直接かかわる実践的な職業に就こうとしたのではないだろうか。

私は1981年にドクターコースを「満期終了」して東大の籍はなくなり、できればどこかの大学に就職したいと思っていた。90年代には大学教員は公募が一般的になったが、80年代には学界で顔の利く東大や京大などの教授がいくつもの国立大の教員のポスト握っていて、その教授の紹介によって就職するというのがふつうであった。何らかの理由でその教授に紹介をしてもらえない者は、知り合いの先輩にたのんだり、研究業績のあるものは系列ではない私立大学などに自分で就職先を見つけた。

私は大学院に入ったころから臨職闘争や反百年祭闘争にかかわったりしていて、「研究業績」がわずかしかなかった上、文学部教授会を敵に回して闘ったので、当然教授から声がかかることはなく、友達が務めている大学や、かれが紹介してくれた他の大学で、非常勤講師をいくつか掛け持ちで担当するしかなかった。 

今道は執念深かった。倫理学科大学院の教官であった城塚教授が、当時発足したばかりの放送大学の哲学関係科目の講師に私を推薦してくれたのだが、哲学系学科の総責任者であった今道が「須藤はダメだ」と答えたために採用されなかったという。

妻はOT(作業療法士)の有資格者で、はじめ臨職で赤レンガに勤めたが、病院の臨職闘争で定員化された。私が通産省を辞めて学生に戻ると、妻が「主たる家計の支持者」になったが、私も、ずっとアルバイトをしていた。「学力増進会」(?)という全共闘派だった人たちのやっていた会の紹介で教員免許はなかったが私立の高校で数学の講師をやったり、臨職闘争に関わったおかげで、(当時農学部助手で後茨城大の教授になった)丹羽さんから紹介してもらった予備校に週一回通ってかなりよいアルバイトをしたりと、経済的にはあまり苦労することはなかった。

処分に失敗した今道が最後に行なったのが活動家メンバーを「暴力事件」で警察に告訴するということであった。今道は、12.26の団交要求を行った学生10人ほどを(現場にいなかった者も含め)「集団暴行」で警察に訴え、また11・7の闘争キャンプで今道の責任を追及した三好君を「暴行傷害」で訴えた。三好君は2.14弾圧で逮捕された3人のうちの1人だが、2.14逮捕容疑は12.26の「集団暴行」であった。すでに上で述べたが、検察は12.26事件ではだれも起訴できなかった。検察は別件容疑で逮捕してから11.7事件をデッチ上げ起訴したのである。

教官たちは給料をもらいながら学生に対峙する。9.22後は処分のおどしによって募金反対闘争を抑え込めると考え、それが不可能で今道退陣要求の声が高まると、年明けには、警察―検察―裁判所の力を借りて活動家を拉致し運動を物理的に弾圧し、そして、3月になり卒業や他大学への転出などによって運動参加者の人数が減るのを待った。

しかし、79年4月にも駒塲から進学してくる学生の相当数が反百年祭闘争を支持し、我々の呼びかけに応え、運動に加わった。学友会執行部はその後少なくとも2年間は反百年派が占めた。

われわれは、新たに加わったメンバーとともに、学内では引き続き10.26「文学部募金非協力」の確認破棄に関して文教授会の責任追及を行い、また4.20通達・新大管法攻撃による大学の管理強化に反対する闘いを継続した一方で、直接的な国家権力、すなわち政府の弾圧指令のもと一体化した司法・検察権力との闘いである、三好君の裁判闘争を闘った。

新たに、3.27声明を契機に日本育英会が何の根拠もなくまた基準も無視して、反百年祭闘争に関わっていた農学部と教育学部の学生の奨学金を停止したことがわかった。77年4.20通達ー新大管法攻撃の一環であることは明らかで、奨学金停止は実質的な処分だった。「育英会奨学金停止処分を撤回させる会」が作られ、大場学生部長と交渉を重ね、処分の不当性を認めさせるとともに、奨学金復活の働きかけを行わせた。

大学当局は、3.27声明で処分制度の整備を打ち出し、9月の評議会で「処分制度検討委員会」を発足させ、12月に第一次中間答申を行った。80年6月に第二次答申を出そうとしたのに対し、文学部学友会委員会、農学部自治会正副委員長書記局、育英会奨学金停止処分を撤回させる会、東大教官有志の呼びかけで、「撃て、処分制度!6.25全東大集会―反動攻撃に呼応した学内管理強化を許すな」を開催し、新処分制度阻止に向け、「検討委」の審議を中止するように求めた。

結局我々の闘い継続によって「処分制度の整備」はできず、「東京大学学生懲戒処分規程」が制定されたのは、20年以上後の平成16年(2004年)であり、それに関して私は何か述べようとは思わない。現在の東大の学生管理のありかたについては、現在の学生たちが考えることだろう。

こうして、われわれは学内管理強化に反対する闘いを継続する一方で、直接的な国家権力、すなわち政府の弾圧指令のもとで、一体化した司法・検察権力との闘いである、三好君の裁判闘争を闘った。

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